第30章 減っていくもの
翌朝、目を覚ました時、彩佳は最初に下腹の違和感を意識した。
痛いわけではない。
でも、ずっと身体の一部みたいにまとわりついていた管の存在が、朝の静かな時間ほどはっきり分かる。
喉の痛み、左の聞こえにくさ、脚の重さ。
それらとは少し違う、不自由さそのものみたいな感覚だった。
白い天井を見上げたまま、彩佳はゆっくり息を吸う。
朝はやはり少しましだ。
胸の奥の慎重さはまだ残っている。
でも、昨日立てたことが身体のどこかに残っている気もする。
扉が開いて、佐山が入ってきた。
「おはようございます」
右側から届くその声に、彩佳はそちらを向く。
「おはよう……ございます」
声はまだ少し掠れている。
それでも、少しずつ“話す”形には戻ってきていた。
佐山はベッドの右側へ来ると、まず彩佳の顔を見て、それから視線を少し下へ落とした。
「朝の感じ、どうですか」
静かに訊く。
「脚の重さと、呼吸と……あと、下腹の感じ」
彩佳は少し考えた。
「脚は……まだ重いです」
「でも昨日より、息は少しましで」
そこで少し息を整える。
「……これ、気になります」
視線で下腹の方を示すと、佐山は頷いた。
「そうですよね」
「今日は、そこも少し変わります」
その言い方で、彩佳はなんとなく察した。
でも、自分から確かめる前に、区画の扉がもう一度開いた。
上原が入ってくる。
いつものように顔色、呼吸、モニター、返答の速さを順に見てから、短く言った。
「今日は導尿を抜きます」
落ち着いた声だった。
「今の段階だと、そろそろ体を動かす方が優先です」
「ずっと残している方が、かえって邪魔になります」
彩佳は目を開けたまま天井を見た。
抜く。
その言葉の意味は分かる。
でも、その言葉の先にあるのは自分でトイレに行かなくてはいけないということだ。
それがまだうまく想像できなかった。
「痛みというより、違和感の方が強いと思います」
上原が続ける。
「終わったあとは、少し軽くなるはずです」
少し軽くなる。
その言い方だけが、胸に残る。
村瀬が入ってきて、必要な物を確認しながら淡々と準備を始めた。
今朝はいつもの“どこまで負荷をかけるか”とは少し違う空気があった。
「じゃあ、いきますね」
村瀬が言う。
処置そのものは短かった。
けれど、その短さの中に身体は十分反応した。
一瞬だけ下腹の奥に鋭い違和感が走り、そのあと、何かがなくなった場所だけがしばらく妙に意識される。
「……っ」
彩佳は思わず目を閉じた。
「はい、終わりました」
村瀬の声は変わらず落ち着いている。
「いまは違和感が残りますけど、少しずつ落ち着きます」
終わった、と言われても、身体がその変化についていくには少し時間がかかった。
何かがなくなったはずなのに、逆にそこばかり気になる。
でも確かに、一本減っている。
その事実だけが妙に大きかった。
佐山が様子を見ながら言う。
「大丈夫ですか」
「……変な感じ、です」
そう答えると、喉の奥が少しひりついた。
でもその“変”は嫌なだけではなかった。
下腹のあたりが少し軽い。
不安定で、頼りなくて、でも軽い。
上原はモニターへ目を移して、短く頷いた。
「反応は問題ありません」
「少し休んだら、今日はベッドサイド移動を見ます」
彩佳はその言葉を頭の中でゆっくり受け止める。
導尿が抜ける。
次はベッドの外で動く。
身体から何かが減るたびに、求められることは少し増える。
少し休んだあと、佐山がトレーを持ってきた。
水分を含ませるスポンジと、温めたおしぼり。
「顔、拭きますか」
彩佳は頷く。
少しだけ体を起こし、おしぼりを受け取る。
頬を拭くだけで、息が少し忙しくなる。
でも昨日までと違って、ここで完全には崩れない。
