第43話 冬の朝
土曜日の朝、空気はよく澄んでいた。
寮の外へ出た瞬間、彩佳は思わず少しだけ肩をすくめた。
冷たい。
でも嫌な冷たさではない。
頬に触れる空気が薄く乾いていて、息を吸うと胸の奥まで冬が入ってくる感じがした。
「さむっ」
早苗がつぶやく
「でも、気持ちいいかも」
彩佳はそう言って着ていた上着のファスナーを首元までしめる。
寮の前にはまだ朝の静けさが残っている。
平日なら人の出入りや車の音がもっと混じる時間だが、今日は土曜で、会社全体が静かだ。
二人はゆっくり歩き出した。
寮から出て、ラクトセラムの敷地の出口へ向かう。
入口のあたりは下り坂になっていて、下り始めると自然に歩幅も小さくなった。
早苗は少しだけ歩調を落として隣につく。
「大丈夫?」
早苗が言う。
「うん」
彩佳は頷く。
「このくらいなら」
坂を下りながら見上げる空は、冬らしく高かった。
雲はほとんどなく、青がそのまま遠くまで抜けている。
夏の空みたいな強さはない。
白い光を含んだ、静かな青だった。
敷地の外へ出る。
それだけのことなのに、彩佳には少し久しぶりの感覚だった。
ガイアから戻ってきてから外へ出ることはあったが、こうして目的もなく歩くのは入社して初めてかもしれない。
敷地の周りを一周するように、二人はゆっくり歩いた。
街路樹はすっかり冬の色になっていて、葉の少なくなった枝が空の方へ細く伸びている。
道端には落ち葉が薄く溜まっていて、風が吹くと乾いた音を立てた。
どこかの家の庭先から、朝の洗濯物の匂いが少しだけ流れてくる。
寮や社屋の中にいると見えない生活の気配が、今日は妙にやさしく感じられた。
「こんなとこにトラックの出入口あったんだ」
彩佳がつぶやく
会社だと地下2階
敷地外なら地上と同じ高さ、大通りに出やすい位置だった。
「知らなかった」
普段とは違う発見がある事に少し驚く。
「こういうの、初めてかも」
彩佳が言う。
「散歩?」
早苗が訊く。
「うん」
「ただ歩くだけのやつ」
早苗は少しだけ考えてから言った。
「彩佳、休みの日も会社の資料見てたりしたもんね」
「たしかに」
彩佳は苦笑する。
「いつも何か急いでたかも」
その言葉を口にしてから、自分でも少しだけ引っかかった。
何に急いでいたのか。
仕事か。
成果か。
それとも、自分を差し出すことに間に合わなくなるのが怖かったのか。
答えはまだはっきりしない。
でも、今までの自分がいつもどこか急いていたことだけは、こうしてゆっくり歩いているとよく分かる。
「今日は急いでないね」
早苗が言う。
「うん」
彩佳は空を見たまま答える。
「いま急いでも、どうせ途中で息上がるし」
「珍しく的を得てる…」
「最近そういうの大事だってわかってきたの」
そう返すと、早苗は少しだけ笑った。
歩く速さはまだゆっくりだ。
敷地を一周するだけでも、彩佳にはちゃんと運動だった。
でも、以前のように“歩いている間ずっと身体を気にし続ける”感じではなくなってきている。
息が乱れる前にわかる。
少し止まれば戻る。
そういう自分の身体の扱い方を、少しずつ覚え始めていた。
途中、角を曲がるところで彩佳の足が少しだけ止まった。
胸の奥が少し忙しい。
それに気づいて、早苗も立ち止まる。
「少し休む?」
早苗が訊く。
彩佳は数呼吸だけ整えてから首を振った。
「まだいける」
それから付け足す。
「でも、あと半分くらいで帰りたい」
「了解」
それだけ言って、早苗はまた歩き出した。
励ましすぎない。
無理に褒めすぎない。
でも、こちらの歩幅はきちんと待ってくれる。
その感じが、今の彩佳にはちょうどよかった。
敷地へ戻る坂を上る頃には、身体は少しだけ温まっていた。
頬に当たる空気は相変わらず冷たいのに、手の先はさっきよりも冷えていない。
「冬って感じだね」
彩佳が言う。
「気づいたらね」
早苗が返す。
「あさってから十二月だよ」
少し間を置いてそう言った。
坂を上りきると、寮の建物が朝の光を受けて静かに立っている。
その景色を見て、彩佳は少しだけ息を吐いた。
「一周できた」
「できたね」
早苗が言う。
「今日はそれで十分」
彩佳は頷いた。
十分。
その言葉を前よりずっと素直に受け取れるようになってきた気がした。
同じ朝、佐山はひとりで墓地にいた。
冬の午前の光は白く、墓石の表面を冷たく照らしている。
風は弱かったが、止まって立っていると指先から体温が抜けていくのが分かった。
今日は、小出美紀の命日だった。
墓前に近づいた佐山は、そこで一度足を止めた。
新しい花が供えられている。
それだけではない。
線香も、まだ完全には燃え尽きていなかった。
灰の先にかすかな赤が残っていて、ほんの少し前までここに誰かがいたことが分かる。
「高村専務…」
背後からの足音で振り向くと高村が立っていた。
黒いコートに冬の光が薄く落ちている。
「佐山さん、久しぶりです。」
高村が言う。
「他にも誰か来てたみたいね」
佐山は少しだけ頷いた。
高村と二人で、先に供えられていた花を崩さないように位置を整え、自分たちが持ってきた花もその横へ添えた。
それから、二人で手を合わせる。
冷たい空気の中で目を閉じると、十二年前から止まったままだった時間の感触が少しだけ近くなる。
「佐山さんも毎年来てたの?」
「はい、仕事の都合で命日には行けなくても毎年必ず来てます」
「そう…」
短い返しだったが、その言葉には社員を守れなかった後悔が十分に含まれていた。
