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第45話 それぞれの思い

 月曜日の朝、寮の食堂にはいつもより少しだけ乾いた空気が流れていた。


 窓の外は明るい。


 冬らしい白い光が、食堂の床やテーブルの縁を静かに照らしている。


 温かい味噌汁の湯気と、暖房の匂いと、朝のテレビの音だけが、まだ完全に起ききっていない建物の中に混じっていた。


 テレビでは、NV-40の感染者数と死亡者数が淡々と報道されている。

 画面の下には、地域別の数字と、前週比の小さな矢印。


 アナウンサーの声は落ち着いていたが、その落ち着き方がかえって現実の重さを薄くしない。


 昨日の死者数。

 累計の感染者数。

 重症者病床の逼迫。


 数字はきれいに整理されていて、だからこそ息苦しかった。

 彩佳はトレーの上の食事を見ながら、ゆっくり箸を動かしていた。


 朝はまだましだ。

 でも、今日は昨日の疲れが少し残っている。

 足の重さも、身体の奥にある鈍い疲労も、起きた時からわかっていた。


「やっぱ昨日ちょっと頑張りすぎた?」


向かいの席で早苗が訊く。


「ちょっとだけ」

 彩佳は苦笑した。

「夕方のスーパーが効いた」


「やっぱりか」


 その言い方があまりにそのままで、彩佳は少しだけ笑う。


 笑ったあと、またテレビへ目が向く。

 数字だけが進んでいく。


 人が救われるかもしれない世界と、自分の身体に起きたことが、頭の中でうまく並ばない。


 食事を終えて席を立つと、出口の近くで大沢と森下に会った。


「おはようございます」

 大沢が言う。


「おはようございます」

 彩佳が返す。


 森下も小さく会釈をした。

 顔色は前よりいい。

 でも、完全に安心している顔でもない。


 不安はまだ残っていて、その上に少しだけ日常が戻ってきている感じだった。


「今日、医務課でしたよね」

 大沢が彩佳へ訊く。


「はい、採血と診察です」


 彩佳は頷く。


「森下さんは?」


「私は今日はないです」

 森下が答える。

「今週は木曜に来るように言われてます」


 少し間を置いてから、森下がぽつりと言った。


「私、搾乳やめることにしました」

 その言葉に、早苗が森下を見る。


 森下は視線を落としたまま続けた。


「正直、気持ちの整理がつかなくて」


「自分の身体に起こったこと、ガイアでの試験のこと…搾乳ってなるとどうしても思い出してしまって」

 

彩佳はすぐには返事ができなかった。

それでいいと思う気持ちと、それでも数字の先にあるものを思ってしまう気持ちが、同時に胸の中へ来る。


「私は、続けます」


 大沢が言った。

 全員の視線がそちらへ向く。


「私だけ、副作用も何もなくて……」

大沢は少しだけ困ったように笑った。

「だから、少しでも役に立てたらと思って」


 その言い方に、誰もすぐには口を挟まなかった。

 大沢の言っていることはわかる。

 それはきっと、大沢なりの誠実さだ。

 自分だけ大きく崩れずに済んだことへの、どこか引け目にも似た気持ちがそこにはあるのだろう。


 でも、わかることと、簡単に頷けることは違った。


「そうなんですね」

 早苗が先に言った。

「大沢さんが決めたなら、それでいいと思います」


 森下も小さく頷く。


「……はい」


 大沢はほっとしたように息を吐いた。

 彩佳は何か言いかけて、やめた。

 正確には何を言うべきかわからなかった。


 人を救うために自分を差し出すこと


 試験前なら何の抵抗もなくやっていたことだ。


 でも、今はその選択はできない。


でも、役立つとか、救うとかそういう選択をやめたいとは思わない。


 食堂を出て部屋へ戻る途中、彩佳は少し黙り込んでいた。

 早苗が隣を歩く。

 エレベーターを待っているときにぽつりと訊いた。


「考えてる?」


「うん」

 彩佳は正直に答える。


「彩佳が気にすることじゃない」

 早苗が言う。


「そうなんだけどさ……」

 それ以上うまく続けられなかった。


 大沢が続けることも、森下がやめることも、どちらも本人が決めたことだ。


 正しいとか間違いとか、そういう話ではない。


 でも、それぞれの選び方があるのだと実感すると、余計に自分の複雑さも浮き上がってくる。


 役に立ちたいと思うこと。

 それ自体を否定したいわけじゃない。

 でも、人の身体や人生の上に積まれた成果を、そのまま“よかった”にはできない。


 その感覚だけが、まだ自分の中でうまく言葉にならないまま残っていた。

     


