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第32話 帰る場所

 戻る日が決まってからの朝は、いつもより少しだけ早く来た気がした。


 白い天井を見上げたまま、彩佳はしばらく動かなかった。


 身体の中を順番に確かめる。

 呼吸。

 入る。

 深く吸うとまだ胸の奥に慎重さは残る。

 でも、ここ数日でいちばん落ち着いている気もした。


 喉。

 まだ少し掠れる。

 でも会話は成立する。

 左。

 やっぱり遠い。

 右から届く音の方が近くて、輪郭がある。


 脚。

 重い。

 でも、立てる。

 短くなら歩ける。

 それはもう、自分でも分かる。

 病院の中で過ごした時間は、長かったようでもあり、短かったようでもある。

 夢を見て、目を覚まして、息を返して、足を下ろして、立って、歩いた。

 その全部が、遠いところと近いところに同時にある感じがした。


 扉が開いて、佐山が入ってくる。


「おはようございます」


 右から届く声に、彩佳はそちらを向いて頷いた。


「おはようございます」


 前より少しだけ、言葉が整う。

 それだけで喉の奥に軽い疲れは出るが、もう単語だけの返事ではない。

 佐山はベッドの右側へ来て、彩佳の顔を見た。

 それから小さく頷く。


「朝の顔色、悪くないです」


「脚はどうですか」


 「……重いです」


「でも、昨日よりは平気かも」


「うん」


 佐山は静かに言う。


「じゃあ、今日も朝のうちなら保てそうですね」


 “今日も”という言い方に、少しだけ現実味が出る。


 今日も、朝のうちに動く。

 午後には落ちる。

 その流れは変わらないまま、でも今日はその先に別の予定がある。


 上原が入ってきたのは、その少しあとだった。

 顔色、呼吸、モニター、点滴、返答。


 いつもの確認を一通りしたあと、上原は端末へ短く入力してから彩佳へ視線を戻した。


「今日、戻ります」


 落ち着いた声で言う。


「午前中に最終確認をして、問題なければ車で移動です」


 彩佳はそれを聞いて、小さく息を吸った。


 分かっていたはずなのに、言葉にされると重さが違う。


「長くは歩きません」


 上原が続ける。


「いまの身体で安全に移動できる範囲だけ確認します」


「移送中も負荷を最小限にします」


 村瀬も入ってきて、今日の準備の確認を始める。

 でもいつもと違って、ベッドの周りに並ぶものが少ない。

 以前なら当たり前だった機械や管が、もうここにはいくつかない。


 胸のシール。

 点滴一本。

 それくらいだ。


 身体から物が減るたびに、自分が少しずつこちらへ戻ってきたのだと分かった。

 でも同時に、それは“自分で支える分が増える”ということでもあった。


 午前の確認は短かった。

 立って、数歩だけ動く。

 呼吸と顔色を見る。

 戻って休む。

 それだけだ。


「大丈夫です」


 上原が言う。


「今日の移動は問題なさそうです」


 それを聞いたあと、区画の中には少しだけ空白みたいな時間ができた。


 出発まで、ただ待つだけの時間。

 彩佳はその間に、自分の腕の点滴をぼんやり見ていた。


 最後に残った一本。


 それも今日の移動のあと、いずれは外れるのだろうかと思う。


 扉がノックされて、芹沢が入ってきた。


 その後ろに村瀬もいる。

 上原と佐山はすでに区画の中にいて、四人が揃う形になった。


 芹沢はいつものように、長く前置きをしない。


「じゃあ、引き継ぎます」


 短く言って、上原の方へ視線を向ける。

 そのあとのやり取りは、淡々としていた。

 循環動態。

 呼吸状態。

 凝固系の経過。

 左の聴覚違和感。

 午後の落ち込み。

 立位と短距離移動の反応。

 必要なことだけが、順番に渡されていく。


 村瀬は看護側の申し送りを短く補った。


「午後は疲労が前に出やすいです」


「朝は比較的保てますが、負荷は午前中にまとめた方がいいと思います」


「左からの声かけは反応が少し遅れます」


 上原は必要な箇所だけ確認し、短く頷く。


 佐山はそのやり取りを聞きながら、記録板を手にしたまま立っていた。


 適切な引き継ぎだった。

 医療としては、きっと十分に。


