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第47話 渡された過去

 十二月上旬の夕方、ラクトセラムの空気は少しずつ慌ただしくなり始めていた。


 新型ワクチン接種の準備が本格化し、医務課には確認事項と問い合わせが増えている。


 供給体制の強化に向けた会議も増え、廊下を行き交う人の足取りも前より速い。


 表向きには、会社全体が前へ進んでいるように見える。


 佐山は高村に呼ばれていた。


 待ち合わせは、駅から少し離れた喫茶店だった。

 夕方前の半端な時間で、店内はまだ静かだった。

 窓際の席には冬の白い光が落ちていて、テーブルの木目がやけにくっきり見える。

 佐山が先に入ると、高村はすでに奥の席に座っていた。


「来てくれてありがとう」


 いつもと変わらない落ち着いた声だった。

 でも、その声の奥に少しだけ固いものが混じっているのを、佐山は聞き取った。


「いえ」


 向かいに座る。

 注文を済ませたあと、高村は足元に置いていた鞄から二つの紙束を取り出した。


 一つは茶色く変色した古い紙の束。

 

もう一つは、後年にまとめ直されたような整った書式の資料だった。


「橋本に会ったわ」

 高村が言う。

「これは、その時渡されたもの」


 佐山は視線を落とした。


「中身は…」  


と訊くと、高村はまず古い紙束の方へ手を置いた。


「十二年前の、改ざんされる前の試験結果」

「つまり…全てが書いてある報告書」


 それから、もう一つへ指を移す。


「こっちは、当時対外説明用に出された試験結果資料」


「橋本が持っていた」


 佐山の喉の奥が少しだけ固くなる。

 目の前にあるのは


 改ざんされる前の試験結果


 整えられた後の試験結果


その両方だった。


高村は続ける。

「橋本は、十二年前のことやっぱり後悔していた」


「自分はもう耐えられなかったって」


「でも、お願いもされた」


「相原を止めて欲しいって」


 佐山は黙って聞いていた。

 橋本なりの決心があってこの資料を渡したのだろうと思った。


「見ていいですか」


「もちろん」


 佐山はまず、古い方の資料を手に取った。

 紙質が違う。

 いま社内で使われているものより少しざらついていて、印字も古い。


 でも、そこに並んでいる文字の重さはむしろ新しい紙より生々しかった。

 日付。

 症例番号。

 経過。

 悪化所見。

 中止判断に触れる文言。

 修正前の表現。

 何枚かめくったところで、佐山の指が止まる。


 悪化の経過が、そのままの重さで書かれている。

 完全に露骨な文言ではない。


 だが、現場の身体に近い。

 継続可能寄りに丸める前の温度が残っていた。


「……これ」

佐山が低く言う。

「今回の試験と似たような危険所見が出ています」


「そうなのね…」


 高村はため息をつく。

 やっぱり同じ事が繰り返されていたのかと思ったからだ。


「危険所見は出ていた」


「でも、対外的に出すには都合が悪い部分は後で調整する」

「その前段階の紙」


 佐山はさらに数枚めくる。

 悪化の速度。

 中止相当と読める所見。

 それがきちんと並んでいる。


 今度は、対外説明用試験結果の控えを開いた。

 こちらは文面が整っていた。

 書式も見やすく、要点も整理されている。

 いかにも“説明資料”という顔だ。

 だが、見比べた瞬間に違いははっきりした。


 重い表現が薄くなっている。


 悪化の連続性が、単発の変動みたいに見える。


 中止相当の所見は、“慎重な経過観察を要した”程度に整えられている。


 佐山は無意識に息を止めていた。


「……同じだ」

 気づけば、そう漏れていた。


「今回と?」

 高村が訊く。


「はい」

佐山は資料から目を離さずに答える。

「やり方が同じです」


「危険所見を全部消すわけじゃない」


「でも、継続不能と読まれない程度に軽くしてる」


「対外的には、管理可能な試験経過に見えるように整えてる」


 高村はそれを聞いて、小さく頷いた。


「橋本も同じことを言ってた」


「十二年前の時点で、もうこの形はできていたって」


 店内は静かだった。

 小さな話し声はあるはずなのに、その一角だけ別の時間が流れているみたいだった。


「今回の件は」

 佐山が言う。

「ガイア側内部の協力と、上原先生たちの所見で、改ざん前の実態はかなり拾えています」


「でも、十二年前は弱かった」


 古い報告書の束を見下ろしながら続ける。


「これでようやく並びます」


「改ざん前と、改ざん後が」


「ええ」

 高村は言った。

「だから渡すことにした」


 佐山はもう一度、対外説明用資料の一文に目を落とした。


 “慎重な観察を継続しつつ試験完遂可能と判断した”

