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第40章 帰還前夜

 試験終了の日、三階の空気は妙に静かだった。

 朝からいつも通りの流れで時間は進んでいく。


 バイタルチェック。

 記録。

 観察。

 端末へ入力される数値。


 人の動きは変わらないのに、その全部の下に


「今日で終わる」


 という意識だけが薄く敷かれている。


 A群の最後のバイタルチェックが行われた。

 特筆するような有害事象は認められない。

 少なくとも、正式にそう記録できるだけの数値が並んでいる。


「これで全ての試験は終了です」


 倉持は、早苗と大沢に向けてそう言った。

 相変わらず表情は変わらない。

 達成感も、安堵も、申し訳なさもない。


 ただ手順をひとつ終えた人間の顔だった。


「お疲れさまでした」


 大沢がそう返す。


 早苗は何も言わなかった。


 頷きもしない。

 ただ短く視線を落として、指先だけを膝の上で組み直した。


 終わった。


 そう言われても、胸の中にまっすぐ入ってはこない。


 数値の上では終わったのだろう。

 でも、この三階で起きたこと全部が、その一言で終わるはずがなかった。


 午前の後半、上原、河合、佐山、清水がスタッフステーションへ集められた。

 倉持から、帰還に関する説明があるという。


「試験の工程は本日で全て終了になります。ご協力ありがとうございました」  


倉持は端末画面を見たまま言う。


「今後一か月程度、週一回、有害事象がないかラクトセラムからも報告をお願いします」


 上原たちは黙って聞いていた。


「明日の朝九時頃を目途に、スマートフォンなど電子機器の返却を行います」


「そのあと十時頃から、本試験の機密情報に関する説明、また試験中に発生した損害に対する補償に対する説明を行います」


「すべてが終わり、解散となるのは昼前の見込みです」


「前にお伝えしましたが、送迎に関してはこちらで車を手配しております」


 相変わらず、倉持の声にはほとんど起伏がなかった。


 誰がどんな身体でここを出るのか。


 その実感を持たないまま、ただ運用の順番だけを読み上げているように聞こえる。


「何か質問はありますか」


 誰もすぐには答えなかった。

 質問したいことがないわけではない。

 だが、いまここで問うべきことではないのも全員分かっていた。


「特になければ以上です」


 倉持が言う。


「明日は時間通りにお願いします」


 説明が終わり、倉持が去ったあともしばらく、スタッフステーションには何とも言えない沈黙が残った。

 最初に息を吐いたのは河合だった。


「終わった、って顔じゃないですね」


 小さく言う。


「数値の話しかしてませんから」


 清水が答える。


 声は穏やかだったが、言葉はまっすぐだった。


 佐山は記録板を閉じながら低く言った。


「無事に終わった、で済ませるには色々ありすぎましたしね」


 上原は机の上の書類へ視線を落としたまま、小さく頷いた。

 今はまだ、やるべきことがある。

 その重さをいちばんよく分かっている顔だった。


 夕方の食後、ラウンジにはいつもより少しだけ人の気配があった。


 帰る前日だというだけで、空気が緩んでいる。


 試験中ずっと張りついていた緊張感もかなりほどけていた


「やっと帰れるね」


 窓際の椅子に座った彩佳が言った。

 以前より会話は続くようになっていた。


 夕方になるとやはり疲れは前へ出る。

 声も少し落ちる。

 それでも、短い会話ならこうして形になる。

 動ける時間も伸びていた。

 もちろん元通りではない。

 でも、戻ってきた直後とももう違う。


「色々疲れた」


 早苗は息を吐いたあと、そう言った。


「それはそう」


 彩佳が少しだけ笑う。


 少し離れた席では、大沢と森下が何か話していた。

 森下の表情にもまだ不安の影はある。

 でも、それだけではない話題がようやく混じるようになっている。


 大沢も、気を遣いすぎない話し方が少し戻っていた。

 早苗が彩佳を見る。


「準備、手伝う?」


 彩佳は首を振る。


「朝、一通り終わらせたから大丈夫かな」


「今日はもう動けそうにないや」


 その言い方が、少し前よりずっと自然だった。

 

