第44話 休みのかたち
日曜日の朝、彩佳は目を覚ますと、まず窓の外を見た。
今日も晴れていた。
冬らしい白い光が、寮の外の空気まで明るく見せている。
雲は薄く、空は高い。
こういう朝は、寒くても少しだけ外へ出たくなる。
身支度を済ませてから、彩佳は隣の部屋をノックした。
「おはよう」
少し間を置いて扉が開く。
「おはよ」
早苗は少し眠そうな顔をしていた。
髪もまだ完全には整っていなくて、いつもより少しだけ起き抜けの温度が残っている。
「眠そう」
彩佳が言う。
「眠い」
早苗は素直に返した。
「でも行く」
その返事が少しおかしくて、彩佳は小さく笑った。
二人で並んで寮の外へ出る。
昨日と同じコースだ。
寮を出て、敷地の坂をゆっくり下りて、ラクトセラムの周りを一周する。
朝の空気はよく澄んでいた。
吸い込むと少し冷たいのに、嫌な冷たさではない。
頬や鼻先がすっとする感じが、むしろ気持ちよかった。
街路樹はもうすっかり冬の色で、葉の少なくなった枝の向こうに明るい空が見える。
歩道の端には乾いた落ち葉が残っていて、靴の底が触れるたびにかすかな音を立てた。
「昨日、寝るの遅かった?」
彩佳が訊く。
「ううん」
早苗は首を振る。
「昨日出かけたから疲れかな」
「私も体力が落ちてるみたい」
そう言って、少しだけ笑う。
その言い方が早苗らしかった。
大げさにしない。
でも、何もなかったみたいにも言わない。
自分も試験を通ってきた身体なのだと、さらっと認める感じだった。
坂を下りきったところで、早苗が言う。
「お昼休んだら、夕方、近くのスーパーまで一緒に行く?」
「土日はご飯出ないし、平日は会社行かないから、お昼は自分で用意しなきゃだもんね」
「行く」
彩佳はすぐに答える。
「このままだと出費がやばい」
「ほんとは昨日行けたらよかったんだけどね」
「一緒に行きたかった」
「午後はちゃんと落ちてたでしょ」
「そうなんだけどさ」
彩佳は少しだけ口を尖らせた。
昨日の朝は新鮮だった。
空気も気持ちよくて、外を歩けること自体が少し嬉しくて、思っていたより頑張りすぎたのかもしれない。
戻ってからの午後は、身体の重さがはっきり違っていた。
「土日も入れたら、十二月は丸々休みになっちゃうんだよね」
彩佳が言う。
「一月から復帰しようとしてる?」
早苗が訊く。
「まさか」
彩佳は苦笑した。
「早苗はどうするのかなって思って」
「彩佳のリハビリ」
「そんな」
彩佳は思わず笑う。
「慣れれば一人で大丈夫だよ」
「んー、この時間嫌いじゃないし」
早苗は前を見たまま言う。
「まあ、私も予定ないのは事実」
少しだけ間が空く。
冬の朝の光が、道の端を静かに照らしていた。
「なんか、変な感じ」
彩佳が言う。
「何が」
「休み」
「休んでいいって言われると、逆に何したらいいかわかんない」
ゆっくり歩きながら言うと、早苗は少しだけ考えてから返した。
「何もしない練習じゃない?」
言いながら、早苗は自分でも、何もしないのは難しそうだと思った。
いきなり長い休みをもらって、どう過ごせばいいのか、自分もあまり分かっていない。
「難しい」
彩佳が言う。
「知ってる」
二人は顔を見合わせて笑った。
歩く速さはまだゆっくりだった。
でも、昨日よりは少しだけ身体の使い方が分かる。
どの辺で息が上がるか。
どこで引き返した方がいいか。
今の自分の歩幅を、少しずつ覚えていく感じがあった。
「でも」
彩佳が言う。
「皆からちゃんと休めって言われなかったら、午前だけでもちゃんと出社して仕事しようとしてたと思う」
「私はまだ不安」
早苗が言う。