 そんな言い回しが並んでいる。


 それだけ読めば、管理下で多少の有害事象はあったが、最終的には収束した試験に見える。


 だが、改ざん前の紙と並べた瞬間、その文言は別の顔をする。

 見せたい形に寄せるために、危険の輪郭を削っているのが分かる。


「高村専務」

 佐山が言う。

「この資料、かなり強い証拠です」


「そう」

高村は短く返した。

「でも強いからこそ、使い方を間違えないで」


 その言い方は、佐山が感情で走ることを警戒しているのではなく、

 この資料が本当に“構造”を示すところまで持っていけると分かっている声だった。


「橋本さんは、他に何か」


「ただただ、後悔していた」

 高村は言う。

「だから、自分はもう耐えられなかったって」


「それでも、相原を止めてほしいって」

 少しだけ間を置いて続ける。


「相原は、もう自分で止まれない」


「橋本の言い方だと、そういうことだった」


 佐山は資料を揃え直しながら、ゆっくり息を吐いた。

 今回の試験。

 彩佳の件。

 高田が拾った安全性評価メモ。

 ラクト側の所見と看護記録。

 芹沢の病院線。

 そこへいま、十二年前の改ざん前報告書と、対外説明用試験結果の控えが加わった。

 ばらばらだったものが、ようやく一本の線になる。


「今回だけじゃない」

 佐山が言う。

「最初からこの構造だったんですね」


「たぶんね」

 高村は答える。

「少なくとも十二年前には、もうできていた」


「中止基準に達しても、継続可能寄りに読める形へ整える」

「そのための文面も、結果の出し方も」


 佐山は静かに頷いた。

 事故ではない。

 判断ミスでもない。

 継続優先のために記録を補正する構造そのものがあった。

 その理解が、今は紙として机の上にある。


「これで」

 佐山が言う。

「ようやく、今回の件が“今回だけ”じゃないって示せます」


「ええ」

 高村は頷いた。

「だから、もう見なかったことにはできない」


 佐山は資料を封筒へ戻し、丁寧に揃えた。


 ただの紙だ。


 でも、その重さはもう無視できない。

 しばらく二人とも黙っていた。


 窓の外では冬の曇り空が白く広がっていて、通りを歩く人影がゆっくり流れていく。


「過ちは、私たちの代で終わらせる」


 高村が静かに言った。

 その声は大きくなかった。

 でも、はっきりとした輪郭を持って落ちた。

 佐山はすぐには返事をしなかった。

 小出のことを思い出す。

 今回の彩佳のことも思い出す。


 十二年前と今が、自分の中でようやく同じ方向を向き始めているのが分かった。


「はい」

 佐山はようやく答えた。

「終わらせます」


 それは誓いというより、やるべきことの確認に近かった。

 高村は小さく頷く。


「橋本も、全てが終わったら小出の墓前に花を添えたいって」


 その言葉で、佐山は命日の朝を思い出した。


 新しい花。

 燃え尽きていない線香。

 橋本ではなかった。

 ということは、あの墓にまだ別の誰かが来ている。


「まだ終わってない人が、他にもいるのかもしれませんね」


 佐山が言う。


「ええ」

 高村は答えた。

「終わってないから、まだ線が残っているのかもしれない」


 会計を済ませて店を出ると、外の空気は思ったより冷たかった。


 夕方前の曇り空の下、冬の匂いだけがはっきりしている。


 ラクトセラムは今、予防薬の生産という大きな期待を背負っている


 新型ワクチン接種の準備。

 供給体制の強化。

 感染終息へ向かうための現実的な前進。


 けれどその前進の下に何が埋め込まれてきたのかを、もう見なかったことにはできなかった。


 佐山は鞄の中の紙の重みを感じながら、駅の方へ歩き出した。


 ここから先は、残されたものを束ねる順番だった。

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