第39章 試験の終わり
「今日で投薬は終了です」
「これから一週間の経過観察で、試験も終了となります」
朝の投薬時、倉持はいつもの調子でそう言った。
声に特別な感慨はない。
事務連絡の延長みたいな温度だった。
それでも、その一言が共同観察室の空気を少しだけ変えた。
早苗は椅子の背にもたれたまま、最後の薬を口にする。
コップの水で流し込み、喉を一度だけ動かした。
初めの頃は頭痛が酷かった。
こめかみの奥を鈍く叩かれるみたいな重さが続いて、薬を飲むたびに身体が試験の中へ押し込まれていく感じがした。
けれど四週目が終わったあたりから、その頭痛はほとんど出なくなっていた。
副作用が消えたというより、身体が別の形で慣らされていった感じに近い。
向かいには大沢が座っている。
大沢も静かに最後の薬を飲み終えて、短く息を吐いた。
「終わり、ですか」
大沢が言う。
「まだ一週間ありますけどね」
倉持は端末に目を落としたまま答えた。
「投薬は本日で終了です」
それだけ言って、次の確認事項へ移る。
実際には“終わり”ではなく、管理の形が変わるだけだということが、その口ぶりだけで分かった。
早苗は目を閉じる。
個室の並びの先に、彩佳の部屋がある。
戻ってきた時より、彩佳は確かに回復している。
歩ける距離も増えた。
髪も洗える。
シャワーも体調がいい日は入れている
ラウンジへ出る日もある。
でも、それは“元通りに近い”という意味ではない。
前よりましになった、というだけだ。
森下もそうだった。
表情の強張りは少し減り、不安の言葉も前ほど切迫してはいない。
それでも、あの人の身体に何も起きていなかったわけではないことを、ここにいる誰も忘れてはいない。
当初、期待されていたのはB群だった。
高出力群。
短期間で大きな成果を出す側。
でも、彩佳と森下を見れば、それがもうこのままの形では運用されないことくらい分かる。
きっと次に繋がるのはA群だ。
大沢と私。
比較的安定して最後まで走り切れた側。
副作用はあっても、重篤化までは至らず、搾乳量は増えている。
記録だけ見れば、“使える成功例”に一番近いのはそちらだろう。
多くの命が救われてほしい。
全くそう思わないわけではない。
もし、本当にこの先で感染が減って、助かる人が増えるのなら、それ自体を否定したいわけではない。
でも、その前提にここで削られた身体があることを知ってしまった以上、素直に頷くこともできなかった。
人の人生を犠牲にした薬なんて、使いたくもない。
国の目的。
企業の思惑。
感染終息という大義。
そこには最初から、個人の感情なんて含まれていない。
誰がどんな気持ちで薬を飲んだか。
どれだけ怖かったか。
どこで止めてほしかったか。
そういうものは、成果の数字の前では簡単に薄くなる。
だからこそ、早苗はこの試験の成果が気に入らなかった。
救われる人がいるかもしれない、ということと。
このやり方が許せる、ということは。
たぶん別の話だ。
倉持は必要事項を淡々と伝え終えると、最後に短く付け加えた。
「経過観察中も体調変化は必ず申告してください」
「記録上、必要なものは引き続き拾います」
その“記録上”という言い方に、早苗はわずかに視線を上げた。
拾っているのか。
本当に。
そう思う。
共同観察室を出たあと、廊下の先ではスタッフステーションに上原、河合、清水、佐山の姿が見えた。
四人が集まって話していること自体は、もう珍しくない。
以前より露骨な緊張はない。
けれど、落ち着いたように見える今も、何か別の線がまだ続いていることだけは分かる。
河合が紙を一枚差し出し、上原がそれを受け取る。
清水は端末の画面を見ながら短く何かを言い、佐山が記録板に目を落とす。
その動き方は、普通の申し送りにも見える。
でも、ただの申し送りではないことも、もう早苗には分かっていた。
高田のことを、早苗は直接知らない。
でも、自分が渡したあの小さなメモ帳の内容がまだどこかで生きているのだろうと思う。
派手なことは何も起きていない。
それでも、切り捨てられないものを残そうとしている人たちがいる。
その事実だけが、今の三階で唯一まともなもののようにも思えた。
昼過ぎ、ラウンジに出ると、彩佳はすでに窓際の椅子に座っていた。
今日は朝のうちに少し歩いたらしく、座っているだけでもわずかに疲れが見える。
でも、部屋から出てこられる程度には保てているらしかった。
「やっと終わるね」
彩佳が言う。
早苗は向かいに腰を下ろした。
「投薬は今日で終わり」
「あと一週間、経過観察」
彩佳は窓の外へ視線を向けたまま、小さく頷く。
「そっか」
それ以上は続かなかった。
“よかった”とも、“長かった”とも、すぐには言えない空気だった。
