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第29話 12年前と現在

石井彩佳の意識が戻ったと相原が聞いたのは、彩佳が抜管した日の午後だった。


 報告は淡々と上がってきた。


 抜管して、少しであれば会話が出来る状態にあること。

 循環と酸素化は保たれていること。

 今後も慎重に経過を見る必要があること。


 どれも医学的には、まだ「回復した」と言い切れるものではない。


 それでも、戻ってきた。


 その一点だけが、相原の中に引っかかった。


 デスクの向かいに立つ倉持も、普段のように表情を消しきれていなかった。

 資料を読み上げる声はいつも通りだったが、最後の一文だけ、ほんのわずかに息が浅くなっていた。


「……以上が、湾岸総合医療センターからの共有内容です」


 相原はすぐには返事をしなかった。


 モニターに映る文字列を見ているはずなのに、頭の中には別の光景が浮かんでいた。


 十二年前のことだった。


 このままではいけないと分かっていた。

 兆候は出ていた。

 中止すべきだった。

 少なくとも、一度立ち止まるべきだった。


 それなのに、試験は止まらなかった。


 急変した被験者は、そのまま戻ってこなかった。


 あの時、自分は止める側にいるつもりだった。

 けれど、実際には止められなかった。

 抗う言葉をいくつか並べただけで、最後には組織の判断に従った。


 そして今回は、自分が試験を進める側にいる。


 ガイア側にも医師はいる。

 倫理審査も、会議体も、手順書もある。

 けれど、その多くは形を保つために存在しているだけだった。


 誰かが本気で止めようとした時に、止められる構造にはなっていない。


 止めるために声を上げ、命を繋ぐために動いたのは、ラクト・セラムから来た医師と看護師たちだった。


 上原春菜。

 佐山あかり。


 そして、今回は戻ってきた被験者。


 石井彩佳。


 相原は知らず、手元のペンを握りしめていた。


 社会の必要悪として生きる。

 いつからか、自分はそう言い聞かせるようになっていた。


 誰かが汚れ役を引き受けなければ、必要な薬は世に出ない。

 多少の犠牲を飲み込まなければ、もっと多くの人間が失われる。

 個人の痛みより、社会全体の利益を優先する場面はある。


 そう考えなければ、ここまで来られなかった。


 だが、その覚悟が、今になって揺らぎそうになる。


 人が助かるならと、真っすぐな眼差しをしていた若い被験者。

 繋ぐことができなかった十二年前。

 繋ぐことができた今回。


 その差が、自分の弱さを突きつけてくるようだった。


 もっとできることがあったのではないか。


 汚れ役などという言葉に逃げずに済んだのではないか。


 人の善意を、消費されるだけのものにせずに済んだのではないか。


 キャリアや、地位も、研究責任者という肩書も、自分には意味のないものに感じている。


 あの日から、自分の意思など存在しなかったのだから。


 十二年前に止まったままの人間が、止まったままの場所から、ただ組織の言葉を代弁してきただけなのではないか。


「相原主任」


 倉持の声で、相原は我に返った。


「大丈夫ですか」


 相原はペンを机に置いた。


「ああ。すまない」


「いえ」


 倉持は一度、資料に視線を落とした。


「PLX試験継続中の被験者については、報告は以上となります」


 事務的な言葉だった。

 いつもなら、それで終わるはずだった。


 だが、倉持は部屋を出なかった。


 わずかな沈黙のあと、彼女はもう一度口を開いた。


「あの」


 相原は顔を上げた。


「はい?」


「私たちがやっていることは、正しいんですよね」


 その声には、迷いがあった。


 倉持は冷徹に見える。

 現場から上がってくる数字を整理し、報告の形を整え、継続可能な表現に置き換える。

 必要であれば、感情を排除した言葉で関係者を押し返す。


 だが、それは彼女が何も感じていないという意味ではない。


 ただ、感じたものを表に出せば、自分の仕事ができなくなることを知っているだけだ。


 相原は、そのことを分かっていた。


 分かっていて、あえて声を硬くした。


「もちろんです」


 倉持は黙って相原を見る。


「それに、倉持さんは私の指示で動いているだけです。それ以上の深入りは必要ありません」


「……はい」


「我々の使命は、試験を遂行させることにあります。そこに個人の感情は不要です」


 言いながら、相原は自分の声を遠くに聞いていた。


 まるで十二年前に、上から自分へ落ちてきた言葉を、そのまま別の誰かへ渡しているようだった。


「何が起きても、我々の姿勢は変わりません」


 倉持はしばらく黙っていた。


 その表情からは、納得したのか、諦めたのか、読み取れなかった。


 やがて彼女は、小さく頭を下げた。


「分かりました」


 それだけ言って、倉持は部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 相原は一人になった。


 言っていて、馬鹿げていると思った。


 自分が揺れている。

 自分が最も信じきれていない。

 それなのに、部下へかける言葉は、十二年前の自分が一番言われたくなかった言葉だった。


 個人の感情は不要。

 使命は試験の遂行。

 姿勢は変えない。


 それは正論ではない。


 人が壊れる時に、組織が好んで使う言葉だ。


 相原は椅子の背にもたれ、目を閉じた。


 今、自分が声を上げたところで何が変わるのか。


 上層部に今回の件を上げたところで、試験は止まらない。

 国家案件だから。

 国民の命がかかっているから。

 医療体制を守るためだから。

 早期実用化が求められているから。


 いくつもの大義名分が用意されている。


 その裏で、会社がこの試験から得る莫大な利益を計算していることも、相原は知っている。


 分かっている。


 分かっていても、人が助かることもまた事実だった。


 経鼻予防薬が実用化されれば、重症化する人間は減る。

 病床には余裕が生まれる。

 救える命は確かに増える。


 だからこそ、質が悪かった。


 すべてが嘘なら、まだ憎めた。

 すべてが私欲なら、まだ拒めた。


 けれど、この試験は人を救う。

 同時に、人を踏みつける。


 その矛盾の中で、相原はいつも同じ場所へ戻ってくる。


 止められない。

 止めるだけの力がない。

 止める側に立つ勇気もない。


 結局、自分は今回も、構造の一部として流れに身を任せることしかできない。


 十二年前から、何も変わっていない。


 石井彩佳は戻ってきた。


 だが、その事実さえ、相原を救いはしなかった。


 むしろ、その事実こそが、12年前に試験を止めることができなかった自身の姿を以前よりはっきりと映し出していた。

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