 でもその向こうに、病院側とガイア側、院内カルテと試験記録、残るものと消えるもの、そういういくつもの境界があることを、佐山だけは今までより強く知っていた。


 芹沢が最後に彩佳の方を見る。


「ここまでよく戻しました」


 静かな声だった。


「まだ全然元気じゃないのは分かってると思うけど、その状態で戻れるところまでは来ています」


 彩佳は一度喉を整えてから答えた。


「……ありがとうございました」


 芹沢は短く頷く。


 それから、ほんの一瞬だけ佐山を見る。

 その視線の意味を、佐山はもう理解していた。

 ここでのことを、曖昧なままにしないという意味だ。


 村瀬はいつも通りの声で言った。


「無理しないでくださいね」


「戻ってもしばらくは、朝と午後の差がはっきり出ると思います」


「はい」


 それだけ答えると、少し疲れた。

 でも、その疲れ方さえ今はもう慣れ始めている。


 出発の時間が近づくと、彩佳はベッドから車椅子へ移ることになった。


 歩けないわけではない。


 でも、今日の移動全体を考えれば、その方が安全だと上原が判断した。


 立って、向きを変えて、腰を下ろす。

 それだけで胸は少し忙しくなる。

 でも崩れない。


 車椅子に座ると、自分が思っていた以上に身体が小さく感じられた。


 区画を出る。

 白い床。

 壁。

 扉。

 何度も見た光景なのに、出ていく側になると違って見える。


 専用区画を抜け、専用EVの前で止まる。

 扉が閉まり、少しだけ無重力みたいな感覚が来る。

 地上へ出た時、空気が変わった。


 病院の中の乾いた匂いではない。

 外の空気だった。


 冬に向かう手前の、少し冷たい空気。


 久しぶりにそれが頬へ触れた瞬間、彩佳は思わず目を細めた。

 眩しい、と思った。

 光が強い。

 風がある。

 外の世界には、こんなに直接身体へ来るものが多かったのかと思う。


 車に乗り込むまでのほんの短い距離さえ、身体には少し長く感じた。


 佐山が右側につき、上原が前で動きを見ている。

 それだけで安心する。

 座席に身体を預けると、ようやく一息つけた。

 車が動き出す。

 窓の外に、湾岸の景色が流れていく。

 水面。

 高架道路。

 物流施設。

 遠くのビル群。


 病院の窓からも見えていたはずの景色なのに、こうして外から見ると少しだけ手触りがある。

 彩佳はしばらく黙って外を見ていた。

 左から入る音はやはり少し遠い。

 右から聞こえる佐山たちの小さな声の方が近い。


 それでも今は、窓の外に流れていく景色の方へ意識が引かれていた。


「……久しぶりです」


 気づくと、そう言っていた。


 佐山が右側で


「何がですか」


 と小さく訊く。


「外」


 彩佳は短く答える。


「風……こんなだったんだって」


 佐山は少しだけ黙って、それから言った。


「そうですね」


「しばらく、ずっと白い部屋でしたもんね」


 白い部屋。

 その言い方が、妙にしっくりきた。

 あそこでは時間も身体も全部が管理されていた。

 その中で少しずつ息を返して、立って、歩いた。

 でも今向かっている先も、決して自由な場所ではない。


 車の窓の向こうに、やがてガイアの建物が見えた。

 胸の奥が少しだけ冷える。

 同じ建物。

 同じ三階。

 同じ窓から見えるはずの湾岸の景色。

 でも、前とは何もかもが違う。


 被験者として戻るのではない。

 かといって、普通に帰るわけでもない。

 療養と継続観察のために戻される。

 その曖昧さが、いちばん重かった。


 車が止まる。

 上原が短く言う。


「着きました」


 その一言に、彩佳は小さく頷いた。

 まだしんどい。

 歩けると言っても全然元気ではない。

 左の音は遠いまま。

 午後になれば、たぶん今日も落ちる。

 それでも、ここまで戻ってきた。


 車の扉が開いて、冷たい外気がまた少し入る。

 彩佳は一度だけ深く息を吸った。


 帰る、とは思えなかった。


 でも、戻るのだとははっきり分かった。

 その重さを胸に抱えたまま、彩佳はガイアの建物を見上げた。

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