 無理に

「大丈夫」


 と言わない。

 限界を限界のまま口にできる。

 それもまた回復の一部なのだろうと早苗は思う。


「わかった」


 早苗が言う。


「明日の朝、一応顔出す」


「うん、ありがと」


 大きくはない、短いやり取りだった。

 でも、その短さの中に今の二人には十分なものが入っていた。


 そのあと彩佳は自室へ戻っていった。

 夕方の会話はまだ少ししんどそうだった。

 歩ける時間は増えても、夕方の体力まではまだ戻りきっていない。


 それでも、部屋へ戻る足取りは以前よりしっかりしている。


 ゆっくりでも、自分で戻っていける。


 その夜、二十三時を回った頃だった。

 三階フロアの入口の認証が、ごく短く反応した。

 補助観察員もすでに帰り、残っているのはラクト側の人間と最低限の夜間要員だけ。


 その時間に動く人影は限られている。


 最初に気づいたのは清水だった。


 スタッフステーションで記録をまとめていた手を止め、顔を上げる。


 入口の向こうから入ってきたのは高田だった。


 野上のパスワードを使ったのだと、清水にはすぐ分

かった。

 ガイアで接触出来るのも今夜が最後だ。

 書類を貰うために今日だけは、中で会うことにしていた。


 高田が先に言う。


「長くはいられません」


 清水は短く頷き、スタッフステーションの奥へ視線を向けた。


「こちらへ」


 それだけ言う。

 案内された先には、すでに上原、河合、佐山もいた。


 高田は周囲を一度だけ確認してから、小さく息を吐いた。


「なんとか間に合いました」


「今日の観察分までまとまってます」


 そう言って、USBメモリーを差し出す。


「A群とB群、比較できるようにまとめた安全評価メモです」


「会社とは別のPCで作ったので、検査結果などデータ関係は手打ちですが、告発には十分役立つと思います」


 その言葉に、場の空気がわずかに変わる。

 河合が先に手を伸ばし、USBを受け取った。


 小さなものだ。


 でも、その中に入っているものの重さは誰にでも分かった。

 高田は続ける。


「私個人で社内で告発しても、もみ消されて終わります」


「だから、こいつを必ず生かしてください」


 その“こいつ”という言い方だけが、今までの高田の丁寧な喋り方から少しだけ外れていた。


 それだけ、ここへ来るまでにいろいろなものを押し殺してきたのだろう。


「当たり前です」

 河合が言う。


 清水も続けた。

「高田さんの立場もありますからね」


 高田はそこで、乾いたように少しだけ笑った。


「はは……告発が途中までしか通らなかったら、私はきっとクビですね」


 冗談めかしているようで、実際はあまり冗談になっていない。

 でも誰もそこを軽く受け流さなかった。


「確認したいことがあれば連絡を下さい」


「長居は危険なのでそろそろ失礼します」


 そう言って、高田は足早に去っていく。


 引き留める声は誰も出さなかった。

 今夜はここまでで十分だった。

 扉が閉じると、しばらく誰も何も言わなかった。

 最初に口を開いたのは佐山だった。


「ラクトセラムに戻っても、やることは山積みですね」


「はい」

 上原が答える。


「でも資料自体は、これでほぼすべて揃いました」


「こちらはまだ紙面のデータのままですが、まとめれば今回の試験に関する資料としてはかなり強いものになると思います」


 河合がUSBを見下ろしたまま言う。


「A群とB群の比較があるのは大きいですね」


「彩佳さんだけを“例外的な急変”で片づけさせにくくなる」


「そうですね」


 上原が頷く。


「森下さんの経過も入っているなら、なおさらです」


 少しして、上原が続けた。

「……あとは、十二年前の試験ももう少し固めることができれば」


 その言葉に、佐山が顔を上げる。

 高田のメモ。

 上原の評価。

 河合と清水の現場整理。

 今回の線は、かなり揃った。


 でもそれだけでは“今回の問題”に留まる。


 十ニ年前と繋がれば、構造そのものになる。


「確か」


 河合が言う。


「社名がラクトセラムになる前のカルテも残ってた気がします」


「残っています」


 佐山が答えた。


「ただ、試験に関することは何も…」


 佐山は、小出の死の真相を知るためにラクトセラムへ入社している。

 医務課兼務の立場を使って、小出の電子カルテを見ていたこともある。


 そこにあったのは、一般的な診察記録のみで試験の実相に届くものではなかった。 


「高村専務が何か知らないか、戻ったら聞いてみます」


 佐山が言う。


「わかりました」


 上原は短く答えた。

 そのあと、上原は机の上の紙とUSBを見てから、少しだけ声を落とした。


「ここで出来ることは、一通りやれたと思います」


「河合先生、清水さんにも危ない橋を渡らせてしまって……本当にありがとうございます」


 河合は首を振る。


「皆、気持ちは同じだと思います」


「上原先生は若いのに頑張ってますよ」


 それから、空気を少しだけ切り替えるように続けた。


「今日は明日の準備をして、休みましょう」


「帰る前に倒れたら笑えませんし」


 清水が小さく頷く。


「賛成です」


「明日は明日で、表向きの説明がありますから」


 佐山も記録板に手を置いたまま、静かに息を吐いた。

 試験は終わった。

 でも、終わったのは手順の一つに過ぎない。

 ここから先の方が長いことを、むしろ全員が分かっている。


 ステーションの外では、夜の三階が相変わらず静かだった。


 被験者の部屋。

 観察室。

 ラウンジ。

 ここで過ごした十週間が、表面上は何もなかったような顔で並んでいる。

 けれど、その静けさの奥で残されたものはもう消えない。

 消させないために、持ち帰る準備もできている。


 明日ここを出る。

 スマートフォンが返され、説明があり、車で帰る。

 それだけ聞けば普通の試験終了みたいだ。


 でも本当は、その明日からようやく別の仕事が始まるのだと、誰もが分かっていた。


 机の上に置かれたUSBメモリーは小さかった。

 けれど、それはこの三階で軽く処理されてきたものたちの重さを、ようやく別の形に変え始めた最初のかたまりでもあった。


 佐山はそれを見つめながら、ふとラウンジで

「やっと帰れるね」

 と言った彩佳の声を思い出していた。


 帰れる。


 たしかにそうだ。

 でも、元の場所へ戻るだけでは終わらない。


 この三階に残したものを、今度は外へ持っていく。

 その順番が、明日から始まる。

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