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第37話 朝の距離

 彩佳がガイア三階へ戻ってきた翌朝、早苗は目を覚ましてからしばらく天井を見ていた。


 部屋の空気はまだ朝の冷たさを少し残している。


 カーテンの隙間から入る光は白く、時間だけが静かに先へ進んでいるのが分かった。


 起き上がって廊下に出る。


 そこで、早苗は無意識に301の方を見ていた。


 急変する前なら、この時間には彩佳も部屋から出てきていた。

 眠そうな顔で、洗面台の方へ歩いていく。


 そんな何でもない朝の動きが、今はもう同じ形では戻ってこないことを、頭では分かっている。


 早苗はそのまま洗面台の方へ向かい、髪をまとめて顔を洗った。

 冷たい水が頬に触れても、胸の奥に残っている落ち着かなさはあまり消えなかった。


 朝の用事を済ませると、早苗は301の前で立ち止まり、軽くノックした。


「おはよ」


「起きてる?」


 返事を待ってから扉を少し開ける。

 中には、ベッド脇に座っている彩佳がいた。


 顔はやっぱり痩せていた。


 助かったあとをそのままここへ運ばれてきたみたいな、まだ身体の線が戻りきっていない薄さがある。

 それでも、ちゃんとこちらを見ていた。


「おはよう」


 彩佳が言う。


 声は以前より戻っている。

 でも、少し掠れが残っていて、まだ喉の奥に慎重さがあるのが分かった。


 彩佳はそのまま立ち上がり、洗面の準備をする。

 決して足取りは軽くない。

 立つ、向きを変える、物を持つ。

 その一つ一つに少し時間がかかる。


「車椅子使う?」


 早苗が訊く。

 彩佳は小さく首を振った。


「ううん」

「できることは、自分でやんないとね……」


 そう言ってこちらへ向かってくる。

 昨日で点滴は外れている。


 でも、腕に残った数か所の針跡が、彩佳の身に起こったことの重さをまだ静かに残していた。


 早苗は離れすぎないように、彩佳の左側からついていく。

 

