第31話 戻る判断
彩佳が立つ練習をした後から、数日が経っていた。
最初は身体を起こすだけで息が上がり、足を床につけるだけでも全身に力が入った。ベッドの端に座る。佐山に支えられながら立つ。ほんの数十秒、その場に立っている。
それだけのことが、その時の彩佳には一日の大きな出来事だった。
朝、目を覚ますと右側には佐山がいる。少しして上原の問診が始まる。顔色、呼吸、声の出方、返答の速さ。必要な確認が終わると、午前中に短いリハビリをする。
午後には、決まったように身体が落ちた。
まぶたが重くなり、背中がだるくなる。起きているだけで体力が削られていく。夜になると少しだけ戻るが、元気になったというほどではない。
同じような一日が、何度か続いた。
それでも、少しずつ変わっていることはあった。
点滴に繋がれている薬の数が減った。ベッド周りの医療機器も、最初の頃に比べればずいぶん少なくなっていた。
少し動くだけでも息は上がる。
それでも、起き上がれる。
支えがあれば立てる。
短い時間なら、自分の脚で身体を支えられる。
喉の痛みもだいぶ落ち着き、掠れながらも普通に話せるようになりつつあった。
ただ、左耳の聞こえづらさだけは、相変わらず続いていた。
その朝、目が覚めた時、区画の空気が少し違う気がした。
何かが大きく変わったわけではない。
白い天井も、壁の向こうから遠く聞こえる電子音も、右側から届く佐山の声も、ここ数日と同じはずだった。
それでも、朝の静けさの中に、いつもより一歩先の時間が混じっているように思えた。
彩佳は目を開けたまま、自分の身体を順番に確かめた。
喉の痛み。
まだ残っている。
でも、最初の頃のように、一言ごとに喉の奥が裂けそうになる感じではない。
呼吸。
深く吸う時は、まだ少し慎重になる。
でも、吸えないわけではない。
左の聞こえにくさ。
相変わらず、左からの音は少し遠い。輪郭が薄く、どこで鳴ったのかを掴むまでに一拍遅れる。
脚。
昨日の立位練習の疲れは残っている。太腿の奥に鈍い重さがあった。
でも、動けないほどではない。
朝はやはり、少しましだった。
記録紙をめくる音が聞こえる。
隣には佐山が座っていた。
「おはようございます」
彩佳はそちらを見る。
右から届く声の方が、まだ世界の輪郭をはっきり持っていた。
「おはよう……ございます」
佐山は彩佳の顔色を見た。
それから、ほんの少し記録板に目を落とし、また彩佳へ視線を戻す。
「朝の感じ、どう?」
「昨日のあと、脚の残り方とか」
彩佳は少し考えた。
「……重いです」
「でも、昨日よりは、平気かも」
「うん」
佐山は小さく頷いた。
「悪くないね」
その言い方は、ここ数日で何度も聞いていた。
でも今日は、その“悪くない”の先が少し違う気がした。
しばらくして、上原が入ってきた。
顔色、呼吸、モニター、返答の速さ。
いつもの順番で確認しながら、上原は今日も余計な言葉をつけなかった。
「おはようございます」
落ち着いた声で言う。
「今日は、区画内で短い歩行を見ます」
歩行。
その言葉に、彩佳は少しだけ息を止めた。
昨日までの練習は、ベッドサイドで立つことが中心だった。立てるか。座り直せるか。足に力が入るか。
でも今日は、その先だった。
病室の中ではなく、区画の床を使う。
立つだけではなく、歩く。
それはつまり、次の場所へ移れるかどうかを判断するための確認でもあった。
「長くはやりません」
上原が続ける。
「立位が安定していることと、介助つきで短距離を歩けるか」
「今日はそれだけ確認します」
佐山も右から言った。
「だめならすぐ止めます」
「今日は無理して距離を伸ばす日じゃないです」
彩佳は頷いた。
怖い。
でも、もう数日前の自分とは違うことも分かっていた。
身体は少しずつ、先の動きを覚え始めている。
リハビリのため村瀬が入ってくる。
三人が揃うと、区画の空気が少し締まった。
最初はいつも通りだった。
ベッドの角度を上げる。
足を下ろす。
ベッドの端に座る。
そこで少し呼吸を整える。
そして、立つ。
そこまでは、前より自然だった。
膝の震えはある。
呼吸も忙しくなる。
でも、崩れない。
「ここまではどうですか」
上原が訊いた。
「……大丈夫です」
返事も前より整っていた。
そのあと喉は少しひりついたが、言葉はちゃんと届いた。
「じゃあ、右足から」
佐山が言う。
「小さくでいいです」
彩佳は床を見る。
視界の下の方は、まだ少しぼやける。
でも、足裏の感覚はある。
右足を前へ出す。
左足を寄せる。
ほんの短い一歩。
それだけで、胸の奥が忙しくなった。
「はい」
佐山の声が右から届く。
「呼吸、止めないで」
彩佳は浅く吸って、吐いた。
喉は少し痛い。
でも、足は動いた。
そのまま、区画の床をほんの少しだけ進む。
白い床。
壁際の機材。
向こうに見える扉。
いつもベッドから見ていた場所が、今日は別の高さから近づいてくる。
数歩。
本当に、それだけだった。
でも彩佳には、ずいぶん長く感じられた。
「ここで止まりましょう」
上原が言った。
止まる。
脚がだるい。
呼吸も浅い。
でも、まだ立っていられる。
「戻ります」
