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第41話 帰還

その日は、いつもより少し早く目が覚めた。


まだ空は朝になりきっていない。

 眠気の残る頭で体を起こし、彩佳はしばらくそのまま座っていた。


 胸の奥にいつもの慎重さはある。

 でも、今日はそれとは別の落ち着かなさもあった。


 今日でここを出る。


 そう思うと、もう一度眠ろうとしても無理だろうと分かった。


 カーテンを少し開ける。

 湾岸の空が、朝焼けで淡く染まっていた。


 水面の色も、遠くの建物の輪郭も、まだ夜の名残を引きずっていて、全体が薄いオレンジの中に沈んでいる。


 三階はまだ静かだった。

 物音も少ない。

 端末の音も、人の足音も、まだほとんど混じっていない。

 いつもならこの静けさの中で、もう少しだけぼんやりしていられる。

 でも今日は、静かなのに気持ちだけが先に起きていた。


 彩佳はベッドへいったん横になり、天井を見た。

 終わりがないように感じた試験も終わる。

 今日でラクトセラムに帰れる。


 帰れる。


 そう思っても、胸の中がすっきり軽くなるわけではなかった。


 帰ったあとも元通りではない。

 身体のこと。

 仕事のこと。

 そして、母のこと。

 やらなければいけないことを順に思い浮かべると、気持ちは少しだけ沈む。


 嬉しいだけではない。

 むしろ、ここを出たあとに考えなければならないことの方が、今はまだ重く見えた。


 もう完全に目が冴えてしまったのだと分かって、彩佳は起き上がった。


 トイレへ向かう。

 戻ってきたばかりの頃に比べれば、ずいぶん身体は動かせるようになっていた。

 歩幅も安定している。

 息の上がり方も、前ほど露骨ではない。

 それでも、何でもない顔で歩けるほどにはまだ戻っていない。


 トイレから部屋へ戻り、もう一度窓の方を見る。

 朝日が差し込み始めていた。

 湾岸の景色は、さっきまでのオレンジ色から、少しずつ輪郭のはっきりした色へ変わっていく。


 毎日見ていたはずの景色なのに、今日は少しだけ違って見えた。

 ここで見た景色は、きっともう前と同じ意味では思い出せない。

 しばらくすると、三階に少しずつ物音が混じるようになった。


 遠くで扉が開く音。

 台車の小さな気配。

 スタッフの短い声。

 いつもの朝の時間が、今日もちゃんとやってくる。


 ドアがノックされた。


「おはよ」


 早苗が顔を覗かせる。


「準備どう?」


「洗面用具だけしまったら終わりだから大丈夫」


 そう言って、彩佳もドアの方へ向かった。

 廊下へ出る。


 洗面台で顔を洗い、短く髪を整える。

 朝の光の中で見る自分の顔は、まだ少し痩せていた。


 でも、急変直後に比べれば表情の戻り方はずっと自然だ。

 部屋へ戻ると、早苗が荷物の方へ目をやった。


「出る時、カバン持っていくから」


「さすが」


 彩佳は少しだけ笑った。


「それじゃ遠慮なく」


 その言葉に、早苗は一瞬目を丸くした。


「……どうしたの急に」


「頑張って言ってみた」


「何それ」


 早苗は笑って返した。

 そのやり取りだけで、胸の奥の緊張が少しだけ和らぐ。


 朝食を終え、部屋へ戻って着替えを済ませる。

 それだけでもまだ少し疲れる。


 でも今日は、その疲れの先に“出る”がある。


 九時前には、ラウンジに全員が集まっていた。


 A群もB群も、ラクト側の医師も看護師も、これで最後だと分かっている顔をしている。


 張りつめきった空気ではない。

 でも、晴れやかとも少し違う。

 十週間という時間が終わるにしては、皆どこか静かすぎた。


 それからの流れは早かった。

 スマートフォンなど電子機器の返却。

 機密情報に関する説明。

 試験中に発生した損害への補償についての説明。

 ひとつずつは事務的な手続きだ。

 でも、その事務性がかえって妙だった。

 この十週間を、紙と説明と署名に変えていくみたいで。


 補償の説明では、彩佳と森下はすでに対象として扱われていたらしく、今後の手続きについて細かく説明が入った。

 必要な通院。

 経過観察。

 補償範囲。

 連絡手順。


 倉持ではなく別の担当者が読み上げる形だったが、

早苗にはそれが

 補償すれば済む話に整えられている

ようにも聞こえて、複雑な気持ちになった。


 もちろん、必要な補償はあるべきだ。

 それ自体を否定したいわけではない。

 でも、補償の説明が丁寧であるほど、その前に起きたことまで整えられてしまう感じがして嫌だった。


 彩佳は説明を黙って聞いていた。

 途中で一度だけ視線を落とし、それからまた前を見る。


 感情が動いていないわけではない。

 でも今は、それを顔に出さずに受け取るしかない、という静かな諦めにも見えた。


 一通りの説明が終わり、昼前になって全員で免疫研究センターの入口へ出る。


「寒い」


 誰ともなくそう言った。

 それぞれが口々に似たようなことを言う。


 十一月末の外の空気は、はっきり冷たかった。

 九月にここへ来た時の服装ではかなり肌寒く感じる。


 急いで車両へ乗り込んでいく人の動きが少しだけ忙しい。


 彩佳はその場で、少しだけ立ち止まり振り返る。

 ここへ来た日のことを思い出す。


