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第34話 揃えた手

 彩佳がガイア三階へ戻ってきたその夜、スタッフステーションの空気はいつもより少しだけ張りつめていた。


 遅い時間だった。


 廊下の足音は減り、処置室の出入りも少ない。

 それでも、機械音だけは一定の間隔で続いていて、この場所がまだ完全には休まないことを思い出させる。


 佐山は記録板を閉じて、ステーションの端の机へ置いた。


 そこには、上原、河合、清水がすでに集まっている。

 話し声は小さい。


 彩佳が部屋へ戻ってきた今も、まだこのフロア全体が試験の管理下にあることを全員が知っていた。

 最初に口を開いたのは清水だった。


「無事……ではないかもしれませんが」  

 

 静かな声だった。


「石井さんが戻ってきてくれて、本当によかったです」


 言い方は柔らかい。


 けれど、その一文の中には“安全な試験ではない”という現実認識がきちんと入っていた。


 上原は記録に視線を落としたまま言う。


「担当医としては失格だと思っています」


「もっと出来ることがあったはずです」


 その言葉のあと、短い沈黙が落ちた。


「上原先生がいたから繋げれたのも事実です。」


 河合が言った。

 

 ガイア側だけで行われた試験なら彩佳はもうここにいないかもしれない。

 でも、試験を止められなかったことも事実だ。

 上原自身が、いちばん強くそれを分かっている顔だった。


 佐山が小さく息を吐く。


「できるなら告発したいところですが……」


「この試験、個人が軽く扱われすぎです」


 上原はその言葉を否定しなかった。

 ただ、机の上で組んでいた指を少しほどいてから、三人を見た。


「良くも悪くも、今回はラクト側から医師と看護師が同伴しています」


 落ち着いた声だった。


「ガイア側からすれば、こちらも診ていたことになる」


「そのうえで試験が継続されて重症者が出たなら、こちらの危険所見の過小評価、あるいは中止相当所見の見落としが原因だと言われる可能性が高いです」


 河合が顔を上げる。


 清水は黙ったまま続きを待った。


 佐山が低く言う。


「高村専務が作ってくれた防波堤が、今は障壁になっていると……」


「はい」  


 上原は頷いた。


 「ラクト側医療者が同伴していた、という事実そのものが、今回は逆にこちらを縛ります」


 その現実は、全員すでに感覚としては分かっていた。

 だが、上原の口からはっきり言葉にされると重さが違った。


 河合がそこで口を開いた。


「でも、そこは崩せるかもしれません」


 上原と佐山の視線が河合へ向く。

 清水も目だけをそちらへ向けた。


「実はこの件、別で動いてくれている人がいます」  


河合が言う。


「そこがうまくいけば、今回の件、告発できるかもしれません」


「誰ですか」  


上原が短く訊く。


「高田さんです」  


 河合が答える。 


「データ整理を担当している、ガイア側の人間です」

 

 佐山の眉がわずかに寄る。


「ガイア…どこまで信用できますか」


「全部は信用していません」


 河合は即答した。


「ただ、あの人は少なくとも、今回の記録がおかしいと本気で思っている」


「整理後のデータと、現場で見ていた症状が食い違っていることに、きちんと驚いていました」

 

そこで清水が一言だけ挟んだ。


「驚くだけなら足りません」


 声は柔らかいままだった。


 けれど、その一言で場の温度が少しだけ締まる。


 河合は小さく頷く。


「ええ。だから確認しました」


「高田さんは、正しい症例経過を別でまとめたいと言っています」


「今回の試験、既に分かっていると思いますが、実際の症状よりも軽く記録されています」


「そこさえ証明できれば、“こちらも診ていたのに止めなかった”だけでは済まなくなるはずです」


 上原がわずかに目を伏せる。


「形式は」


「社内用安全性評価メモの体裁です」  


 河合が答える。


 「表に出す前提ではない、でも内部資料としては通る形で」


 佐山が机の上の記録板へ視線を落とした。


「なら、こちらも残さないと駄目ですね」


「見ていたことを、ちゃんと」


「はい」


 上原が言う。


「感情や実感ではなく、“止めるべき所見があった”ことを記録として出す必要があります」


 清水は黙ったまま、小さく一度だけ頷いた。

 異論はない、という最小限の返しだった。

 河合が続ける。


「高田さんの窓口は、しばらく私と清水で持ちます」


「こちらから表立って動くわけにはいかないので」


「わかりました。」

 

上原が言った。


「こちらは記録を整える」


「高田さん側の記録と繋がる形を作る」


「そこまで残せれば…」


 佐山はそこで、ようやく低く言った。


「……残しましょう」


「今度こそ、ちゃんと」


 その声は小さかった。


 けれど、この場でいちばんはっきりした意志でもあった。

 スタッフステーションの外では、夜の三階が変わらず静かだった。


 被験者の部屋、観察室、処置室、スタッフの動線。

 何も変わっていないように見える。

 それでも、その静けさの中で、もう一本別の線が動き始めていた。


 それはまだ告発ではない。


 通報でも暴露でもない。


 もっと小さく、もっと地味な作業だった。


 見たことを消されない形で残す。


 そのために、それぞれの手がようやく同じ方向を向き始めていた。

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