第33話 同じ景色の前で
ガイアの三階へ戻ってからしばらくのあいだ、彩佳はうまく言葉を持てなかった。
車を降りた時に触れた外気の冷たさも、建物を見上げた時に胸の奥へ落ちた重さも、まだ身体の中に残っている。
歩けるようになってきた。
病院管理としては一区切りがついた。
それでも、ここへ戻ってきたことは、退院や帰還のような明るい言葉ではうまく言い表せなかった。
ガイアの三階は静かだった。
病院の専用区画も静かだった。
でもあそこは、壁の向こうに本体ICUの音があって、その気配ごと身体を支えられている感じがあった。
ここは違う。
静かなのに、その静けさの奥に別の張りつめ方がある。
車椅子のまま通された廊下は、見慣れているはずなのに少し長く見えた。
白い壁。
床に落ちる均一な光。
スタッフステーションの前を通る時の、視線とも視線ではないもの。
前はその中を自分の足で歩いていたのだと思うと、不思議な感じがした。
個室の前で止まる。
扉が開いて、中へ入る。
同じ部屋だった。
窓。
小机。
簡易チェスト。
壁際の機材。
必要なものだけを置かれた、生活と管理の境目みたいな空間。
それなのに、前にここへ入った時とはまるで別の部屋のように見えた。
同じ窓の向こうに、湾岸の景色が広がっている。
水面。
高架。
遠くの建物。
開けているはずなのに、ここから見るとやはり少し閉じて見える。
「……同じ」
気づくと、そう漏れていた。
上原がベッドの高さを確認しながら、そちらを見た。
「景色ですか」
彩佳は小さく頷く。
「同じなのに……違う感じします」
上原はそれにすぐ答えず、ベッドの位置と必要な接続だけを確認してから、静かに言った。
「前と、見ている側が違うんだと思います」
その言葉は、妙にすとんと落ちた。
前はここで、試験の中にいた。
今は違う。
助かったあとの身体として、ここへ戻されてきた。
ベッドへ移るだけでも、やはり少し息が上がった。
立って、向きを変えて、腰を下ろして、脚を持ち上げる。
それだけの動作に、胸の奥が忙しくなる。
「大丈夫ですか」
佐山が右側から訊く。
「……っ大丈夫」
そう答えたあと、すぐに少し息を整える。
「……たぶん」
佐山はその“たぶん”を否定しなかった。
「今日はそれで十分です」
病院から戻る移動だけで、身体はもうかなり使っている。
分かっていたことだった。
でも、こうして同じ部屋のベッドへ腰を預けると、疲れとは少し違う別の重さまで加わる。
戻ってきてしまった、という重さだった。
点滴のラインが整えられる。
必要最低限のモニターがつながれる。
病院ほどではない。
でも、完全に自由な身体でもない。
ここでの自分は、被験者というより経過観察の症例だ。
そう頭では分かっていても、部屋の空気がそれだけで塗り替わるわけではなかった。
扉の向こうで小さく物音がして、すぐにノックが鳴った。
返事をする前に、扉が少しだけ開く。
覗いた顔を見た瞬間、彩佳は息を止めかけた。
「……早苗」
早苗は、扉のところで一瞬だけ立ち止まった。
ただ、ベッドの上の彩佳を見ている。
生きているかどうかを確かめるみたいに。
本当に戻ってきたのか、目の前の姿と声が一致するのを待つみたいに。
「入っていい?」
早苗が訊く。
「うん」
早苗は部屋へ入ってきた。
ベッドの近くまで来て、また少しだけ止まる。
元々小柄な身体なのに、痩せて一回り小さく見えた。
それでも、彩佳はちゃんとそこにいる。
早苗は何かを言おうとしているのに、うまく整理できていないのが分かった。
早苗に安心して欲しくて、彩佳は少しだけ笑おうとした。
でも、うまく笑いきれない。
口元がほんの少し緩んだだけで、困ったような笑顔になってしまった。
