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第36話 残る線

 それからの数日、三階の空気は表面上ほとんど変わらなかった。

 朝になれば観察補助員が動き、端末の前に人が座り、処置室の扉が短く開く。


 被験者は被験者として管理され、記録は記録として上へ流れていく。


 何も変わっていないように見える。

 けれど、その静けさの裏で、別の紙が少しずつ増えていた。


 高田の安全性評価メモ。

 河合の経過整理。

 清水の生活症状メモ。

 上原の医学的所見。

 佐山の現場記録。


 どれも単独では弱い。


 どれか一つだけなら、現場の印象だとか、後づけの解釈だとか、そういう言い方で薄められるかもしれない。

 だからこそ、重ねる必要があった。


 その日の夜、佐山はスタッフステーションの端で記録板を開いたまま、しばらく手を止めていた。


 彩佳の午後の落ち込みは、今日もはっきりしていた。

 朝はまだましだ。

 短い歩行はできる。

 会話も、途切れずに続く時がある。

 でも昼を越えると呼吸は浅くなり、返事が短くなり、目に見えて疲れが前へ出る。


 その経過を書きながら、佐山はふと顔を上げた。

 向かいの机では上原が何かを読み返している。

 河合は別紙のメモをつけている。

 清水は日中の記録を端末へ移し替えていた。


「河合先生」


 佐山が低く呼ぶ。

 河合が顔を上げる。


「高田さんの方、どうですか」


 河合は少し考えてから答えた。


「進んではいます」


「ただ、思った以上に修正が細かいです」


「細かい?」


 上原がそちらを見る。

 河合は持っていた紙を机の中央へ置いた。


「倉持がやってるのは、単純な削除じゃありません」


「症状を消すんじゃなくて、“継続可能に見える言い換え”に直している」


 佐山が目を細める。

 河合は続ける。


「たとえば“歩行時に息切れ強く休息を要す”が、“活動時やや息切れあり”になる」


「“胸部不快感に冷汗を伴う”が、“胸部違和感一過性”になる」


「意味を消してるわけじゃない。危険域から外すように、少しずつ弱くしている」


 清水が端末から目を上げずに言った。


「一番嫌なやり方ですね」


 声は静かだった。

 でも、その言葉に含まれる温度は低い。


「はい」


 河合が答える。


「消えていないように見えるから、あとで“ちゃんと記録はしていました”と言える」


 上原は紙を手に取った。


 修正前後の表現を比べるように数秒眺め、それから言った。


「これは厄介です」


「症状を捏造したわけではなく、重症度の判定だけをずらしている」


「だから」


 佐山が言う。


「こちらが見ていた身体の実際を、別で残しておく必要があるんですね」


 上原は小さく頷いた。


「ええ」


「このままだと、“確かに症状はあったが継続不能ではなかった”で押し切られます」


 その一言で、場の空気が少しだけ硬くなる。

 倉持は雑に隠しているわけではない。

 むしろ逆だった。

 後から追われても逃げられるように、最も悪質な形で記録を整えている。


 だからこそ、高田の持ってくるメモは意味があった。


 整理前の揺れ。

 修正の痕跡。

 現場感覚との乖離。

 それらがなければ、正式記録の方が勝つ。

 清水が端末を閉じて、小さく息を吐いた。


「石井さんの症状だけだと、向こうは“たまたま強く出た個体”で逃げると思います」


 河合がすぐに頷く。


「だから森下さんの分も入れる必要があります」


「同じ方向の副反応が出ていて、しかもそれが軽く整理されているなら、“石井さんだけの特異例”にはできない」


 上原が言う。


「森下さんはどうですか」


 河合は少し考えてから答えた。


「森下さんは黙るタイプではありません」


「むしろ不安が先に出る」


「だから訴え自体はあるんです」


 佐山は小さく眉を動かす。

 そうだ、と内心で思う。

 森下は何も言わない人ではない。

 怖いと感じたら、その怖さを先に出す。

 身体の変化にも敏感だ。

 だからこそ、逆に軽く扱われやすい。


「ただ」


 河合が続ける。


「その訴えが“気にしすぎ”とか“主観的な不安”として処理されやすい」


「身体の変化まで、不安の延長みたいに扱われる危険があります」


 清水が短く言った。


「実際、そう扱われていました」


 声は穏やかなままだった。

 けれど、その一言ははっきりしていた。


「“本人が不安定だから”で済まされると」


 清水は続ける。


「症状の重さまで一段軽く見られます」


 上原は静かに頷いた。


「それならなおさら必要ですね」