 診察室には、見慣れた姿の上原がいた。

 ラクトセラムのスクラブ姿で椅子に座り、PCのカルテを確認している。

 やっぱりガイアにいた時より、表情は少しやわらかい。

 同じ人なのに、場所が違うだけで空気が少し変わる。


「おはようございます」

上原が言う。

「リハビリは順調ですか」


「少しずつですが」

 彩佳は椅子に座りながら答える。

「歩ける距離も伸びてます」


「耳の聞こえ方はどうですか?」


「初めよりは良くなった気がする…くらいですかね」

 そうは言ったが正直あまり変わっている気がしない


「耳の方はやっぱり専門の科を一度受診しましょう」

上原はキーボードを打ち込みながら答える

「紹介状書きますので」


「歩けるようになってきているのは良かったです」

上原は頷いた。

「血液検査の結果次第ですが、薬、減らしていきましょう」


「はい……」

 そこまで答えてから、彩佳は少し迷った。


 でも訊かずにはいられなかった。


「あの、先生……」


「予防薬の開発って、進んでるんですか」


 上原の手が一瞬だけ止まった。

 すぐに表情を整える。


 でも、その一瞬だけで、簡単な話ではないことが分かった。


「……どうでしょうか」

 上原は少しだけ言葉を選ぶように言った。

「新型ワクチンの接種は、今月からラクトセラムで搾乳対象者を中心に行われる予定です」


「PLXの方は、まだ何も話は来ていませんね」

 そして、カルテから視線を外さないまま続ける。

「いずれにせよ、私は関わりたくありません」


「仕事なので関わらないといけないんですけど」


 その言い方が、あまりにも人間らしくて、彩佳は少しだけ口元をゆるめた。


「石井さんも気にしたらダメですよ」

 上原が言う。

「もう十分貢献したんですから」


 彩佳はその言葉を聞いて、少しだけ胸の中のもやが晴れた気がした。

上原も本心ではそう思っていること、医師という立場でもちゃんと人間らしい一面があること。

全てが正論でまわっているわけではないと思ったからだ。


上原もそこで少しだけ口元を動かす。

「医師としては失言でしたね」


「でも」

 彩佳は言った。

「先生は私の恩人ですから」

「何言っても気にしませんよ」


 上原は小さく息を吐いてから、改めて彩佳の顔を見た。


「リハビリ、無理してませんか」


「顔に疲れが出てますよ」


 優しい笑顔で言う。

 責める感じではなく、本当に見抜いている顔だった。


「昨日、ちょっと……」

 彩佳は苦笑した。

「朝と夕方、両方出かけて」


「無理したらダメですよ」

 上原はすぐに言った。


「今日はワクチン接種もないので、経過観察の部屋は誰もいないはずです」

「採血が終わったら、少し休憩して帰ってください」


 それから、カルテに何かを書き込みながら続ける。


「あと、仕事は一月末まで休みましょう」


「これでも短いくらいですけど」


 彩佳は少しだけ目を見開いた。


「一月末まで……」


「はい」

 上原はあっさり頷く。


「戻るなら、ちゃんと戻れる状態にしてからです」


「それに、彩佳さんの希望も考慮した判断です」


 その言い方に反論の余地はなかった。

 たぶん反論しても、上原は今日も揺るがないだろう。


「次、また来週の月曜日に来てください」

 上原が言う。


「はい」

 彩佳は頷いた。

「先生、ありがとうございました」


そのあと採血を済ませて椅子から立ち上がった時だった。

彩佳は昨日の疲れがまだ取れていないことをはっきり自覚した。

 

朝からずっと少し重かった身体が、採血と診察でさらに鈍くなっている。

 

ここで無理して寮へ戻るより、少し休んでから帰った方がいい。

 