「今日は、これからトイレの移動があります」
佐山が淡々と言った。
「きついと思うけど、頑張りましょう」
彩佳はその言葉を聞いて、少しだけ途方に暮れた。
やっぱりそうか。
トイレに行く。
以前なら何でもないことだ。
でも今は、それが一つの出来事として言われる。
「すぐに一人で、ではありません」
上原が補う。
「まずはベッドサイドでの移動、そこからです」
その説明に、少しだけ息を吐く。
いきなりどこかへ歩いて行くわけではない。
それでも、ベッドの外へ身体を持ち出すことに変わりはなかった。
村瀬も加わって、三人がまたいつもの位置へつく。
今日は立つ日というより、“ベッドの外でやることが増える日”の空気だった。
ベッドの角度が上がる。
足を下ろす。
立つ。
そこまでは、昨日より少し落ち着いてついていけた。
足の裏に床の感触がある。
膝はまだ少し頼りない。
でも、前みたいに“ただ縦にされている”感じは少し薄い。
「大丈夫ですか」
上原が訊く。
「……はい」
「じゃあ、そのまま」
佐山が右から言う。
「呼吸だけで大丈夫です」
彩佳は浅く吸って、吐く。
胸は忙しい。
でも、崩れない。
そこから、支えられながら、ベッドの脇へほんの少しだけ身体を運ぶ。
立って、向きを変えて、腰を落とす。
それだけなのに、全身の神経を使う感じがする。
「……っ」
思わず息が浅くなる。
「大丈夫です」
佐山の声が近い。
「今ので十分です」
そこで一度止まり、またベッドへ戻る。
戻った瞬間、彩佳は長く息を吐いた。
「……つかれた」
「そうですよね」
佐山が言う。
「でも、ベッドの外まで動けました」
その表現が、今日にはいちばん近かった。
歩いたわけではない。
でも、ただ立っただけでもない。
ベッドの外で動いた。
それが今日の前進だった。
午前の残りは、ほとんど休むだけで終わった。
起きる。
水分を取る。
短く返事をする。
それだけで身体は十分に使われている。
指先の器械も、今日はずっとついているわけではなかった。
必要な時に挟んで確認し、また外す。
指が少し自由になるだけで、自分の身体がほんの少しだけ“病人だけの身体”ではなくなる気がした。
昼を越えると、やはり午後の落ち込みが来た。
まぶたが重い。
背中がだるい。
下腹のあたりには、管がなくなったあとの妙な空白感がまだ残っている。
起きているだけで余力が削られていく。
「午後ですね」
佐山が言う。
彩佳は目を閉じたまま頷いた。
もう驚かない。
嫌ではある。
でも予想外ではない。
「今日は午前に、導尿が抜けて、ベッドサイド移動まで見られました」
上原が言う。
「午後はもう静かにいきます」
その説明が、今は少し安心になる。
何が起きているか分からないしんどさより、理由の分かるしんどさの方がまだ耐えやすい。
午後の白い時間は、今日も静かに沈んでいった。
夕方近く、少し身体が戻ってきたころ、彩佳は自分の身体の上に何が残っていて、何が減ったのかをぼんやり考えていた。
鼻の管はない。
下腹の管もない。
胸のシールはまだある。
点滴も一本残っている。
左の音は相変わらず遠い。
午後には今日も落ちた。
それでも、減っていくものがある。
そしてそのぶん、できることが少しずつ増えていく。
それは怖いことでもあった。
自由になる、ということは、自分でやることが増えるということだからだ。
でも、怖いだけではなかった。
戻っているのだと、身体の方が教えてくる。
右から届く佐山の声。
少し遅れてくる左の音。
ベッドの外へ出た時の呼吸の忙しさ。
下腹の軽さと不安定さ。
それらが全部、小さく身体の中に残っている。
疲れている。
でも、昨日よりは前だ。
そのことだけが、白い午後の底で、今日もまだ消えずに残っていた。




