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第46話 告白

 高村からの返事は思いのほか早かった。


 連絡が来ることを予想していたのかもしれない。

 会う事が決まってからは早かった


 12月になったばかりの平日

 朝から空は薄く曇っていた。


 高村が橋本と会う約束をしたのは、駅から少し離れた小さな喫茶店だった。


 昼前の時間で、店内はまだ静かだった。

 窓際の席には白い光が落ちていて、テーブルの木目だけがやけにくっきり見える。


 高村が先に席について少しすると、入口のベルが鳴った。


 橋本だった。


 以前より少し痩せたように見えた。

 ガイアにいた頃のきっちりした仕事着ではなく、落ち着いた私服で、肩から下げた鞄も仕事帰りの人間のものではない。


 高村を見つけると、橋本は一瞬だけ足を止め、それからまっすぐこちらへ歩いてきた。


「お久しぶりです」


 そう言って椅子の横で立ち止まる。

 けれど座る前に、橋本は深く頭を下げた。


「最初に言わせてください」


「高村さんを陥れたこと、本当に申し訳ありませんでした」


 高村はその姿をしばらく見ていた。

 責める言葉は、すぐには出てこない。

 出てこないというより、もっと別のことを先に確かめるべきだと分かっていた。


「顔を上げて」

 高村が言う。

「座りましょう」


 橋本はゆっくり顔を上げ、向かいの席に座った。

 手元にはまだ緊張が残っている。

 でも、それだけではない。

 ここへ来るまでに覚悟もしてきた顔だった。


「……私、もうガイアは辞めました」


 注文を取りに来た店員が離れたあと、橋本が先にそう言った。


「そう」  

高村は短く返す。

「いつ?」


「1ヶ月前です」


 高村は小さく息を吐いた。

 驚きはある。

 でも、全く想像していなかったわけでもない。


「責めるつもりはない」

 高村が言う。

「定年が少し早まっただけだと思うことにしてる」


 橋本はその言葉に目を伏せた。


 ガイアとラクト。


 親会社と子会社。


 表向きはそういう関係だった。

 けれど高村と橋本のあいだには、それだけではない時間が積み重なっている。

 ラクトセラムが企業化してから、何度も行き来し、何度も会議で顔を合わせ、表に出ない調整も含めて付き合ってきた。

 ただの業務上の関係では、もう説明できないくらいには長かった。


「辞めた理由、聞いてもいい?」


 高村が訊く。

 橋本はすぐには答えなかった。

 少しだけ間を置いてから、静かに口を開く。


「もう、耐えられなかったんです」


「十二年前と同じ事が起こるのは…」


 高村は黙って聞いていた。


「ご存じだと思いますが、十二年前の小出さんの死は偶発的なものではありません」


もちろん知っている、

だが、ガイア製薬側の人間がその言葉を口にするのは重みが違う


「十二年前、私はその試験を止められないまま見ていました」

 橋本が言う。

「このまま続ければ、小出さんは死んでしまうかもしれない」


「そう思いながら、それでも試験を継続させる側にいた」

「日に日に落ちていくのを見なければいけなかった」


「私だってやりたくなかったしもう見たくなかった」


 橋本の声は静かだった。

 けれど、その静けさの奥に、長く押し込めてきたものが滲んでいる。


「その時から、自分が何のために働いているのか、わからなくなりました」


「でも、その時は仕事を辞めたいとかそういう感情にはなりませんでした」


「まだ会社に希望を感じていたかったのかもしれません」


「だから、何も考えないようにしたんです」


「見ないふりをして、指示に従って、相原さんの補助を続ける」


「それが自分にできる会社での唯一の生き延び方だと思っていました」


 高村は何も言わない。

 橋本は続ける。


「沈黙を続けることはできます」


「見ないふりをすることも、指示に従うことももう慣れました」


「でも、十二年前と同じことをやるのは、違う」


 高村は視線だけで促す。


「今回、高村さんが抵抗した時」

 橋本は言う。

「私は、どこかで止まってほしいと思いました」


「今度こそ、誰かに止めてほしかった」

 

