第35話 静かな針
高田と最初にまともに言葉を交わしたのは、彩佳が倒れた日の午後だった。
河合はその時のことを、まだはっきり覚えている。
彩佳を1階まで搬送し、最低限の引き継ぎと確認を終えて、清水と二人で3階へ戻ってきたところだった。
まだ手の中には、急変の時の空気が残っていた。
押し出されるストレッチャーの音。
足りない時間。
止めたいと思っていたものが、結局止まらなかった現実。
3階入口の前に、人影があった。
高田だった。
その時点では、河合は高田のことを“データ整理側の人間”としてしか知らない。
つまりガイア側だ。
信用する理由は、一つもない。
「あ、あの、すみません」
高田は明らかに焦った様子で声をかけてきた。
「あの、わかる範囲でいいので、倒れた社員さん……石井さんであってますか?」
「何があったのか教えてくれませんか」
清水がすぐに河合を見る。
河合も足を止めたが、それ以上は何も言わない。
「あ、いや、本来なら危険な症状や兆候があれば、自動判定が働いて中止判断が出るはずなんです」
高田が続ける。
早口で、言いながら自分でもうまく整理できていない感じだった。
先に口を開いたのは河合だった。
「左足の浮腫み、歩行時の息切れ、頻脈、D-dimer上昇」
怒りを抑えた声で言う。
「今日は胸部不快感に冷汗も出ています」
高田の目がわずかに見開かれた。
「え……」
河合は続ける。
「何度も言いますが、我々は中止が妥当と判断しています」
「試験説明にも記載されていた有害事象、中止基準、どちらも満たしているはずです」
高田は一瞬、言葉を失ったあと、低く言った。
「……中止基準は、私も把握しています」
河合の視線がさらに厳しくなる。
把握しているなら、なぜ止まらなかったのか。
その言葉が喉まで出かかったところで、高田が慌てて続けた。
「ですが……私が整理していたデータには、そんな記載が一切なくて」
清水が静かに訊いた。
「それで、あなたは詳細を聞いてどうするつもりなんですか」
高田は一度息を呑んだ。
「あ、あぁ……すみません、名乗っていませんでした」
「今回のデータ整理を担当している、ガイア製薬の高田といいます」
その名乗りに、河合の目がわずかに細くなる。
「ガイアの人間に、今さら何を話せと?」
高田はその言葉を受け止めたまま、声を落とした。
「データに違和感を感じています」
「何ていうか……整いすぎているというか……」
うまく言葉を探しきれないまま、それでも高田は続けた。
「そして……急変者が出た。これだけは紛れもない事実です」
「疑いたくはないですが……こちら側に不備があるなら、きちんとしたデータを残すべきです」
そこで一度だけ言葉を切る。
「お願いがあります。私に皆さんから見た情報を教えて下さい」
「もちろん、口外はしません」
河合も清水も黙ったままだった。
言いたい事も、聞きたい事も、どちらもある状態だった。
だが、その空気を遮るように別の声が入った。
「高田さん、ここで何をしているのですか?」
倉持だった。
倉持も彩佳の急変を聞いて、様子を見に来たのだろう。
表情は整っている。
だが、目だけが冷たかった。
高田がすぐに返す。
「何がって……3階の緊急コールが鳴っているのが聞こえて、確認しに来たんですが」
倉持は表情を変えずに言った。
「今回、高田さんは被験者側と接触できる立場ではありません」
「でも、上がってきたデータに急変するような記載や値はありませんでした」
「だから、何が起きたのかくらい確認しても……」
「高田さん」
倉持が遮るように言う。
「同じ事を何度も言わせないで下さい」
「でも……」
高田はそこで言葉を飲み込んだ。
明らかに腑に落ちない顔をしていたが、立場を理解したのか、4階へ戻ろうとする。
「あの」
そこで早苗が声をかけた。
「これ、落としてます」
早苗が差し出したのは、小さなメモ帳だった。
見慣れないメモ帳に、高田は何か言いかけた。
だが、早苗の目を見て、その言葉を口に出すのをやめた。
「すいません、ありがとうございます」
代わりに短く答えて、その場を立ち去る。
倉持が、河合と清水へ視線を向けた。
「あなた方も、不要な接触はしないで下さい」
河合と清水は倉持を見る。
人が倒れた直後に運用の話をしている。
その怒りが、言葉にしなくても視線に滲んだ。
その後、倉持は急変前の症状を整理するよう河合と清水に伝え、急変対応のために開放されていた認証ドアを閉めて戻っていった。
扉が閉まってから、清水が早苗に訊いた。
「高橋さん、あのメモ帳……あなたのでしょ」
「……はい」
河合と清水が顔を見合わせる。
「信用できるかどうかは別ですが」
早苗が言う。
「このまま、何も出来なかった、で終わりたくないので」
少しだけ間を置いて、続ける。
「あのメモ帳には入り口のパスワードを書きました」
「パスワードは……野上さん、机の上に情報が書かれたメモ帳を広げて置いているので」
待つ側に押し出された早苗の小さな抵抗だった。
あのメモ帳には素人なりに彩佳に出ていた所見を出来るだけ細かく書いてある、その情報も全てが無くなるリスクだってある、
それでも、繋がる可能性があるなら賭けるべきだと思った。
その日の夜、補助観察員も帰り、ラクト側の人間しかいなくなった時間に、高田は再び3階に来た。