顔を上げたあと、高村が先に言った。
「今回の試験、どうだったの」
簡単な聞き方だった。
けれど、知りたいことは最初から決まっている声音だった。
佐山は少しだけ視線を落とした。
「一名、命を失いかけました」
高村の表情が、ごくわずかに固くなる。
「医師と看護師を同伴させても止められなかった…」
「はい、しかも、症状は軽く処理されていました」
佐山は続けた。
「急変前から中止相当の所見はあったのに、継続可能寄りに整理されていた」
「今回も、です」
高村は短く息を吐いた。
「私の力不足です」
「本当に申し訳ありません」
「でも、専務がラクトから医師と看護師を同伴させてくれたから命は助かったんだと思います」
佐山はそう答えた。
それは紛れもない事実だと思ったからだ。
「結局十二年前と変わっていないのね……」
その一言に、墓地の空気が少しだけ冷たくなった気がした。
少しだけ間が空く。
風が吹いて、墓前の花の葉先を小さく揺らした。
「ここで立ち話する内容でもないわね」
高村が言う。
「場所、変えましょうか」
二人は墓地を出て、近くの喫茶店へ入った。
昼前にはまだ少し早く、店内は静かだった。
奥の席に座ると、コートを脱いだだけで少しだけ肩の力が抜ける。
コーヒーの匂いと、低い音量のBGM。
さっきまでの墓地の冷たさとは別の静けさがそこにはあった。
注文を済ませたあと、高村が改めて口を開く。
「責任者は相原……補助は橋本さん?」
佐山は首を振る。
「責任者は相原ですが、補助は倉持という方でした」
「倉持……」
高村はその名前を転がすみたいに繰り返した。
「橋本さんじゃないのね」
「橋本さんって、以前からガイアの営業でラクトセラムを担当されていた方ですよね」
佐山が訊く。
「ええ」
高村は頷く。
「ただ橋本さんは、ただのガイアとラクトのつなぎ役じゃない」
「相原の補助として色々動くのが本来の彼女の役割」
「十二年前のこともあって、ラクトセラムに変な動きがないか監視もしてたのよ」
その話を聞いて、佐山は胸の奥で何かがようやく噛み合うのを感じた。
高村が不正をでっちあげられた時、橋本も出入りしていた。
ただの連絡係なら、あそこまで深く入る理由が薄い。
でも相原の補助で、なおかつ監視の役割もあったなら、あの時の動きにも説明がつく。
「彼女自身は」
高村が少しだけ遠くを見るように言う。
「十二年前のことは後悔してそうだったけど」
佐山はしばらく黙って、それから言った。
「橋本さんは、どっち側なんですかね」
「どっち側、ね」
高村は苦く笑うように言った。
「その答えは、本人にもきれいには言えないんじゃないかしら」
しばらくの沈黙の後、高村が言った。
「今回の件、私は許すべきではないと思う」
佐山は頷いた。
「すぐに動けるようには準備しています」
その答えを聞いて、高村は少しだけ黙り込んだ。
考えている、というより、覚悟の順番を整えている沈黙だった。
「………橋本に連絡を取ってみます」
高村が言う。
「今回の試験のことではなくて、あくまで十二年前のことを聞く形で」
「高村が試験に参加していないとなると、自分から降りた可能性が高い」
佐山は思わず顔を上げた。
「専務を陥れた人ですよ」
「それは相原の指示です」
高村は静かに答える。
「お互いの立場はあっても長い付き合いなので、何となくわかります」
その口調には怒りも恨みも、表にはあまり出ていなかった。
けれど、十二年分の後悔との区切りはたしかに含まれていた。
「橋本さんが口を開きますか」
佐山が言う。
「わからない」
高村は正直に答えた。
「でも、十二年前のことをまだ自分の中で終わらせていないなら、どこかで綻びはあるはず」
「そこに触れるなら、今かもしれない」
運ばれてきたコーヒーが、二人の前に置かれる。
湯気が細く上がっていた。
佐山はカップに手を伸ばしかけて、少しだけ止めた。
今回の試験。
彩佳の重症化。
軽く処理されていた記録。
高田の安全性評価メモ。
上原たちの整理。
そこへ橋本の線が加われば、十二年前は“遠い過去”ではなくなる。
「相原は」
佐山が言う。
「ずっと同じやり方でやってきたんですね」
高村はカップの縁に指を添えたまま、ゆっくり頷いた。
「たぶんね」
「国の圧力も、企業の焦りも、全部あったんでしょう」
「でも、それを理由にしていいことじゃない」
佐山は小さく息を吐く。
小出の命日に、小出の線がまた動き始めている。
偶然とは思えなかった。
でも、それを感傷だけで受け取るのは違う気もする。
今日必要なのは、たぶんそういうことではない。
止まっていた順番を、もう一度正しい位置へ戻すことだ。
「橋本さんの返事、待ちます」
佐山が言う。
「ええ」
高村は頷いた。
「その間に、私は資料をもう一度見直しておく」
店の外では、冬の白い光が道路を照らしている。
朝より少しだけ高くなった陽が、ガラス越しに薄く差し込んでいた。
穏やかな土曜の昼前だった。
でもその静けさの中で、十二年前の火はまだ完全には消えていなかった。
橋本という名前がまた浮かび上がったことも。
全部が、止まったままのものにまだ続きがあると告げているようだった。
佐山は温かいカップを両手で包みながら、目を伏せた。
今回の線だけでは足りない。
でも、今回の線があるからこそ、過去ももう一度外へ引き出せるかもしれない。
その感触だけが、冷え切らないまま胸の奥に残っていた。




