表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/55

第33話 同じ景色の前で

 ガイアの三階へ戻ってからしばらくのあいだ、彩佳はうまく言葉を持てなかった。


 車を降りた時に触れた外気の冷たさも、建物を見上げた時に胸の奥へ落ちた重さも、まだ身体の中に残っている。


 歩けるようになってきた。


 病院管理としては一区切りがついた。


 それでも、ここへ戻ってきたことは、退院や帰還のような明るい言葉ではうまく言い表せなかった。


 ガイアの三階は静かだった。


 病院の専用区画も静かだった。


 でもあそこは、壁の向こうに本体ICUの音があって、その気配ごと身体を支えられている感じがあった。


 ここは違う。

 静かなのに、その静けさの奥に別の張りつめ方がある。


 車椅子のまま通された廊下は、見慣れているはずなのに少し長く見えた。


 白い壁。


 床に落ちる均一な光。


 スタッフステーションの前を通る時の、視線とも視線ではないもの。

 前はその中を自分の足で歩いていたのだと思うと、不思議な感じがした。


 個室の前で止まる。


 扉が開いて、中へ入る。


 同じ部屋だった。


 窓。

 小机。

 簡易チェスト。

 壁際の機材。


 必要なものだけを置かれた、生活と管理の境目みたいな空間。


 それなのに、前にここへ入った時とはまるで別の部屋のように見えた。


 同じ窓の向こうに、湾岸の景色が広がっている。

 水面。

 高架。

 遠くの建物。

 開けているはずなのに、ここから見るとやはり少し閉じて見える。


「……同じ」


 気づくと、そう漏れていた。

 上原がベッドの高さを確認しながら、そちらを見た。


「景色ですか」


 彩佳は小さく頷く。


「同じなのに……違う感じします」


 上原はそれにすぐ答えず、ベッドの位置と必要な接続だけを確認してから、静かに言った。


「前と、見ている側が違うんだと思います」


 その言葉は、妙にすとんと落ちた。

 前はここで、試験の中にいた。


 今は違う。


 助かったあとの身体として、ここへ戻されてきた。

 ベッドへ移るだけでも、やはり少し息が上がった。

 立って、向きを変えて、腰を下ろして、脚を持ち上げる。


 それだけの動作に、胸の奥が忙しくなる。


「大丈夫ですか」


 佐山が右側から訊く。


「……っ大丈夫」


 そう答えたあと、すぐに少し息を整える。


「……たぶん」


 佐山はその“たぶん”を否定しなかった。


「今日はそれで十分です」


 病院から戻る移動だけで、身体はもうかなり使っている。

 分かっていたことだった。

 でも、こうして同じ部屋のベッドへ腰を預けると、疲れとは少し違う別の重さまで加わる。


 戻ってきてしまった、という重さだった。

 点滴のラインが整えられる。

 必要最低限のモニターがつながれる。

 病院ほどではない。

 でも、完全に自由な身体でもない。


 ここでの自分は、被験者というより経過観察の症例だ。

 そう頭では分かっていても、部屋の空気がそれだけで塗り替わるわけではなかった。


 扉の向こうで小さく物音がして、すぐにノックが鳴った。


 返事をする前に、扉が少しだけ開く。


 覗いた顔を見た瞬間、彩佳は息を止めかけた。


「……早苗」


 早苗は、扉のところで一瞬だけ立ち止まった。


 ただ、ベッドの上の彩佳を見ている。


 生きているかどうかを確かめるみたいに。


 本当に戻ってきたのか、目の前の姿と声が一致するのを待つみたいに。


「入っていい?」


 早苗が訊く。


「うん」


 早苗は部屋へ入ってきた。


 ベッドの近くまで来て、また少しだけ止まる。



 元々小柄な身体なのに、痩せて一回り小さく見えた。

 それでも、彩佳はちゃんとそこにいる。



 早苗は何かを言おうとしているのに、うまく整理できていないのが分かった。


 早苗に安心して欲しくて、彩佳は少しだけ笑おうとした。


 でも、うまく笑いきれない。


 口元がほんの少し緩んだだけで、困ったような笑顔になってしまった。