少ししてから、彩佳が言った。
「早苗は……どう?」
「何が」
「終わるって言われて」
早苗は少し考えた。
「実感はある」
「でも、すっきりはしない」
それがいちばん近かった。
大沢と自分が、試験の成功例になりつつあることは分かる。
数値も、搾乳量も、そういう方向を向いている。
でも、その成功の隣に彩佳と森下の身体がある以上、そこだけ切り離して受け取れるほど器用ではなかった。
「私は成果が出てるのが気に食わない」
早苗が言うと、彩佳は少しだけ口元を動かした。
「言い方」
「本当でしょ」
そう返しながら、早苗は彩佳の顔を見た。
彩佳は何か言いかけて、やめた。
その止まり方で、言おうとしたことの輪郭が少しだけ分かる気がした。
「こないだもそんな顔してた」
「そうだっけ?」
「うん」
それ以上早苗は追わなかった。
彩佳は3階に戻ってきてから、たまに考え込んでいる時がある。
前と同じではいられない…
きっと彩佳なりの答えを探しているのだろう
追わない方が事も、少しずつ分かるようになってきている。
夜、自室へ戻ったあと、彩佳はしばらく窓の前に立っていた。
もちろん長くは立っていられない。
数十秒だけ、窓枠に手を添えるようにして外を見る。
遠くのビル群には灯りがつき屋上には赤い光警告灯がゆっくり点滅している、少し離れた場所には観覧車の光も見える。
湾岸の夜景は変わらずそこにあるのに、自分の立っている場所だけが以前とは違って見えた。
"あと一週間で終わるって"
昼間、ラウンジで早苗が言っていた。
わかってはいた。
試験が終盤だということも。
投薬が今日で終わることも。
でも、実際に口に出されると、急に現実味が出る。
もうすぐ終わる。
やっと帰れる。
でも、元通りではない。
体力は戻りきっていない。
左の音はまだ少し遠い。
午後にはちゃんと落ちる。
急変する前の自分と、いまの自分はもう同じではない。
成果は――きっと、出せていない。
そう思って、彩佳は少しだけ目を閉じた。
自分は何も残せなかったのではないか。
身体を壊して、途中で倒れて、それで終わっただけなのではないか。
社会に貢献できたものも、きっと何もないのだろう。
けれど、その考えのすぐあとに、夢の中で聞いた声が浮かぶ。
差し出すな。
自分を使え。
その言葉が、ずっと引っかかっている。
ヒーローだった父を、彩佳はずっと追っていた。
人を助ける人。
自分より先に誰かを選べる人。
そういう姿を、ずっとまっすぐだと思っていた。
でも、それもきっともう違う。
違うのだと分かり始めているのに、
自分は何を目標にすればいいのかがまだ分からない。
窓の外を見ながら、彩佳はゆっくりベッドへ戻った。
腰を下ろし、少し息を整えてから横になる。
目を閉じると、今度は母の顔が浮かんだ。
お父さんとは同じ道を歩んで欲しくない
彩佳には彩佳の人生があるんだから
そういうことを、昔から何度も言われていた気がする。
父と同じ道…
自分も死の淵に立った、それは間違いない
母がやめて欲しいと願っていた道の先の結果だ。
父への償いなのか、父を肯定する自分を否定されたくないからなのか常に見本であろうとしていた。
中学、高校はとにかく必死で頑張った、辛くても笑顔でいようとした。
それで成果も出ていたし、この生き方で間違っていないと思っていた。
でも、行き着いた先に答えなんて無かった。
父の言葉もちゃんとは理解出来ていない。
毎日が出来ない事ばかりで誰かの助けが無いとまともに生きることすら出来ない。
母とは高校で喧嘩みたいになってからは、あまり口も聞いていない。
父のこと。
母のこと。
やるべきこと。
やりたいこと。
救うということ。
その全部が、どこかでこんがらがったまま置かれている。
母に会った方がいいのだろう。
そう思う。
でも、思うことと、会いたいことは違う。
「……会いたくない」
気づけば、そう漏れていた。
部屋の中は静かだった。
夜の三階の静けさは、昼間より少しだけ深い。
遠くで扉が閉まる音がして、また止む。
会いたくない。
でも、会わないままでいいとも思えない。
その両方が胸の中に残る。
もうすぐ試験は終わる。
でも、終わるのは試験だけなのかもしれないと、彩佳は思った。
終わらせなければならないものは、たぶん他にもある。
ベッドの上で浅く息を吸い、ゆっくり吐く。
疲れている。
明日もたぶん午前は少しましで、午後には落ちる。
その繰り返しの先に、一週間後がある。
窓の外では、ビルの明かりが見えて屋上には赤い光警告灯が点滅している、ぼんやりとその景色をみつめる。
終わりが近づいている。
でも、何を終えて、何を始めるのかは、まだ自分でも分からなかった。




