第38話 それぞれの経過
彩佳がガイア三階へ戻ってきてから、二週間ほどが過ぎていた。
時間が経ったからといって、急に身体が元通りになるわけではない。
朝は比較的ましで、午後には落ちる。
その基本の流れはまだ変わらなかった。
でも、その“まし”の幅は少しずつ広がっていたし、落ちたあとに戻ってくる速さも、ほんの少しだけ前よりよくなっていた。
朝、早苗が付き添う流れも、もう自然に形になっていた。
起きて、部屋を出て、洗面へ行く。
必要なら途中で車椅子を使う。
髪を整える。
顔を洗う。
その一つ一つは、まだ大仕事ではある。
それでも、以前のように全部を佐山や清水の手でやってもらう段階ではなくなっていた。
髪も、今では早苗ひとりの補助で洗えるようになっている。
シャワーもそろそろだという話も出ているが上原の許可がまだおりていない。
立っている時間も、温度の負荷も、もう少し様子を見たいという判断だった。
正直、そこまでひとりで行ける感じはまだない。
でも、洗髪が早苗ひとりで回るようになったこと自体が、ちゃんと前進だった。
その朝も、早苗はいつものように301の前で足を止めた。
「おはよ」
「起きてる?」
「うん」
扉を開けると、彩佳はちょうどベッド脇に腰かけていた。
急変直後の頃ほどの弱々しさはない。
でも、痩せた頬や薄くなった輪郭はまだそのままで、長く立っていればすぐに疲れが出ることも見て分かる。
「今日は髪どうする?」
早苗が訊く。
「あとで洗う」
彩佳は答える。
「朝は、顔だけでいいかも」
「了解」
短いやり取りだけで、今の身体の調子がなんとなく共有できるようになっていた。
どこまでいけそうか。
どこで止めた方がいいか。
以前より少しだけ、二人とも分かるようになっている。
洗面へ向かう足取りは相変わらず軽くはない。
でも、前のように数歩ごとに止まるほどでもなくなった。
早苗は左側につき、離れすぎない距離で歩幅を合わせる。
「今日は朝の顔いいね」
早苗が言う。
「評価が雑」
「ちゃんと見て言ってる」
彩佳は少しだけ笑った。
笑うことにも、前より少し体力を使わなくなってきている。
それでも洗面台に着く頃には、やはり胸の奥は少し忙しくなった。
顔を洗い、髪を軽く整え、深く息を吐く。
その一連の動きだけで、いまの自分の限界がどのあたりにあるのか、まだ毎朝確かめるような感じがあった。
午前のうち、彩佳は少しだけラウンジへ出ることも増えていた。
長くはいられない。
でも個室の外へ出て、他の人の気配のある場所で短く座る。
そのくらいならできる日が出てきている。
その日のラウンジには、森下と大沢がいた。
早苗も一緒にいて、彩佳はそこへ少し遅れて加わった。
森下は以前より顔色がよかった。
不安そうな表情の癖はまだ残っている。
でも、その不安の上に少しだけ別の色が乗り始めているのが分かる。
「最近どう?」
早苗が訊くと、森下は少し迷ってから答えた。
「動悸も、足の浮腫も少しずつ落ち着いてきました」
「まだ不安ですけど」
「でも前よりは楽です?」
大沢が訊く。
「……うん」
森下は小さく頷く。
「まだ怖いけど、前みたいにずっと何か起きそうって感じではなくなってきました」
その言葉に、大沢が少しだけ肩の力を抜く。
「このまま何もないまま終わってほしいですね」
「私と高橋さんは搾乳量増えてますし」
その言い方には、複雑なものが混じっていた。
成果が出ている。
だから試験は成功へ向かっている。
でも、その成功を手放しで喜べるほど、この三階で起きたことは軽くない。
早苗が言う。
「投薬は私と大沢さんだけだしね」
「私は自分の搾乳量増えてるのが気に食わないけど」