「彩佳、すぐに無理するから」
「ひどい」
「事実でしょ」
その言葉を聞いた瞬間、早苗が前に言った
“彩佳を一人で行かせるのも嫌”
という言葉と、ガイア製薬で起きた出来事が一緒に浮かんだ。
あの時、自分は早苗に嫌な経験をさせたのだと思う。
待つしかない側へ押し出して、怖い思いをさせて、それでも一緒にいてくれた。
「ごめん……」
彩佳が言う。
早苗はすぐには返さなかった。
彩佳は少しだけ視線を落として続ける。
「でも前みたいに、“頑張れば何とかなる”とは思ってないよ」
「よかった」
早苗は短く言った。
「だから、いま新しい頑張り方を探してる」
「前の彩佳なら嫌がりそう」
「何が」
「人に頼ったり、無理そうなら途中でやめるとか、午前中しか動かないとか」
早苗は言う。
「そういうの全部」
彩佳は思わず笑った。
「確かに」
「でしょ」
そのあと二人は、夕方のことを考えて距離を短くし、早めに切り上げた。
戻る頃には、身体がほんの少し温まっていて、息の上がり方も昨日ほどではなかった。
それでも午後には落ちた。
ただ、昨日ほどひどくはない。
夕方に外出するのは、今の身体になってから初めてだった。
朝ほど楽ではない。
体の重さはある。
でも歩ける。
近くのスーパーまでの道は短いのに、彩佳にはそれでもちゃんと外出だった。
二人は売り場をゆっくり回りながら、軽食や簡単に調理できるものを選んで買った。
パン、スープ、ヨーグルト、冷凍のうどん、少し長く持つもの。
派手な買い物ではない。
でも、“休んでいる間をどう過ごすか”が具体的な形になる感じがした。
重い荷物は早苗が持ってくれた。
「悪いね」
彩佳が言う。
「知ってる」
早苗は即答する。
「だから持ってる」
「開き直り方がすごい」
「遠慮される方が面倒」
そのやり取りが、いまはありがたかった。
寮へ戻った頃には、身体の重さが明らかに違っていた。
朝とは比べものにならない。
脚も、背中も、胸の奥も、全部が少しずつ鈍く重い。
早苗もそれに気づいていて、部屋に入る前から心配そうに彩佳を見ていた。
「ごめん」
早苗が言う。
「無理させすぎた」
「私が行きたいって言ったから、気にしないで」
彩佳は息を整えながら答える。
でも、たしかに少しやりすぎたのだと思う。
午前と夕方、両方外へ出るにはまだ身体が追いついていない。
「シャワー無理そうなら、髪だけでも洗う?」
早苗が訊く。
彩佳は少しだけ考えてから言った。
「……お願いしようかな」
「了解」
夜の支度を終えると、早苗はベッド脇の椅子に座った。
いつもの流れみたいに、それが自然になっている。
「明日、診察?」
早苗が訊く。
「うん。九時から」
「今日は無理したから、明日は歩くのやめよ」
「うん……」
「無理しない」
「そうだった」
その返事に、早苗は少しだけ口元をゆるめた。
「それじゃ」
そう言って、部屋を出ていく。
静かになった部屋で、彩佳は携帯を手に取って予定を確認した。
明日から十二月だ。
一日一日が淡々と過ぎていく。
前進できているのかは、正直まだよく分からない。
でも、前ほど焦るような気持ちはなかった。
休むことにも、頼ることにも、まだ慣れてはいない。
それでも、焦って前へ出る以外のやり方が、自分の中に少しずつ形になり始めている気がする。
窓の外はもう夜で、寮の明かりが静かに床へ落ちていた。
冬の始まりみたいな冷たさが、窓の向こうに残っている。
彩佳はベッドへ身体を預け、浅く息を吐いた。
何もしないわけじゃない。
ただ、前みたいなやり方ではないだけだ。
そう思えたことが、今日は少しだけ救いだった。




