第48話 帰る前の朝
十二月の始め、朝はよく晴れていた。
冬の空は高く、寮の窓から見える光は白い。
夏の朝みたいに眩しすぎるわけではなく、冷たい空気の中に静かに広がっている光だった。
彩佳はいつもより少し早く目が覚めた。
昨日の夜、何度も荷物を確認した。
着替え。
薬。
診察予定のメモ。
予備のマスク。
充電器。
そして、母へ持っていくものが何かあるかどうか、最後まで迷って、結局何も入れなかった。
明日、実家に帰る。
そう思った瞬間、胸の奥が少し重くなる。
会社を休むこと。
リハビリをすること。
自分の身体に向き合うこと。
それだけでもまだ慣れていないのに、今度は母に会わなければならない。
会わなければならない、という言い方がもう少し違うのかもしれない。
佐山に勧められた。
自分でも、そろそろ一度話した方がいいと分かっている。
でも、分かっていることと、気が進むことは別だった。
支度を終えて部屋を出ると、早苗はもう廊下にいた。
「おはよ」
「おはよう」
早苗は彩佳の顔を見て、少しだけ眉を動かした。
「寝た?」
「寝たよ」
「眠そう」
「顔に出てる?」
「出てる」
即答されて、彩佳は少しだけ笑った。
二人はそのまま寮を出た。
ガイアから帰ってきてもうすぐ一週間、朝の散歩はもう何日か続いている。
同じ道をゆっくり歩く。
寮の前を出て、敷地の坂を下り、ラクトセラムの外周を短く回る。
冬の空気は、今日も澄んでいた。
頬に触れる冷たさはあるのに、息を吸うと胸の奥が少しだけ広がるような感じがする。
建物の影は長く、街路樹の枝は細く空へ伸びている。
落ち葉はもう湿り気を失って、歩道の隅で乾いた音を立てた。
彩佳は早苗の隣を歩きながら、ぼんやり前を見ていた。
足は動いている。
息も、朝のうちはまだ大丈夫だ。
でも頭の中は、明日のことでいっぱいだった。
「彩佳?」
早苗の声が聞こえた気がした。
でもすぐには意味にならなかった。
「おーい」
少しして、肩を軽く叩かれる。
「え、何?」
彩佳はようやく顔を上げた。
早苗が呆れたような、少し心配したような顔でこちらを見ている。
「さっきから話しかけてたんだけど」
「え、嘘!?」
彩佳は慌てる。
「ごめん……」
「明らかに上の空だった」
「そんなに?」
「かなり」
彩佳は気まずくなって、視線を落とした。
足元のアスファルトに、朝の光が薄く乗っている。
「お母さんとそんなに仲悪いの?」
早苗が訊く。
その言い方は軽めだった。
でも、軽く聞いてくれたのだと分かった。
「いやー……悪いっていうか」
彩佳は言葉を探す。
「嫌いとかじゃないんだけど」
「中学あたりから、うまくいってないっていうか……」
「軽いノリで返事しなきゃよかった」
「私も佐山さんの圧に逆らえなかったんだよ……」
「佐山さん、圧かけるんだ」
「大事な時だけ」
彩佳は困ったように笑って答える。
「“会ってみたら?”って言われた時点で、逃げ道なかった」
早苗は少しだけ笑った。
でもすぐに、彩佳の顔を見て表情を戻す。
「まぁ、嫌なものはしょうがないよ」
「そういうのって、急には変わらない」
彩佳はすぐには答えなかった。
嫌なものはしょうがない。
そう言ってもらえることはありがたかった。
行きたくない反面
行かなきゃいけないと思っている自分もいる…
「嫌っていうより……」
彩佳はゆっくり言う。
「怖い、に近いかも」
「怖い?」
「何を言われるかも怖いし」
「何も言われなかったら、それも怖い」
口にしてみると、自分でも面倒くさいと思った。
でも、本当のところはそこだった。
母に会ったら、父のことを避けられない。
父のことを話したら、自分が今まで何を目標にしてきたのかも避けられない。
自分が勝手に背負ってきたものを、見ないままではいられなくなる。
「はぁ……」
彩佳は息を吐いた。
「なんか気持ち悪くなってきた……」
「こっちまで緊張するからやめてよ」
「ごめん」
「謝るの禁止」
「そうだった…」
早苗は少しだけ歩幅を落とす。
彩佳もそれに合わせて、ゆっくり進んだ。
「で、明日は何時出発?」
「……」
「おーい、彩佳」
「え?」
「もう……明日の時間!」
「あ、ごめん」
彩佳は自分でも少し笑いそうになった。
でも、笑うにはまだ胸の奥が重い。
「ん~、通勤時間は避けたいから、十時過ぎくらいかな」
「お昼食べて、午後着く感じで……」
「午後って、身体大丈夫なの?」
「そうなんだけど……」
彩佳は少し口ごもる。
「朝から実家にいる方が辛い……」
早苗はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「ハードな一日になりそう…」