「石井さんとは別の形で、同じ方向へ崩れている症例として残す必要がある」


 河合が答える。


「はい」


「石井さんは、身体を押してでも進もうとして崩れた」


「森下さんは、不安を訴えているのに“主観的訴え”として軽くされる」


「出方は違って見えても、継続優先で軽く処理される構造は同じです」


 その整理に、佐山は少しだけ息を吐いた。

 確かにそうだった。


 タイプが違う。


 だからこそ、二人並ぶと構造の方が見える。

「清水さん」


 上原が静かに言う。


「森下さんの生活面、拾えますか」


「拾います」


 清水は短く答えた。


「不安の出方と、身体の変化が重なっているところを見ます」


「言葉だけじゃなくて、食事の止まり方とか、移動のためらいとかも」


「それでいいです」


 上原が言う。


「急いで雑になるよりましです」


 清水は頷いた。

 表情はいつもと変わらない。

 けれど、その返事の短さだけで十分だった。


 沈黙が落ちる。


昼間いた観察補助員も帰っており、スタッフステーションは静けさを保っている。


 端末の明かりが白く反射して、ここだけ時間が薄く伸びているように見えた。


 佐山はその沈黙の中で、ふと別の名前を思い出していた。


「……小出」


 気づくと、口に出ていた。

 河合も清水も言葉を止める。


 上原だけが佐山を見た。


「まだ、芹沢先生のところですか」


「ええ」


 佐山は答える。


「病院側の線は、まだこっちに引ける段階じゃないです」


「でも、繋がってはいます」


 机の上に置かれた自分の手元を見る。

 彩佳の記録。

 午後の落ち込み。

 歩数。

 呼吸。

 左の遅れ。

 そういうものを書き込むたびに、どうしても別の名前が重なる。

 上原が、少しだけ声を落として言った。


「今回の件だけで押し切れるなら、その方がいいです」


「でも過去と同じ構造だと証明されたら、向こうはもっと逃げにくくなる」


 佐山は頷いた。

 分かっている。

 感情ではなく、証拠としてならなおさら分かる。

 小出美紀を思い出すことと、小出美紀を使うことは違う。

 その線引きが、まだ自分の中で完全には済んでいない。

 けれど、今回を“今回だけ”で終わらせたくないなら、いずれそこは越えなければならないのだろうとも思う。

 河合が空気を少し戻すように言った。


「高田さんから、次に欲しい情報が来ています」


「彩佳さんの急変直前二日分、もう少し詳細に欲しいと」


 上原はすぐに言った。


「出します」


「D-dimer、頻脈、呼吸苦、左脚所見、歩行時の増悪」


「中止相当と判断した理由も書きます」


「清水さんは」


 河合が視線を向ける。

 清水は少しだけ考えてから言う。


「彩佳さんの方は、会話の途中で息が上がること」


「洗面や立位で疲労が強いこと」


「午後に落ちること」


「森下さんの方は、不安の訴えと身体の変化が重なっているところを拾います」


 河合は小さく頷いた。 


「分かりました」


「私は森下さんの身体所見と、石井さん急変前の中止判断を整理します」


 上原が机の中央へ視線を落とす。

 そこには紙が少しずつ増えていた。

 まだばらばらだ。

 でも、同じ方向を向き始めている。


「これ」


 上原が静かに言う。


「いずれ誰かに渡すことになります」


「その時、“怒っているから”では弱い」


「“記録が一致しているから”にしないといけない」


 佐山は記録板の上に手を置いた。


「分かってます」


「ならいいです」


 上原の声は淡々としている。


「今は揃えましょう」


 その言葉で、また会話は静かな作業へ戻っていく。

 河合は自分のメモを見直し、清水は端末を開き直し、上原は医療記録へ補足を加える。


 佐山もまた、彩佳の今日の経過へ視線を落とした。

 朝の歩行。

 午後の落ち込み。

 左の遅れ。

 全部、今はまだ小さい。

 けれど、その小さなものが消されないように残すことが、今の自分の役目だと思った。


 ステーションの外では、夜の三階が変わらず静かだった。

 被験者たちは眠り、機械音は一定の間隔で続いている。

 何も変わっていないように見える。

 けれど、変わっていないふりをさせないための線が、もう机の上にでき始めていた。


 告発はまだ遠い。


 国分も、一ノ瀬も、まだこの机の上にはいない。


 それでも、そこへ届くかもしれないものの輪郭だけは、少しずつ見え始めていた。


 静かな夜だった。


 だがその静けさの中で、細い線は確かに残り始めていた。

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