スタッフステーションで経過をまとめていた清水が先に気づく。
「あの、昼間は急に申し訳ありませんでした」
高田が先に口を開く。
「あと、高橋さん……彼女のメモ帳、見させてもらいました」
清水は高田を一度見てから言った。
「ここだと目立つので、とりあえずこちらへ」
そう言って、スタッフステーションの奥、スタッフ待機室がある通路へ案内する。
二人の声に気づいた河合も合流し、会話を進めた。
「あまり長居は出来ないので、手短に私から話させてもらいます」
高田は続けた。
「先にこのメモ帳ありがとうございました、高橋さん…であってますよね、彼女に返して頂けると助かります。メモ帳の内容は、既に別に打ち込んで保存してあります」
「医学的な証言とは言えませんが、私が今までまとめていたデータと事実が乖離していることは、十分わかるものでした」
そこで一度、決心を固めるように息を吐く。
「事実をまとめさせて下さい」
「このままでは、何も残りません」
河合と清水も、その夜になるまでに決心していた。
「まだ、信用はしていません」
河合が言う。
「でも、協力はします」
「はい、お願いします」
高田は少し安堵したような、それでも、これから始まる事に緊張するような表情で短く答えた。
それ以降のやり取りは、薬品補充など、わずかに許可された外出や移動の中で行われることになった。
毎日接触するわけではない。
来ても週に二、三度。
高田の側も、データ整理補助、安全性集計照合、紙資料回収など、3階へ来る理由を毎回少しずつ変える。
3階の閉鎖性の中で、それ以上は危険だった。
ある日の昼前、高田はまた入口の外にいた。
白衣でもスクラブでもない、ガイアの社員証を下げた中途半端な立ち位置のまま、壁際に立っている。
書類確認の人間にも見えるし、見ようによっては不自然でもある。
清水が出てくる。
「こんにちは」
高田が小さく会釈する。
清水は短く頷くだけだった。
まだ周囲の目がある。
ここで長くは話せない。
「情報ありがとうございます」
清水が言う。
「ちゃんと、残せそうですか」
高田は小さく息を吸った。
「残します」
「まだ正式には出せません」
「でも、軽く処理された後の記録しか残らないよりはましです」
そこで清水が、穏やかな声のまま言った。
「"まし"、では意味がありません」
高田の目がわずかに動く。
「残す気があるなら、協力します」
それだけだった。
脅すような言い方でもない。
けれど、その一言で条件は十分に伝わる。
「……あります」
高田は言った。
「残します」
その時、認証扉の向こうで足音が止まった。
空気が一瞬で変わる。
振り向くと、倉持がいた。
整った顔のまま、目だけが笑っていない。
「何をしているんですか」
倉持が静かに言う。
高田が先に動いた。
「書類の照合です」
清水も間を空けずに続ける。
「私もたまたま聞かれたので」
倉持は二人を順番に見た。
その数秒の沈黙だけで、喉が乾く。
「高田さん、前にも言いましたよね」
倉持はやがて言った。
「接触するなら私を通して下さい。次はありませんよ」
「はい」
高田が答える。
倉持はそれ以上何も言わずに去った。
だが、完全に見逃したわけではないことだけは背中で分かる。
高田は息を吐かなかった。
紙を押さえたまま言う。
「次からは、もっと短くします」
清水が返す。
「次があるなら、ですけど」
高田はその言い方に反発しなかった。
ただ少しだけ苦い顔をして、
「……あります」
「終わらせたくないので」
と答えた。
清水は高田の手元の紙を見た。
そこにはもう、ただの症状メモではない形が出始めている。
項目。
時系列。
重症化前兆。
正式記録との乖離。
安全性評価。
まだ荒い。
でも確かに、報告書の骨になり始めていた。
「明日、森下さんの分を少し足します」
清水が言う。
「石井さんだけだと、向こうに“特異例”で逃げられる」
「分かっています」
高田が答える。
「比較症例として入れます」
そこで会話は終わった。
長居はできない。
ここはいつでも人の気配が近い。
スタッフステーションへ戻ったあと、清水がぽつりと言った。
「高田さん、ちゃんと怖がってました」
河合は少しだけ目を細める。
「そうですか」
「それなら、まだ大丈夫かもしれません」
声は穏やかだった。
「でも、その“まだ”には条件があります」
少しだけ間を置いて、清水は続けた。
「怖がらなくなったら終わりです」
「慣れたら、向こう側に行くので」
河合は返事をしなかった。
その通りだと思ったからだ。
高田は今、まだ怖がっている。
現場で起きていたことと、自分が見ていたデータの差に。
人が削られていたことに。
記録が軽く処理されていたことに。
その怖さが残っているうちは、まだこちら側にいられる。
スタッフステーションでは、上原と佐山がそれぞれ別の紙を見ていた。
上原は医学的所見。
佐山は現場記録。
河合はそこへ、自分の持ってきたメモを置いた。
小さな紙が、机の上で少しずつ重なっていく。
感情だけではなく。
怒りだけでもなく。
後から切り捨てられない形にするために。
告発は、まだ始まっていない。
けれど、その前段階の手は、確かに揃い始めていた。




