第42話 休むということ
起きると、自分の部屋だった。
当たり前のことなのに、久しぶりの感覚に違和感を覚えずにはいられなかった。
天井の色も、カーテンの質感も、机の位置も見慣れているはずなのに、身体の方がまだそこを“いつもの場所”として受け取りきれていない感じがある。
ベッドの上で少しだけ身を起こし、部屋の中を見回す。
夏服だった会社の制服も、もう冬服に変わっている。
季節はちゃんと進んでいた。
自分だけがそこから少し遅れて戻ってきたみたいだった。
八時を少し過ぎた頃、彩佳は寮を出た。
集合時間には余裕がある。
移動に時間がかかると思って、早めに出たのだが、意外とすんなり歩けてしまった。
四階会議室に着くと、まだ人は少ない。
後ろから一緒に来ていた早苗が言った。
「早かったか」
「ごめん」
彩佳は少しだけ笑う。
「もう少し移動に時間かかると思った」
「彩佳が回復してる証拠ってことで」
「あはは……間違いではないかも」
その言葉に、自分でも少しだけ救われる。
良くなっていないわけではない。
ただ、それを素直に喜びきれるほど、まだ身体の中身が追いついていないだけだ。
しばらくすると、森下と大沢も入ってきた。
四人が揃ったところで、会議室の空気がようやく“今日の仕事”の顔になる。
八時半を少し過ぎた頃、担当者が入ってきて説明が始まった。
「皆さん、長期間にわたる出向お疲れ様でした。今回は約十週間の出向でしたが、扱い上、十週間連続して勤務したことになっています」
淡々とした説明だった。
その声を聞きながら、彩佳は“十週間”という数字だけを少し遅れて受け取る。
そんなに長かったのか、とも思うし、まだそれだけしか経っていないのか、とも思った。
「そのため、二十日間の休暇を取っていただくことになります。連続でも一日単位でも構いませんが、年度内には取り切るようにしてください」
「それと……今回出向した被験者の方々は搾乳期間が二年を過ぎていますので、搾乳は一旦終了となります。再開を希望される場合でも半年後から、投薬プロセスからの再開になります」
「ただ、今回は供給体制の強化が急がれていますので、特例的に延長は可能です」
その一文に、会議室の空気がほんの少しだけ変わった。
特例的に延長できる。
そう言われても、彩佳の中には何も動かなかった。
むしろ、もうそこへ自分を戻すことを考えたくなかった。
「人事課長と面談後、また私に声をかけてください。社内端末に必要な書類を送らせていただきます」
説明が終わると、順番に面談へ入ることになった。
大沢から始まり、彩佳が呼ばれたのは三番目だった。
人事課長の向かいに座る。
静かな部屋だった。
壁も机も整いすぎていて、ここで話されることだけが余計に現実味を持つ。
「石井さん、出向お疲れ様でした」
課長が言う。
「昨日、上原先生や佐山さんからある程度話は聞いています」
「それで、今後の勤務についてですが、現在の状態を考えて、休暇取得後は休業に入ってもらいたいと考えています」
彩佳は一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
「異動希望がなければ、石井さんのデスクは残します」
「辛いことを言うようで申し訳ありませんが、まずは身体を戻すことに集中してください」
「今後の治療についても、このあと医務課に行ってください。お話があると思います」
「休業しないとダメなんですか」
気づけば、そう訊いていた。
「はい」
課長ははっきり言った。
「上原先生や佐山さんとも相談しています。まだ、実務に耐えられる状態ではないという判断です」
はっきり言われてしまうと、途方に暮れる感じがした。
自分の居場所がなくなるような。
置いていかれるような。
そんな気持ちが、急に胸の中へ広がる。
課長は彩佳の表情を見て察したのか、少しだけ声をやわらげた。
「石井さん、私もあなたの仕事は評価しています」
「ただ、今は身体に集中してほしい」
「居場所を奪うようなことはしません」
「……わかりました」
そう答えるしかなかった。
部屋を出ると、廊下で森下と目が合った。
「森下さん、私、面談終わりました」
「はい」
森下は短く返事をして、課長の待つ部屋へ入っていった。
彩佳はそのまま総務へ向かうために廊下を歩く。
少し進んだところで、先に面談を終えた早苗が待っていた。
「休暇のあと、休業しなさいって言われた」
彩佳が言う。
「嫌だった?」
早苗が訊く。
言われることを、最初から分かっていたみたいな返しだった。
「嫌っていうか……」
彩佳は少し言葉を探した。
「なんか、必要とされてないような、置いていかれるような感じ」
「実際、会社に来るだけでもしんどそうだし」
「早苗まで……」
少しだけ拗ねたような声になる。
「焦ってもしょうがないってこと」
早苗はあくまで平らに言った。
「でも、早苗はすぐ復帰できるじゃん」
言ってから、自分でも少しだけ口調が強くなったと思った。
早苗は彩佳を見て、それから短く言った。
「私は、せっかくだから休む」
「え?」
「“え?”じゃない」
「なんで」
「こんな休み滅多に取れないし」
「仕事は?」
「一人抜けても大丈夫」
早苗は即答した。
「野村さんからも休めって言ってもらった」
それから少しだけ間を置いて、続ける。
「とにかく、彩佳は身体が先」
彩佳は何も言えなかった。
「……搾乳は……」
「やめる」
それも即答だった。
もちろん、彩佳自身も延長するつもりはなかった。