村瀬が言った。
また短く足を動かし、ベッドへ戻る。
腰がベッドに触れた瞬間、彩佳は長く息を吐いた。
全身の疲れが、一気に前へ出る。
「……しんどいです」
「うん、そうだと思う」
佐山が言った。
「でも、ちゃんと歩けた」
歩けた。
その言葉が、疲れた身体の中へ少し遅れて落ちてくる。
たった数歩。
それでも、歩いた。
上原はモニターと顔色を確認しながら、短く整理した。
「短距離歩行は可能です」
「負荷は大きいですが、循環も酸素化も保てています」
村瀬も小さく頷く。
「区画内なら、介助つきで移動できますね」
彩佳は目を閉じたまま、その会話を聞いていた。
歩けた。
まだ全然元気ではない。
でも、病院の白い床の上を、自分の脚で少しだけ進んだ。
午前の残りは、ほとんど休むだけで終わった。
水分を取る。
少し起きる。
短く返事をする。
それだけで、身体は十分に使われている。
昼を越える頃には、やはり午後の落ち込みが来た。
まぶたが重い。
背中がだるい。
脚にも、歩いたあとの疲れが残っている。
起きているだけで、余力が減っていく。
「午後ですね」
佐山が静かに言った。
彩佳は目を閉じたまま頷いた。
もう驚かない。
嫌ではある。
でも、予想外ではない。
「今日は負荷が大きかったので」
上原が言う。
「午後はもう静かにします」
その説明が、今は少し安心になる。
理由の分からないしんどさより、理由の分かっているしんどさの方が、まだ耐えやすかった。
夕方近くになって、少しだけ身体が戻ってきた頃、芹沢が区画へ入ってきた。
いつものように長くは留まらない。
でも今日は、入ってきた時の空気が少し違っていた。
上原が短く共有する。
「区画内の短距離歩行まで確認できました」
「負荷はありますが、循環も酸素化も保てています」
芹沢はモニターを見た。
次に彩佳の顔色を見て、それから残っている点滴ラインへ視線を落とす。
そのあと、ひどく短く言った。
「なら、ICUで管理し続ける段階ではないですね」
彩佳はその言葉の意味を、すぐには受け止めきれなかった。
ICUで管理し続ける段階ではない。
それは、良くなっているという意味だった。
でも同時に、この場所にいられる時間が終わりに近づいているという意味でもあった。
上原が芹沢を見る。
それだけで、二人のあいだには十分らしかった。
「明日、明後日で最終確認をして」
芹沢が続ける。
「問題なければ、急性期管理としては一区切りでいいと思います」
「ガイア免疫研究センターへ戻して、あちらでリハビリを継続する形になります」
ガイア免疫研究センター。
その名前が、胸の奥に重く落ちた。
退院、という響きとは違う。
普通の場所へ帰るわけではない。
戻る先は、あの建物だ。
あの三階。
あの個室。
あの窓。
あの湾岸の景色。
芹沢はそこで一度言葉を切り、彩佳の方へ視線を向けた。
「しんどいと思うけど」
静かな声で言う。
「ちゃんと前に進んでます」
その言葉は、大きく慰めるものではなかった。
でも、今の彩佳にはそのくらいの言葉の方が入りやすかった。
芹沢が出ていったあと、区画の中には少しだけ別の静けさが残った。
いつもの白い静けさとは違う。
次の段階が見えてしまったあとの静けさだった。
彩佳は目を閉じたまま、ゆっくり息を吸う。
戻る。
その言葉が、頭の中で少し重く響く。
戻る先は、たぶんガイアだ。
あの建物。
あの三階。
同じ個室。
同じ窓。
同じ湾岸の景色。
でも、前と同じ意味ではない。
そこへ思い至った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
助かった。
歩けるようになってきた。
ICUで管理される段階からは、抜け出そうとしている。
それでも、戻る先があの場所だという事実は、別の種類の重さを持っていた。
「……戻るんですね」
気づくと、そう漏れていた。
佐山が右側で少しだけ黙る。
それから、静かに答えた。
「たぶん、そうなると思う」
「でも、前と同じ戻り方じゃないから」
彩佳はその言葉を聞いて、目を開けた。
右側にいる佐山の輪郭だけが、今はまだはっきりしている。
「彩佳さんは」
佐山が続ける。
「もう、あの時みたいに“差し出す側”じゃない」
その言い方に、彩佳はすぐには返事ができなかった。
差し出す側じゃない。
そう言われても、では自分が何になるのかは、まだ分からない。
でも少なくとも、前と同じ自分のままでは戻れないのだということだけは分かった。
夜になると、区画の静けさはまた少し深くなった。
本体ICUの音は遠い。
壁の向こうの世界だけが、別の速さで動いている。
彩佳は白い天井を見上げたまま、浅く息を吸った。
歩けた。
短くでも。
しんどくても。
それは本当だ。
でもその先には、戻る場所が待っている。
回復だけでは終わらない時間がある。
左の音はまだ遠い。
午後には今日もちゃんと落ちた。
それでも、朝の自分は昨日より少しだけ前にいた。
その小さな前進と、戻る先への重さを両方抱えたまま、彩佳は目を閉じた。
明日もまた朝が来る。
たぶん、その朝の先に、次の場所が見え始める。