 その顔を見た瞬間、早苗の表情が崩れた。


 手を伸ばしかけて、一度止める。


 肩に触れるだけでやめようとしたみたいに見えた。


 でも次の瞬間には、早苗は彩佳を抱きしめていた。


 強くはない。


 今の身体を壊さないように、でも離したくないのが分かる抱きしめ方だった。


「もう…」


 その声は、彩佳の肩口に落ちる。


「……どれだけ心配させるのよ」


 それ以上は続かない。


「早苗……私、お風呂入れてないから……恥ずかしいよ……」


 そう言うと、早苗は震えた声で、


「……うるさい」


 とだけ言って少しだけ強く抱きしめられる。

 その声と一緒に、彩佳の肩へ何か温かいものが落ちる。

 そこで初めて、早苗が泣いているのだと分かった。


 彩佳は少しだけ息を整えて、それからそっと早苗の背中へ手を回した。


 ちゃんと力は入らない。


 腕もまだ少し重い。


 でも、触れることはできる。


 早苗の背中は思っていたより細くて、でも今は少しだけ震えていた。

 早苗が泣いている…


 ――彩佳を一人で行かせるのも嫌。

 

 同時にあの時の言葉を思い出す。


 早苗がどんな気持ちで待っていたかなんてすぐに理解できた。


 「…ごめんね」

 

 小さい声だったが、早苗には伝わる大きさで言った。


 しばらくして、早苗はようやく少しだけ身体を離した。

 でも完全には離れず、まだ触れられる距離にいる。


「それ禁止……」


「え…」


「謝るの禁止」


 早苗らしいその返しに、彩佳は少しだけ笑いそうになる。


 笑うほどの余裕はまだない。


 でも、胸の奥に張っていたものが少しだけゆるむ。


 早苗は目元を手の甲で雑に拭ってから、少しだけ視線を逸らした。


「彩佳」


 呼ばれて、彩佳はそちらを見る。


「佐山さんとか上原先生には、これからお願いするつもりなんだけど」


「身の回りのこととか、リハビリのこととか、大変だと思うから……手伝わせてほしい」


 そこで一度、言葉を切る。


「でも……近すぎたら言って」


 その一言で、早苗がどこまで踏み込んでいいのかまだ迷っているのが分かった。


 助けたい。


 でも、助けることが相手を追い詰めるかもしれない怖さも知っている。


 そんな言い方だった。


 彩佳はしばらく何も言えなかった。


 今の自分は何もできない。


 それはもう分かっている。


 本音を言えば、自分でやりたい。


 でも早苗は今、こちらへ手を伸ばしてくれている。

 隣に立つ――

 はっきりとは分からないけれど、こういうことなのかもしれないと思った。


「……じゃあ」


 彩佳は少しだけ息を整えてから言う。


「お願いしてもいい?」


 早苗がそこで初めて、少しだけまっすぐ彩佳を見た。


「うん」


 短く頷く。


「それならちゃんとやる」


 そのやり取りだけで、もう少し疲れた。

 でもその疲れの中に、嫌なものはなかった。


 少しして、扉の外から呼ばれて、早苗は立ち上がった。


 まだ試験線上にいる人間の動き方だった。

 ここに座り続けることはできない。


「また来る」


 早苗が言う。


「うん」


 早苗は扉のところで一度だけ振り返る。


「今は、彩佳が“ここにいる”だけでいい」


 その言葉は、静かだった。


 でも、きれいに整えた励ましではなく、早苗がいま本当にそう思っているのだと分かる声だった。


 彩佳はすぐには返せなかった。

 ただ、小さく頷く。


「……うん」


 早苗はそれを見て、今度こそ部屋を出ていった。


 扉が閉まる。

 また静かになる。

 同じ部屋。

 同じ窓。

 同じ景色。


 でもさっきまでより、少しだけ呼吸がしやすい気がした。


 胸の中も、少しだけ軽くなった気がする。


 彩佳はベッドへ身体を預けたまま、目を閉じた。

 疲れている。

 それは変わらない。

 左の音もまだ遠い。


 午後になれば、たぶん今日もきちんと落ちる。

 それでも、ここにいるだけでいい。


 その言葉だけが、静かな部屋の中で、妙にあたたかく残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