「言わないで」
「言わなくてもなるでしょ」
「そうだけど」
二人は角を曲がった。
今日の散歩はいつもより短くすることにした。
彩佳の身体が、というより、気持ちの方が先に疲れているのが分かったからだ。
戻る途中、ラクトセラムの建物が朝の光の中に見えた。
白い外壁と大きな窓。
見慣れた会社の建物。
その向こうで、今日もワクチン接種や供給調整や、いくつもの仕事が動いていく。
彩佳は少しだけ立ち止まり、建物を見上げた。
「どうしたの」
早苗が訊く。
「ううん」
彩佳は首を振る。
「なんか、みんな動いてるなって」
「会社だからね」
「そうなんだけど」
自分は止まっている。
そう言おうとして、やめた。
完全に止まっているわけではない。
歩いている。
休んでいる。
頼る練習をしている。
それもたぶん、動いているうちに入るのだと、少しずつ思えるようになってきている。
「彩佳」
「ん?」
「明日、私いるから」
早苗が前を見たまま言った。
その言葉は短かった。
でも、今の彩佳には十分すぎるくらいだった。
「……うん」
彩佳は小さく頷いた。
「ありがとう」
「はい」
早苗の返事はいつも通りだった。
それが少しだけありがたかった。
朝食のあと、彩佳は部屋で荷物をもう一度確認した。
必要なものはたいして多くない。
一泊分の着替え。
薬。
マスク
スマホの充電器。
財布。
ハンカチ。
荷物を入れてみると、思ったより小さくまとまった。
でも、それを持って歩くことを考えると少し重く感じる。
早苗が部屋を覗いた。
「荷物、多い?」
「少ないと思うけど」
彩佳はカバンを見る。
「持つとちょっと重い」
「じゃあ明日は私が持つ」
「そこまでじゃないよ」
「都心の乗り換えで倒れられても困る」
「倒れない」
「じゃあ疲れる」
「それは否定できない」
早苗は部屋へ入り、カバンの中をちらっと見た。
「薬、入れた?」
「入れた」
「充電器」
「入れた」
「保険証」
「あ、入れてない」
「ほら」
早苗は呆れたように言う。
彩佳は慌てて引き出しから保険証を出して、財布へ入れた。
「助かった」
「明日もこんな感じだと思う」
「やっぱり一緒に来てもらって正解かも」
「今さら?」
そう言いながら、早苗は少しだけ笑った。
午後は、予想通り落ちた。
朝の散歩は短くしたのに、気持ちの疲れが身体へ出たのかもしれない。
昼過ぎには身体が重くなり、ベッドに横になる時間が長くなった。
眠れるわけではない。
目を閉じても、明日のことばかり浮かんでくる。
母の顔。
実家の玄関。
父の写真。
高校の頃の言い合い。
あまり口を聞かなくなったあとの、気まずい食卓。
そういうものが、順番もなく頭に浮かぶ。
夕方、早苗が様子を見に来た時、彩佳は天井を見ていた。
「寝てないね」
「寝れない」
「だと思った」
早苗はベッド脇に座る。
「やめる?」
静かな声だった。
責めるでもなく、試すでもない。
本当に、選択肢として置いてくれている声だった。
彩佳は少しだけ目を閉じる。
「やめない」
「そっか」
「でも、行きたくない」
「うん」
「会いたくないわけじゃないんだけど」
「でも、会うのが怖い」
「うん」
早苗はそれ以上何も言わなかった。
その“うん”だけが、彩佳にはちょうどよかった。
「明日」
彩佳が言う。
「実家の最寄り駅で、やっぱり無理って言ったらどうする?」
「近くのお店に入る」
「すごい具体的」
「想定済み」
彩佳は少しだけ笑った。
「じゃあ、インターホン押せなかったら?」
「私が押す?」
「それはそれで怖い」
「じゃあ、横で見てる」
「うん」
彩佳は小さく頷いた。
「それがいい」
早苗は立ち上がる。
「夜は早めに寝た方がいいよ」
「寝られるかな」
「目閉じてるだけでも休み」
「また上原先生みたいなこと言う」
「みんな言うこと同じなんでしょ」
「そうだった」
早苗が部屋を出ていったあと、彩佳はもう一度カバンを見た。
明日、自分はここから出て、電車を乗り継いで、実家へ行く。
そこには母がいる。
考えただけで胸の奥が重い。
でも、重いからこそ、たぶん今行くべきなのだとも思う。
父のこと。
母のこと。
自分のこと。
いままでずっと、きちんと並べられないまま持ってきたものがある。
明日それが全部ほどけるわけではない。
でも、一つくらいは手に取れるかもしれない。
部屋の外は静かだった。
窓の外はもう暗くなっている、冬は日が沈むのが早い。
明日が来るのが怖い。
でも、来てほしくないとは思わなかった。
それだけでも、少し前の自分とは違うのかもしれない。
彩佳はベッドに横になり静かに息を吐いた。