 歩幅は自然に合わせた。

 急かさない。

 でも、いつでも手を出せる距離にはいる。


 洗面台に着く頃には、彩佳の息は少し上がっていた。


 水を出して、顔を洗う。


 部屋からここまでの流れでさえ肩がわずかに上下している。

 顔を上げた時には、胸の奥の呼吸がもうひとつ忙しくなっていた。

 本当はそのままトイレへ向かいたかったのだろう。

 彩佳は一度だけそちらへ目を向けた。


 でも、もう無理そうだというのが早苗にも分かった。


「車椅子使う?」


 早苗がもう一度訊く。


 彩佳は少しだけ息を整えてから言った。


「……ごめん、お願いしてもいい?」


「うん」


 早苗はすぐに答えた。

 それから車椅子を取りに行き、彩佳の前へ持ってくる。

 座った瞬間、彩佳は安心したように長く息を吐いた。


「……うまくいかない」


「今は焦らない」


 早苗はそう言って、車椅子をトイレまで移動させた。

 彩佳はそこで息を整えてから立ち上がり、必要なことを済ませる。


 その間、早苗は扉の外でただ待った。

 中へ踏み込みすぎず、でもすぐ反応できる距離で。


 その後は車椅子のまま部屋へ戻る。

 部屋に入ると、ちょうど二人の様子を見ていたらしい佐山が入ってきた。


「おはようございます」


 そう言って、温めたおしぼりを彩佳へ渡す。


「洗面までは何とか行けたね」


「高橋さんも、付き添いは今みたいな感じで大丈夫」


「はい」


 早苗が答える。

 佐山は記録板に目を落としてから、彩佳の方を見る。


「彩佳さん、午前中は少しだけ歩こう」


「あと、髪も洗えそうなら洗う?」


 彩佳は少しだけ目を上げた。

 昨日よりは声が出る。

 でも、まだ長く返すほどの余力はない。


「はい」


「もちろん高橋さんも一緒にね」

 佐山が言う。


「ありがとうございます」

 早苗が頭を下げる。


「高橋さんは午前中の投薬と観察が終わったタイミングになるけど、大丈夫そう?」  

佐山が続ける。



「副作用ももう落ち着いてるので大丈夫です」


「それじゃ、その時声かけるね」


「はい」

 その後、佐山は彩佳の朝の問診とバイタルを測って部屋を出ていった。

 部屋に二人きりになる。

 彩佳はベッドへ身体を預けながら、小さく言った。


「早苗、ごめんね」


 早苗はすぐに返した。


「謝るの禁止ね」


 彩佳は少しだけ困ったように笑う。


「そうだった……」


「でも」

 早苗が言う。

「できることは増えてる?」


 彩佳は少し考えてから答える。


「顔洗うだけでも大仕事だけど」


「前には進んでる」


「うん」


 短いやり取りだった。

 でも、その短さの中にいま必要なものはちゃんと入っていた。


「そろそろ戻るね」

 早苗が言う。


「うん、ありがとう」


「はい」

早苗は納得したような顔で答えた。


 彩佳の体調も考えて、会話はまだ短い。

 それで十分だった。


 早苗が一度自分の部屋へ戻ったあと、彩佳はベッドに横になった。


「……つかれた」


 天井を見上げたまま、そう呟く。

 まだ歩行訓練も洗髪も残っている。

 朝の洗面とトイレだけで、身体はもうかなり使われていた。


 それでも、佐山もいる。

 早苗もいる。


 そう思うだけで、胸の奥の緊張は少し薄くなる。


 午前の後半、予定通りに佐山が来た。

 その後ろから、投薬と観察を終えた早苗も入ってくる。


「じゃあ、今日は洗髪までやってみましょうか」


 佐山が言う。


「途中でしんどくなったらすぐ止めます」


 立って洗面台へ、という段階ではまだない。

 ベッドを起こして車椅子へ移動する。


 早苗は少し離れた位置に立っていた。


 手を出しすぎず、でも必要ならすぐ届く場所。

 朝の付き添いと同じ、少し考えた距離だった。


「歩行訓練で身体を使ってますので、無理そうならすぐに言ってください」

 佐山が言う。

 ベッドの角度が上がり、ベッド脇に座る姿勢を取る。

 それだけで胸が少し忙しくなる。

 彩佳は浅く息を吸って、吐いた。


「大丈夫ですか」

 