少しだけ口元を歪める。

 笑ったわけではない。

 自分でもその願いの遅さを分かっている顔だった。


「でも、その時の私に与えられていた役割は、止めることじゃなかった」


「高村さんを陥れることでした」

 高村は黙ったままだった。

「その時、はっきり思ったんです」


 橋本は低く言う。


「相原さんは、もう完全に壊れているって」

 短い沈黙が落ちる。


「怖かったんです」


「人が亡くなった十二年前の延長に、また自分が立っていることが」


「しかも今度は、止めようとした人を潰す側にいることが」

 橋本は高村を見た。

「だから、逃げるしかありませんでした」


「試験からも、相原さんからも」


 高村はしばらく黙っていた。

 責めたい気持ちがないわけではない。

 でも、その責める言葉がいま必要なものではないことも分かっていた。


 橋本はそこで、足元の鞄から一つの封筒を取り出した。

 厚みのある茶封筒だった。

 中には二つの書類が入っている 

 そのうち一つ角は少し擦れていて、紙そのものが長い時間を吸って茶色くなっている。


「これを渡したくて、お会いしました」


「何?」

 高村が訊く。


「十二年前に行われた試験」

「改ざん前の試験結果資料の控えと…」

「対外的にまとめられた改ざん後の正式資料です」


 その一言で、空気が変わった。

 高村は封筒を受け取る。

 見た目以上に重く感じた。


 古い紙の感触が、指先にざらりと残る。

 封を開け、中を確かめる。


 最初の一枚をめくった瞬間、高村の手に少し力が入った。

 日付。

 症例番号。

 経過。

 判定。

 修正前の記載。

 綺麗に整えられる前の、まだ身体の方に近い言葉がそこに残っていた。


「……残していたのね」

 高村が低く言う。


「原本はもう処分されています」

 橋本は答えた。

「全て無くなったら、本当に何もなかったことになる気がしてコピーを取っていました」


 高村は何枚かめくる。

 悪化の経過。

 中止相当の所見。

 正式資料ではもっと曖昧な表現に変えられている。   

 でも、ここではまだそのまま残っている。


「相原を止めてほしいんです」

 橋本が言った。


 高村は顔を上げる。


「十二年前」

 橋本は言う。

「小出さんが亡くなる前、相原さんは、本気で試験を中断しようとしていました」


 高村は小さく眉を動かす。


「止めようとは、していたのね」


「ええ」

 橋本は頷いた。

「少なくとも、あの時までは」


「このままでは命が失われかねない、と何度も言っていました」


 橋本はそこで少し目を伏せた。


「でも、止めなかった」


「……正確には、止めさせてもらえなかったんです」


 高村は何も言わない。

 橋本の声だけが静かに続く。


「上は、あの時、そういう判断をしませんでした」


『一人の命のために国民全体を危険にさらすな』


「そんな言葉で切られた」


 店の中は静かだった。

 カップの触れ合う音も、遠くの話し声もあるはずなのに、その一瞬だけ全部が遠くなったように感じる。


「小出さんが亡くなったあとからです」

 橋本が言う。

「相原さんが、淡々と試験に臨むようになったのは」

 

高村はようやく息をひとつ吐いた。


「……壊れたのね」


「はい」

 橋本は静かに頷く。

「でも、ただ壊れたというより、もっと厄介でした」


 高村は視線だけで促す。


「相原さんは、あの時、自分も終わるべきだと思っていたはずです」


「人が亡くなった以上、自分も責任を取る側だと」


「でも、実際には裁かれなかった」


 橋本の指先が、カップの縁に触れて止まる。


「責任は曖昧にされて、試験全体は必要な犠牲として処理されて、相原さん自身も表立って断罪されることはなかった」


「人が亡くなったのに、自分は裁かれない」


「その違和感が、相原さんを変えました」

 そして少しだけ声を落とす。

「自分は個人として許されるかどうかを考える立場じゃない」

「誰かが引き受けなければならない汚れ役を、自分が担うしかない」

「それが、社会から与えられた義務なんだって」


 高村はただ橋本を見ていた。

 その言葉は、相原を免責するためのものではなかった。

 むしろ逆だった。


 壊れた責任者が、自分の壊れ方をそのまま役割に変えてしまったのだ。


「だから、それ以降は感情を表に出さなくなったんです」

 橋本は続ける。

「迷いも、痛みも、苦しさも、もう表に出す資格は自分にはないって、自分で切り捨てた」


「淡々として見えたのは、何も感じていなかったからじゃない」


「そうしないと、もう自分を保てなかったからだと思います」


 高村は低く言った。

「……それで、自分を汚れ役だと思い込んだ」


「はい」

 橋本は答える。

「しかも、それを“必要な役割”だと信じることでしか、あの人は自分を立たせられなくなった」


 少しだけ沈黙が落ちる。

 高村は封筒の上に手を置いた。

 古い紙の感触がそこにある。

 小出の死。

 止められなかった試験。

 裁かれなかった責任者。

 それらが一本の線で繋がって見えた。


「でも」  

 高村が静かに言う。

「それで許されるわけじゃない」


「わかっています」

 橋本はまっすぐ答えた。

「だから、止めてほしいんです」


「今の相原さんは、自分が間違っているかどうかじゃなくて、“自分が担うべき役割かどうか”でしか判断していない」


「今回の試験でも重症化した人がいると聞いています」

「もう、こんな事は終わらせるべきです」


 高村はしばらく何も言わなかった。

 それから、封筒を持ち直して言う。


「過ちは、私達の代で終わらせる」


 橋本はわずかに目を見開き、それから小さく頷いた。

 その頷きには、ようやく行き場を見つけたみたいな重さがあった。


「まだ、小出さんにちゃんと謝れてません」

橋本が低くつぶやく。

「遅いのはわかってます」


「でも、せめてお墓にお花ぐらいは持っていきたい」


 高村はその言葉を聞いて、墓前の花を思い出した。

 新しい花。

 燃え尽きていない線香。

 橋本ではなかった。

 ということは、あの墓にまだ別の誰かが来ている。

 高村はその事実を心の中で静かに受け止めた。


 十二年前は終わっていない。


 終わっていないからこそ、まだ知らない線が他にもあるのかもしれなかった。


 高村は封筒の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。


 古い報告書。

 改ざんされる前の言葉。

 橋本の告白。

 相原の過去。

 ひとつひとつは紙の上の記録でしかない。

 けれど、その紙がようやく十二年分の沈黙に形を与え始めていた。


 止められなかった過去は戻らない。

 でも、過ちを繰り返させるかどうかは、まだ今の側に残されている。


 高村はゆっくりと封筒を持ち上げた。

 封筒の中身、それは過去との決着をつけるには十分な重さを持っていた

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