第49話 道のり
金曜日、実家に帰る日
天気は曇りだった。
寮の窓から見える鉛色の空、
昨日の天気予報では雨は降らないと言っていたが、気温が下がるらしい。
彩佳はベッドの上でしばらく天井を見ていた。
昨日の夜、荷物は何度も確認した。
薬も入れた。
保険証も入れた。
充電器も、着替えも、マスクも、必要なものはちゃんと入っている。
それでも、何かを忘れているような気がした。
たぶん物ではない。
気持ちの準備が、どこかに置き去りになっている。
十時過ぎに出ることにしていた。
通勤時間を避けるためだ。
それでも都心を通る以上、人は多いだろう。
長い移動になる。
午後にはたぶん落ちる。
そんなことを考えていると、胸の奥が少しだけ重くなった。
ドアが軽くノックされた。
「おはよ」
早苗だった。
すでにカバンを背負っており準備はできているようだ。
「おはよう」
彩佳が返すと、早苗は部屋へ入り、床に置かれたカバンを見た。
「準備できてる?」
「たぶん」
「その“たぶん”怖い」
「昨日、早苗が見てくれたから大丈夫なはず」
「私の責任にしないで」
早苗はそう言いながらも、カバンの中を簡単に確認する。
薬、財布、充電器、保険証。
ひと通り見てから頷いた。
「大丈夫そう」
「よかった」
「荷物は私が持つ」
「そこまでじゃないよ」
「都心の乗り換えだけでも持つ」
早苗は即答した。
「今日は体力を荷物に使わない」
彩佳は反論しかけて、やめた。
こういう時に無理を言わないことも、最近覚え始めた。
「悪いね」
最近聞いたようなその返しに少しだけ早苗は笑う。
「はい」
早苗の様子がいつも通りで、彩佳も少しだけ気持ちが落ち着いた。
寮を出ると、空気は冷たかった。
昨日より少し風がある。
でも、日差しは明るい。
敷地の坂をゆっくり下りながら、彩佳はラクトセラムの建物を横目で見た。
ワクチン接種の準備が始まってから、会社の動きは以前よりも忙しなくなっている。
寮の食堂でもワクチン接種の話題をよく耳にするようになった。
けれど彩佳は、その流れの外側にいる。
休むように言われ、リハビリをして、今日は実家へ帰る。
それが必要なことだと分かっていても、少しだけ不思議だった。
「歩く速さ、大丈夫?」
早苗が訊く。
「うん」
「朝だからまだ平気」
「その言い方、午後が怖い」
「私も怖い」
「じゃあ無理しない」
「はい」
会社から駅までは距離があるため通りに出てバスに乗る。
十時過ぎのバスは空いていて、二人並んで座席に座った。
車内放送では感染防止のアナウンスが流れ、乗客は皆マスクを着けている。
感染症はまだ続いているのだと改めて実感する
十分程で駅に到着すると、バスを降りてロータリーを歩く。
曇り空の冷たい空気の中を歩いていると、身体は少しずつ動きに慣れていった。
電車に乗る頃には、少しだけ緊張が別の形になっていた。
行くしかない、という感じだった。
最初の電車は比較的空いていた。
座席に並んで座り、カバンを膝の上に置いて窓の外を見た。
建物が流れていく。
見慣れた沿線の景色のはずなのに、今日はどこか距離がある。
「緊張してる?」
早苗が小さく訊く。
「まだ大丈夫」
「まだ」
「今日は全部“まだ”がつくかも」
「じゃあ、早めに止まる」
そう言って、早苗は乗り換え案内をスマホで確認した。
どの駅で乗り換えるか。
どこにエレベーターがあるか。
どのホームが混みそうか。
早苗は口には出さないが、かなり細かく見ている。
彩佳はそれに気づいて、少しだけ申し訳なくなる。
「ごめんね」
「何が」
「色々、考えさせてる」
「必要だから考えてるだけ」
「でも」
「謝るの禁止」
「そうだった」
何度も言われているのに、まだ口をついて出る。
でも、早苗が毎回同じように止めてくれるから、少しずつ戻れる。
都心に近づくにつれて、車内の人は増えていった。
乗り換え駅で降りると、空気が一気に変わった。
人の足音、アナウンス、改札へ向かう流れ、ホームへ降りる人の列。
それぞれが急いでいて、誰も立ち止まらない。
彩佳は思わず歩幅を小さくした。
左側の音が、少し遠い。
右から来る声や足音は掴めるのに、左の気配は遅れて届く。
それはラクトセラムの中ではまだ何とかなる違和感だった。
でも、人が多い場所では、それだけで周囲の流れが少し読みにくくなる。
早苗は二人分の荷物を抱えたまま人混みを分けるように彩佳の一歩前を進む。
自然な動きだった。
でも、明らかに意識しているのが分かった。
人の多い通路の端を、二人はゆっくり進んだ。
階段の多い駅の中を急ぎ足で歩く人の流れにはまだついていけそうにない。
早苗が少し前に出て、彩佳の左側を塞ぐように歩く。
彩佳は右側の人の流れを見ながら、足元を確認して進んだ。
乗り換え通路の途中だった。
各路線のホームに分かれる広い通路に入った時、誰かが左後ろから走ってきていた。
彩佳が気付いたのは肩に軽く衝撃が来る直前だった。
身体が小さく揺れる。
「あっ」
ぶつかった人は若い会社員らしく、手にスマホを持ったまま振り返った。
「すみません!」