 佐山が静かに訊く。


「……まだ、大丈夫」


そう言って、彩佳は顔をあげる。


 早苗も静かに見守っていたが不安そうな顔をしていたのだろう、


「早苗も怖い顔しないで」


「え、そんな顔してた?」


 彩佳に言われて早苗は目を丸くする


「してた」


 彩佳は少しだけ笑って返す。


 佐山もその空気を見て、少しだけ表情をやわらげた。


「そのくらい会話できるなら、入りは悪くないですね」


 車椅子に移り洗面台の前まで移動する。

 俯く姿勢をとり首元にはタオルがあてられる


 その姿勢に変わるだけで、彩佳は思っていたより緊張した。

 視界の角度が変わり、自分の身体が一時的に人の手に預けられる感じがする。


「苦しかったらすぐ言ってください」


 佐山がそういった後

 ぬるい湯が髪に触れた。


 その瞬間、彩佳は思わず目を閉じた。


 頭皮へ触れる感覚が、想像していたよりずっと気持ちよかった。


 数日分の重さが、そこだけ少しほどけるみたいだった。


「……あ」


 小さく声が漏れる。


「気持ちいい?」

 早苗が訊く。


「うん……」  


彩佳は目を閉じたまま答える。


「よかった」


 早苗はそれだけ言った。


 洗髪そのものは小さな作業の連続だった。

 でも、彩佳の身体にはそれでもちゃんと負荷だった。

 姿勢を保つこと。

 首を預けること。

 呼吸を崩しすぎないこと。

 全部を同時にやらなければならない。

 途中で、胸の奥が少し忙しくなった。


「……ちょっと」


 彩佳が言う前に、佐山が気づいた。


「止めましょう」


「一回呼吸整えます」


 湯の流れが止まり、頭にタオルが巻かれ身体を起こす。

 それだけで、胸の詰まり方が少し楽になる。

 彩佳は浅く、何度か呼吸を繰り返した。


 肩が少し上下しているのを、自分でも感じる。


 その時、左側から早苗の手がそっとタオルを差し出した。

 顔にかかっていた水滴を拭けるように、でも押しつけすぎない位置で。


「……ありがとう」


「どういたしまして」  

 早苗は短く返す。

「近すぎたら言って」


 その言い方に、彩佳は少しだけ笑った。

 まだ息は少し忙しい。

 でも、その確認をちゃんと言ってくれるのが、ありがたかった。


「いまは、ちょうどいい」


 早苗は一瞬だけ黙って、それから小さく頷いた。


「了解」


 呼吸が整ったところで、佐山が訊く。


「続けれそう?」


 彩佳は少し考えた。

 しんどい。

 でも、ここまで来て途中でやめるのも少し惜しい。

 何より、頭が軽くなっていく感じをもう少し味わいたかった。


「…続けたいです」


 佐山は「わかりました」とだけ返した。


「でも、無理ならすぐ止めるからね」


「途中で崩れないことの方が大事」


「はい」


 彩佳は小さく頷いた。

 再開すると、今度は少しだけ力の抜き方が分かった。


 首を預ける。

 呼吸は浅くても止めない。

 肩に余計な力を入れすぎない。


 早苗はその間、ほとんど喋らなかった。

 ただ、タオルを受け渡したり、前髪が顔に貼りつかないように少し押さえたり、必要な時だけ手を出す。

 その控えめさが、いまの彩佳にはちょうどよかった。


 全部終わって、頭をやさしく拭かれた時、彩佳は長く息を吐いた。


「……疲れましたけど、やっとすっきりしました」


「うん」


 佐山が言う。


「ちゃんと、最後までいけたね」


 部屋に戻ると上原も入って来てモニターと顔色を確認する。


「疲れてますけど、表情はよくなりましたね」

 

「少し休めば大丈夫そうです」


上原は続けて言う


「今日はこれ以上、午前中に負荷を足さない方がいいですね」


 佐山も短く頷いた。


「賛成です」


「髪が洗えただけで十分です」


 道具が片づけられ、部屋が少し静かになる。


 佐山と上原が外へ出ると、残ったのは彩佳と早苗だけになった。


 髪はまだ少し湿っていた。


 でも頭が軽い。


 それだけで、身体の重さまで少し薄くなった気がした。

「……すっきりした」


 彩佳が言うと、早苗はベッド脇の椅子に座りながら言った。


「見ればわかる」


「ちょっと人っぽくなった」


「ひどい」


「ほんとのことでしょ」


 彩佳は少しだけ笑った。

 ちゃんと笑うとまだ少し疲れる。

 でも、さっきまでより気持ちは軽い。


「でも」


 早苗が言う。


「よかった」


「なにが?」


「手伝わせてもらえて」


 その言葉は、思っていたよりまっすぐだった。

 彩佳は一瞬、返事ができなかった。


 自分は何もできない。

 そう思うことはまだ多い。


 でも、何もできないからこそ、人にしてもらうことがこんなふうに誰かの救いにもなるのかと、少し遅れて分かる。


「……私も」


 彩佳はゆっくり言った。


「よかった」


 早苗がそちらを見る。


「何が?」


「甘えられて」


 その言葉に、早苗は少しだけ目を丸くした。

 たぶん、彩佳がこんなふうに言うのは初めてだ。


「……珍しいこと言う」


「自分でも思う」


 そう返すと、早苗は小さく息を吐いた。

 笑ったのか、安心したのか、その両方かもしれない。


「じゃあ、これからもたまには甘えて」


 早苗が言う。


「無理に一人でやろうとしないで」


 彩佳は目を閉じて、小さく頷いた。


「うん」


 髪の先から、いい匂いがする。

 病院から戻ってきてからずっと身体に残っていた重さの中に、今日初めて別の匂いが混じった気がする。


 疲れている。

 午後になれば、きっと今日も落ちる。


 それでも、頭が軽くなったことと、早苗の手がそこにあったことが、思っていた以上に心を楽にしていた。


 窓の向こうには、いつもの湾岸の景色が広がっている。


 同じ窓。

 同じ部屋。

 でも、その中で少しずつ、人に支えられる形を覚えていく自分がいる。


 それは、前の自分にはなかった回復の仕方だった。

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