その顔を見た瞬間、早苗の表情が崩れた。
手を伸ばしかけて、一度止める。
肩に触れるだけでやめようとしたみたいに見えた。
でも次の瞬間には、早苗は彩佳を抱きしめていた。
強くはない。
今の身体を壊さないように、でも離したくないのが分かる抱きしめ方だった。
「もう…」
その声は、彩佳の肩口に落ちる。
「……どれだけ心配させるのよ」
それ以上は続かない。
「早苗……私、お風呂入れてないから……恥ずかしいよ……」
そう言うと、早苗は震えた声で、
「……うるさい」
とだけ言って少しだけ強く抱きしめられる。
その声と一緒に、彩佳の肩へ何か温かいものが落ちる。
そこで初めて、早苗が泣いているのだと分かった。
彩佳は少しだけ息を整えて、それからそっと早苗の背中へ手を回した。
ちゃんと力は入らない。
腕もまだ少し重い。
でも、触れることはできる。
早苗の背中は思っていたより細くて、でも今は少しだけ震えていた。
早苗が泣いている…
――彩佳を一人で行かせるのも嫌。
同時にあの時の言葉を思い出す。
早苗がどんな気持ちで待っていたかなんてすぐに理解できた。
「…ごめんね」
小さい声だったが、早苗には伝わる大きさで言った。
しばらくして、早苗はようやく少しだけ身体を離した。
でも完全には離れず、まだ触れられる距離にいる。
「それ禁止……」
「え…」
「謝るの禁止」
早苗らしいその返しに、彩佳は少しだけ笑いそうになる。
笑うほどの余裕はまだない。
でも、胸の奥に張っていたものが少しだけゆるむ。
早苗は目元を手の甲で雑に拭ってから、少しだけ視線を逸らした。
「彩佳」
呼ばれて、彩佳はそちらを見る。
「佐山さんとか上原先生には、これからお願いするつもりなんだけど」
「身の回りのこととか、リハビリのこととか、大変だと思うから……手伝わせてほしい」
そこで一度、言葉を切る。
「でも……近すぎたら言って」
その一言で、早苗がどこまで踏み込んでいいのかまだ迷っているのが分かった。
助けたい。
でも、助けることが相手を追い詰めるかもしれない怖さも知っている。
そんな言い方だった。
彩佳はしばらく何も言えなかった。
今の自分は何もできない。
それはもう分かっている。
本音を言えば、自分でやりたい。
でも早苗は今、こちらへ手を伸ばしてくれている。
隣に立つ――
はっきりとは分からないけれど、こういうことなのかもしれないと思った。
「……じゃあ」
彩佳は少しだけ息を整えてから言う。
「お願いしてもいい?」
早苗がそこで初めて、少しだけまっすぐ彩佳を見た。
「うん」
短く頷く。
「それならちゃんとやる」
そのやり取りだけで、もう少し疲れた。
でもその疲れの中に、嫌なものはなかった。
少しして、扉の外から呼ばれて、早苗は立ち上がった。
まだ試験線上にいる人間の動き方だった。
ここに座り続けることはできない。
「また来る」
早苗が言う。
「うん」
早苗は扉のところで一度だけ振り返る。
「今は、彩佳が“ここにいる”だけでいい」
その言葉は、静かだった。
でも、きれいに整えた励ましではなく、早苗がいま本当にそう思っているのだと分かる声だった。
彩佳はすぐには返せなかった。
ただ、小さく頷く。
「……うん」
早苗はそれを見て、今度こそ部屋を出ていった。
扉が閉まる。
また静かになる。
同じ部屋。
同じ窓。
同じ景色。
でもさっきまでより、少しだけ呼吸がしやすい気がした。
胸の中も、少しだけ軽くなった気がする。
彩佳はベッドへ身体を預けたまま、目を閉じた。
疲れている。
それは変わらない。
左の音もまだ遠い。
午後になれば、たぶん今日もきちんと落ちる。
それでも、ここにいるだけでいい。
その言葉だけが、静かな部屋の中で、妙にあたたかく残っていた。