 同じ建物。

 同じ入口。

 でも、あの時の自分と今の自分は、もう何も同じではなかった。


 帰る。


 そう思っていいはずなのに、まだ胸の奥には少しだけ慎重なものが残っている。


 ここを出れば全部終わるわけじゃない。

 むしろ、ここから先に考えなければならないことの方が多い。


 それでも、今日はここを離れる日だった。


「彩佳、早く。寒い」


 早苗が車のそばから声をかける。


 自分が乗る前に、彩佳が来るのを待っていたらしい。


「うん」


 彩佳がそう返して車に乗り込むと、早苗もすぐに乗り込んでドアを閉めた。


 車はすぐに首都高速の入口へ入り、都心のビル群を抜けていく。

 窓の外を流れる景色は、ここへ来た時と似ているはずなのに、帰り道の方が少し静かに見えた。


 車内は思ったより静かだ。

 疲れているのもあるし、十週間分の時間がまだ身体に残っているのもあるのだろう。


 しばらくして、早苗がスマホの画面を見ながら少し気まずそうに言った。


「茉莉からメッセージ来てた」


「いつ?」


 彩佳が訊く。


「出向した日の夕方」


「まずいね」


「とりあえず返信する」


 彩佳もスマホの電源を入れ、メッセージアプリを起動した。

 しばらく通知が一気に流れたあと、茉莉の名前を見つける。


「茉莉ちゃん、写真も送ってくれてたんだね」


 早苗も自分のスマホで写真を開く。


「顔色わる」


「思った」


 彩佳は笑って返した。

 画面には、緊張していたのか、無理をしていたのか、ぎこちない笑顔を浮かべた三人の写真が映っていた。


「帰ったら撮り直しだね」


 彩佳が言う。


「そうだね」


 早苗が答える。

 午後の高速は混雑していて、ラクトセラムに到着したのは十四時前だった。

 建物の裏側、社員入口に車を止め、中へ入る。

 外の冷たさとは違う、見慣れた建物の空気が少しだけ懐かしい。


 河合と上原が人事課長へ報告に行くあいだ、他の出向メンバーは五階の食堂で待機することになった。


 少しして河合が戻ってきて言う。


「人事課長から、医師、看護師は休憩後に4階会議室に集まって下さい。試験の報告を聞きたいそうです。」


「他の4人はここで解散です」


「それから、明日の朝八時三十分に四階会議室に集合して下さい。今後の勤務についてそれぞれ話があるそうです」  

  

「皆さん、本当にお疲れさまでした」


その言葉の後、それぞれが遅めの昼食に入る。 


「石井さん、高橋さん」


 佐山が二人を呼ぶ。


「はい」


 早苗と彩佳が同時に返す。


「経理と広報の報告は私がやっておきますので、二人は寮に戻って大丈夫です」


「わかりました」


 二人が答える。

 でも早苗はそこで少し考えてから言った。


「でも、一応、私の上司には声をかけて帰ります」


「野村さん?」


 佐山が訊く。


「はい。心配してくれていたので」


「そうですか」


 佐山は頷いた。


「それなら顔を見せてあげた方がいいかもしれないですね」


 それから彩佳の方を見る。


「彩佳さん、食事の後、医務課の部屋で待てますか?」


「報告が終わったら荷物と一緒に寮まで送ります」


「それなら私が」


 早苗がすぐに言う。


「部屋も隣なので」


 彩佳は少しだけ間を置いてから答えた。


「……すいません」


 そのあと、早苗に荷物を持ってもらい、二人で寮へ戻る。

 久しぶりの自分の部屋に入った瞬間、彩佳は小さく息を吐いた。

 見慣れた机。

 ベッド。

 カーテン。

 何も変わっていないはずなのに、戻ってきたのだという感覚だけが静かに胸へ落ちる。


「夜お風呂上がったら教えて」


 荷物を置きながら早苗が言った。


「髪乾かすの手伝うから」


「ありがと」


 彩佳は答える。


「今日は結構疲れたね」


「それはそう」


 早苗が言う。


「移動だけで一日終わる」


 その言い方が少しだけおかしくて、彩佳は笑った。

 夕方、寮の食堂へ行くと、茉莉がいた。

 こちらへ気づいた途端、少しだけ慌てたような顔になる。


「茉莉、ごめん」


 早苗が先に言う。


「スマホ回収されてた」


 茉莉は目を瞬かせてから、少しだけ口を尖らせた。


「私が試験出向しないのに写真撮ろうなんて言ったから、お二人から嫌われたのかと思ってました」


「そんな事で嫌いにならないよ」


 彩佳がすぐに言う。


「二人に嫌われたら居場所なくなっちゃいます」


「どれだけ人見知りなのよ」


 早苗が呆れたように返す。


 そのやり取りに、彩佳は少しだけ笑った。

 茉莉もようやく力が抜けたみたいに、肩を落とす。

 他愛もない会話だった。

 でも、その“他愛もない”こと自体が、戻ってきた感じを一番強くした。


 明日からやらなければいけないことはたくさんある。


 試験報告。

 今後の勤務。

 身体のこと。

 父に言われたこと。

 母のこと。

 考えれば重いものはいくらでもある。


 それでも、今日だけは今の気持ちをそのまま噛みしめようと彩佳は思った。


 戻ってきた。


 元通りではないままで。

 でも、ちゃんと戻ってきた。


 その事実だけは、今日はまだ少しあたたかかった。

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