大沢が苦笑する。
「気持ちはわかります」
「でも、後1週間で投薬も終わるし、もうすぐ寮へ帰れますね」
森下はそのやり取りに少しだけ口元をゆるめた。
こういう、何でもない会話がラウンジに戻ってきていること自体が、三階の空気が少し変わってきた証拠でもある。
彩佳はその会話を聞きながら、膝の上で指を組んでいた。
搾乳量は増えている。
試験は終盤に向かっている。
大沢も早苗も、今のところ大きな崩れはない。
森下も、回復の方へ足を向け始めている。
このままいけば、人が救われる。
そう言いかけた。
でも、喉の手前でその言葉は止まった。
違う、と思った。
それで人が救われるのかもしれない。
でも、それをいま自分が、この場所で、そのまま口にしていい気がしなかった。
その言葉は、何かを早く片づけすぎる感じがした。
「彩佳?」
早苗が見る。
「……なんでもない」
彩佳は小さく首を振る。
早苗はそれ以上追わなかった。
ただ、追わないこと自体が分かっているみたいに、一度だけ視線を合わせてから外した。
ラウンジの空気は、試験開始直後や急変直後に比べればかなり落ち着いて見えた。
試験終盤の三階は、表面上は穏やかだった。
強い副作用を正面から訴える者もいない。
森下も彩佳も快方へ向かっている。
A群の投薬も終わりが見えている。
搾乳量や数値だけを見れば、むしろ成功に近づいているようにさえ見える。
でも、その穏やかさがそのまま安心になるわけではなかった。
スタッフステーションでは、四人が集まって話し込む様子が時々見えた。
上原、河合、清水、佐山。
以前ほど張りつめた空気ではない。
声を潜めてもいない。
表向きには落ち着いて見える。
それでも、机の上の紙の量と、短く交わされる視線だけは、まだ何かが続いていることを示していた。
彩佳はその様子を、ラウンジから何度か見ていた。
忙しそうにしている。
でも、急変直後の慌ただしさとは違う。
もっと静かで、もっと長い仕事をしている感じだ。
それが自分のことだけではないのだと、なんとなく分かる。
でも今は、まだそこへ踏み込む気にはなれなかった。
自分には、自分の朝と昼と夕方がある。
洗面へ行く。
少し歩く。
髪を洗う。
ラウンジへ出る。
午後に落ちる。
その繰り返しの中で、身体を戻していくしかない。
ラウンジから部屋へ戻る頃には、やはり少し疲れが出ていた。
歩ける距離は増えている。
でも、増えたからといって疲れなくなったわけではない。
「戻る?」
早苗が訊く。
「うん」
彩佳は頷く。
「ちょっと、つかれた」
「じゃあ戻ろ」
早苗が言う。
その言い方があまりに自然で、彩佳は少しだけ息を抜いた。
“頑張ったね”でも、
“無理しないで”でもなく、
ただ“戻ろ”と言ってくれることが、今はありがたかった。
個室へ戻ってベッドへ腰を下ろすと、身体の奥からゆっくり疲れが前へ出てくる。
午後はまだ弱い。
それは変わらない。
でも、朝にできることは増えている。
ラウンジで座っていられる時間もできた。
森下の顔色も前よりいい。
大沢と早苗は、試験終盤の空気の中にいる。
それぞれに、それぞれの経過がある。
完全に戻った人はまだ誰もいない。
でも、止まったままの人ももういなかった。
窓の外では、湾岸の空がゆっくり午後の色へ変わり始めている。
白い光は少しずつやわらぎ、部屋の中の影が静かに伸びていく。
彩佳はその光を見ながら、浅く息を吸った。
回復は、きれいな直線ではなかった。
成果もまた、きれいな言葉では言えない。
それでも、朝が来て、身体を動かして、午後に落ちて、また次の朝が来る。
その繰り返しの中でしか進まないものが、たしかにここにはあった。