そう思って、彩佳は経過観察室へ向かった。

 部屋には誰もいなかった。


 窓の外には排気塔が見える。

 前と同じ景色だ。

 でも、前と同じではない。

 ガイアへ出向する前、この窓から見えるものに意味はなかった。


 ただ会社の敷地の一部だった。


 今は違う。

 何も変わっていないように見える景色の中に、自分だけが違う時間を通って戻ってきた感じがある。


 ベッドへ腰を下ろし、背中を預ける。

 しばらく目を閉じていると、扉の向こうで足音が止まった。


「いたいた」


 佐山だった。 


「仕事はなんて言われた?」


 部屋に入りながら訊く。


「一月末まで休めって言われました、これでも短いって」


「そうですか」

 佐山は少しだけ目を細めた。

「意外と短いですね」


「先生なら彩佳さんの性格も考えてもう少し長く取ると思ったけど」


「どんな性格ですか」

 彩佳は笑って返した。


「すぐに無理する性格」

 佐山は即答した。


「ひどい」


「みんな同じこと言ってるでしょ」


 その通りだったので、彩佳は反論できなかった。

 少ししてから、佐山が何気ない調子で訊く。


「そういえば、最近実家に帰ってる?」


「いや……」

 彩佳は視線を落とした。

「しばらく帰ってないです……」


「せっかくの休みだから、帰ってみたら?」


「でも、外泊はいま禁止じゃ……」


「許可がないとね」

 佐山はさらっと言う。

「石井さんの上司は私」


「必要なら出します」


 彩佳は一瞬言葉に詰まった。

 正直帰りたくはない。


「一人で帰るのも……不安で」


 言ってから、すぐに早苗の顔が浮かんだ。

 佐山はそれを見逃さなかった。


「高橋さん?」

 とすぐに言う。


「なんでわかるんですか」


「顔に書いてある」


 佐山は小さく笑った。


「野村さんには私がお願いしとくから」


 先に外堀を埋められてしまった気がして、彩佳は少しだけ困ったように息を吐いた。

 帰るのか。

 実家に。

 その言葉の重さを、まだ胸の中でうまく持てないままだった。

     *

 夜、いつものように髪を乾かしてもらっている時だった。


 早苗がドライヤーを持ち、彩佳はベッドの縁に座っている。


 もうすっかり見慣れた光景なのに、前の自分には想像できなかった時間でもある。


「あの……早苗、お願いがあるんだけど」

 彩佳が言った。


「今回は急に来るパターンじゃないんだ」

 早苗が返す。


「ちゃんとしたお願いなの」


「今さら改まって言うお願いなんてある?」


「もう、真面目に話してるのに」


「真面目に聞いてる」


「調子狂う」


「ごめん」


 早苗は少しだけ笑った。


「それで、お願いって何?」


 彩佳は一度だけ息を整えた。


「実家に帰ろうと思うんだけど……一緒に来てほしい」


「移動とか、一人じゃ不安で」


「わかった」

 早苗はあっさり言った。


「え、聞いてた?」


「うん、実家に帰るんでしょ?」


「そう」

 彩佳は少し戸惑ったように言う。

「え、いいの」


「いいけど?」

 その言い方があまりに普通で、彩佳は逆に拍子抜けした。


「でも、外泊に許可いるんだった」


「それなんだけど…、もう相談してあって」

 早苗の手が一瞬止まる。


「私、行く前提じゃん」


「いや……早苗なら…ね?」


「やっぱり急に来るパターンだったか」

 早苗は呆れたように言いながらも、声は少しだけやわらかかった。


「明日、野村さんに確認しとく」


「いつ行くの?」


「今週末」

 彩佳は答える。

「金、土で行けたらと思ってる」


「了解」


 それだけで話はまとまった。

 前の自分なら、もっと遠慮して、もっと迷って、たぶん最後まで言えなかったと思う。


 ドライヤーの温風が髪を乾かしていく。

 部屋の中は静かで、外の冬の気配は窓の向こうに薄く残っていた。

 実家に帰る。

 母に会う。

 まだ気は重い。

 いつかは

 でも、一人じゃないと思うと、少しだけ息がしやすかった。

 やらなければいけないことは、まだたくさんある。

 でも、その一つ一つに、前みたいに一人で立ち向かわなくていいのかもしれないと、彩佳は少しずつ思い始めていた。

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