それだけ言うと、相手は急いでいたのか、すぐに人の流れへ戻っていった。
「すみません……」
彩佳も反射的に謝った。
大した衝突ではない。
転んだわけでもない。
どこかを痛めたわけでもない。
でも、胸の奥が一瞬だけ強く鳴った。
「大丈夫?」
通路の端に移動して早苗がすぐに訊く。
「うん」
「ちょっとびっくりしただけ」
早苗は走っていった相手の背中を少しだけ不満そうに見た。
けれど、すぐに彩佳へ向き直る。
「ごめん」
早苗が言った。
「え、なんで早苗が謝るの」
「私の位置が悪かった」
「違うよ」
彩佳は首を振る。
「私が気づくの遅かっただけ」
「それも違う」
早苗は少しだけ強めに言う。
「人が多い場所で走る方が悪い」
その言い方に、彩佳は少しだけ笑いそうになった。
早苗が怒っているのは、自分のためだと分かるから、少し胸が温かくなる。
「でも、トラブルにならなくてよかった」
「それはそう」
「次から、もっと左見て歩く」
「左は私が見る」
早苗が言う。
「彩佳は右と前」
「役割分担?」
「そう」
「了解」
そのあとは、人の多い場所では早苗が意識して彩佳の左側に立った。
エスカレーターの前でも、改札を抜ける時も、ホームへ向かう階段でも。
彩佳が言わなくても、早苗は位置を少しずつ変えてくれる。
それが、ありがたくて、少しだけ申し訳なくて、でもやっぱり心強かった。
都心の乗り換えを終え、次の電車に乗ると、ようやく人の密度は少し下がった。
席に座れた時、彩佳は長く息を吐いた。
「疲れた?」
早苗が訊く。
「うん」
「乗り換え、思ったより疲れる」
「次からもっと時間取ろう」
「うん」
窓の外には、しばらく高い建物が続いていた。
ガラスのビル、駅前の商業施設、並ぶ看板。
けれど電車が進むにつれて、少しずつ景色は変わっていく。
高層の建物が減り、低いマンションや古い住宅が増える。
広い道路沿いに小さな店が並び、やがて車窓の向こうに普通の住宅街が見え始めた。
彩佳はその変化を黙って眺めていた。
近づいている。
実家へ。
母のいる場所へ。
身体の疲れとは別の重さが、胸の下あたりにゆっくり落ちてくる。
「気持ち悪い?」
早苗が小さく訊く。
「ちょっと」
「降りたら少し休む?」
「そろそろお昼だし駅の近くで休む」
「了解」
目的の駅に着いた時、時刻は昼を少し過ぎていた。
駅前は思っていたより静かだった。
都心の駅ほど人はいない。
ロータリーにはバスが停まり、近くのドラッグストアには感染対策用品と書かれたポスターが貼ってある。
どこにでもあるような、普通の住宅街の駅だった。
でも、所々に感染流行が続いていることを感じ複雑な気持ちになった。
改札を出たあと、二人は近くの喫茶店に入り昼食をとる。
住宅街が近いからか昼時でもそこまで混雑はしていなかった。
「ここから歩いて十五分くらい」
彩佳が言う。
「タクシー使う?」
「歩きたい」
少し迷ってから付け足す。
「でも、ゆっくりで」
「もちろん」
駅の反対側に回ると道は少しだけ狭くなった。
住宅街の中を通る道だ。
古い塀のある家、低いアパート、小さな公園、植木鉢の並ぶ玄関。
都心の騒がしさはもうない。
生活の匂いがする。
彩佳は黙って歩いた。
知っている道だった。
でも、長く歩いていない道でもある。
学校帰りに通った道。
母と一緒に買い物へ行った道。
父のことを話さなくなってから、少しずつ足が遠のいた道。
そういう記憶が、道の端に落ちているようだった。
「意外と普通だった」
早苗がぽつりと言った。
「どんなとこ想像してたの」
「もっと重い感じ」
彩佳は少しだけ笑った。
「重いのは中だよ」
「やっぱり帰る?」
「ここまで来てそれ言う?」
「選択肢として」
「行く」
即答できたことに、自分で少し驚いた。
行きたくない。
怖い。
でも、行く。
その三つが同時にある。
駅から十五分ほど歩くと、目的の家が見えてきた。
普通の一軒家だった。
外壁も、玄関先の植木も、記憶より少しだけ古びている。
でも大きく変わったところはない。
変わったのは、たぶん自分の方だ。
門の前で、彩佳は足を止めた。
胸の奥が急に忙しくなる。
さっきまで歩いてきた疲れとは違う。
手のひらが少し冷たい。
直ぐにはインターホンを押せず、少しだけ立ちつくしてしまった。
「彩佳」
見かねた早苗が言う。
「うん」
「無理なら、近くで休む」
「ううん」
「……なんとか押す」
そう言ったものの、手はすぐには動かなかった。
インターホンのボタンが、やけに遠く見える。
押せば母が出る。
押さなければ何も始まらない。
それだけのことなのに、身体が固まる。
早苗は何も急かさなかった。
ただ、彩佳の左側に立っている。
都心の乗り換えの時と同じように。
でも今度は、人から守るためではない。
たぶん、逃げてもいい場所を残すために。
彩佳は浅く息を吸った。
父のこと。
母のこと。
自分が勝手に背負ってきたもの。
全部が胸の奥で音を立てる。
それでも、ここまで来た。
震える手を伸ばし、彩佳はインターホンを押した。
家の中で、かすかな呼び出し音が鳴った。