人を助けるという目的だけでは、もう差し出す側には立てない。
それでも、何もできない今の自分はどこかもどかしくて仕方がない。
身体を戻すことが必要なのは分かる。
でも、必要だからといって納得できるかは別だった。
総務課で手続きの説明をひと通り受けたあと、彩佳は医務課へ向かった。
受付へ声をかけると、すぐに診察室へ案内される。
椅子には上原が座っていた。
試験の時より表情は穏やかで、ラクトセラムのスクラブを着た見慣れた姿だ。
ここへ戻ってきたのだと、こんなところでも少し思う。
「人事から話は聞きました?」
上原が訊く。
「はい」
「そんな顔しないでください」
そう言われて、彩佳は自分の顔がどうなっているのか少し気になった。
「石井さんは嫌かもしれないけど、あと二か月は休んでほしいです」
「薬の内服もまだ途中ですし、午後の落ち方を見ても、まだまだ回復途中です」
「急いで戻っても、仕事についていけなくて精神的にも辛くなります」
「似たようなことを早苗にも言われました……」
「みんな、心配してるんですよ」
上原は少しだけ口元をやわらげた。
「“彩佳”推しは社内に結構いますからね」
そんなことを言われても、彩佳にはあまり実感がない。
でも、その冗談めいた言い方のおかげで、少しだけ呼吸はしやすくなった。
「脱線しちゃいましたね」
上原はカルテに視線を戻す。
「今後、診察は週一回です」
「あとリハビリで、毎日少しでもいいので歩いてください。負荷を徐々に増やす感じで」
「耳の聞こえ方はどうですか?」
「あまり、変わらないです」
「そうですか……」
上原は短く頷いた。
「もう少ししたら、専門の科を受診してみましょうか」
それから電車カルテに何かを打ち込んで言う。
「三日後、週明けに来れますか。血液検査も一度やっておきたいので」
「わかりました」
診察を終えたあと、彩佳は最後に広報課へ顔を出した。
見慣れた机の並び。
人の気配。
ここへ戻るのはまだ先なのだと分かっているのに、見てしまうと胸の奥が少しだけざわつく。
「石井さん、お疲れ様」
佐山が声をかけてきた。
「面談は終わった?」
「はい。そのあと色んな人から休めって言われちゃいました」
「そう」
佐山は頷く。
「でも本当のことだから」
「身体を戻すことに集中してね」
「…はい」
もう何も言えなかった。
何を言っても、みんな同じことを言うのだろう。
そして、その同じことが正しいのも分かっている。
「とりあえず、今日は休暇の手続きだけでいいのでやって帰れますか?」
佐山が言う。
「休業の申請は、上原先生と相談してからでも大丈夫なので」
「わかりました」
そのあと、隣の経理で処理をしていた早苗と合流して食堂へ行く。
正直、午前中の面談と手続きだけでかなり疲れていた。
「上原先生、なんて言ってた?」
早苗が訊く。
「休めって」
彩佳は苦笑した。
「みんな一緒。さすがに思い知ったよ」
「……早苗、さっきはごめん」
「うん」
早苗はそれ以上何も言わなかった。
たぶん気にしていないのだろう。
その“気にしてなさ”がありがたかった。
「……せんぱい、彩佳先輩」
食堂への移動中
左からの声に、彩佳は反応が少し遅れた。
一度、早苗の方を見てしまう。
それから遅れて左の気配に気づく。
茉莉が立っていた。
状況がよく分かっていない顔をしている。
「あ……ごめん」
彩佳が言う。
「左耳、聞こえづらくて……」
茉莉は一瞬気まずそうな表情をしたが、すぐに少し安心したような顔になった。
「……すいません」
「茉莉、もしかして下でも声かけてた?」
早苗が訊く。
「さ、早苗先輩、わざわざ言わなくていいです!」
「そうなの? ごめんね……」
彩佳は小さく笑う。
「無視しちゃってたか……」
「いや、無視なんてそんな……」
茉莉は慌てて首を振る。
「右は大丈夫なんですか?」
「うん」
彩佳は頷いた。
「右なら絶対無視しない」
茉莉はその返しに、ようやく少しだけ笑った。
昼休憩のあと、やっぱり身体は落ちた。
午前中の面談と手続きだけで思っていた以上に消耗していて、午後は早退することになった。
次の出社は月曜日。
といっても、それも診察だけだ。
早苗も今日から二十日の休暇に入る。
夜、入浴を終えたあと。
彩佳はベッドの縁に座り、早苗に髪を乾かしてもらっていた。
ドライヤーの音が部屋にやわらかく響く。
「早苗、休み何するの?」
彩佳が訊く。
「ん、決めてないけど」
「…」
「私のリハビリに付き合って」
ドライヤーの音が一瞬止まる。
「最近、急に大胆」
「頑張って言ってる」
彩佳は少しだけ笑う。
「……一人だとちょっと不安で」
早苗は再びドライヤーを動かしながら答えた。
「いいよ」
「そのつもりだったし」
その一言だけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
休むこと。
それが今、やらなければいけないことなのだろう。
仕事に戻ること。
それ以外にも、やることはたくさんある。
母のことも、身体のことも、これから考えなくてはいけない。
何もできないからこそ、手を借りるしかない。
前と同じではない。
でも、すべてが後退したわけでもないと、彩佳は少しだけ思った。
誰かを頼ること。
きっと、前の自分ならこんなふうにはできなかった。
ドライヤーの温かい風が、濡れた髪を少しずつ乾かしていく。
その時間のあいだだけは、明日のことも、その先のことも、少しだけ遠くに置いていられる気がした。




