表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/55

第28話 立つということ

 その朝、彩佳は目を覚ました瞬間に、脚のことを思い出した。


 昨日までとは違う重さが、太腿の奥に残っている。

 痛いというほどではない。

 でも、使ったあとの鈍いだるさがある。


 それが少し不思議だった。


 ここ数日は、目が覚めるたびにまず“まだしんどい”が先に来ていた。


 喉の痛み。

 胸の奥の慎重さ。

 左の聞こえにくさ。


 そういうものに気を取られていたのに、今日はその前に、脚が残っている。

 昨日、足を下ろした。

 前へ少しだけ体を預けた。

 それだけのことが、身体の中にちゃんと残っている。

 白い天井を見上げたまま、彩佳は浅く息を吸った。

 呼吸は入る。

 深く吸うとまだ少し怖い。


 でも、急変した日のような“足りない”感じはない。

 朝のうちは、やはり少しましだった。

 区画の扉が静かに開いて、佐山が入ってきた。


 紙の音より先に、足音で分かるようになっていた。


「おはようございます」


 右側から届くその声に、彩佳はそちらを向く。

 右からの音はまだ輪郭がある。

 左は少し遠いままだ。


「おはよう……ございます」


 声はまだ掠れていた。

 でも、単語だけではなくなってきている。


 佐山はベッドの右側へ来て、まず彩佳の顔を見た。

 それから脚の方へ視線を落とす。


「脚、残ってますか」


 彩佳は少し考えてから頷く。


「……重い」


「でも、昨日より悪い感じじゃないです」


「うん」  

佐山は小さく頷いた。

「それなら大丈夫そうです」


 その“それなら”が、今日は少し気になった。

 何かある日なのだと分かる言い方だった。


「今日……なにしますか」


 佐山は一瞬だけ目を細めた。

 ちゃんと聞けたことを見ているような顔だった。


「今日は立つところまで見ます」  

 落ち着いた声で言う。

「無理なら途中で止めますけど」


 立つ。

 その言葉が落ちてきた瞬間、胸の奥が少し固くなる。

 昨日はその手前までだった。


 足を下ろして、前へ少し体を預けるところまで。

 今日はその先へ行く。

 喉の奥が少し乾いた。


「頑張りすぎなくて大丈夫です」

 佐山が言う。

「今日は“立てるかどうか”を見る日です」


 彩佳は小さく頷いた。

 怖くないわけではない。


 でも、嫌ではなかった。


 その違いを、自分でも少し不思議に思う。

 少しして上原が入ってくる。


 顔色、呼吸、モニター、胸の動き、返事の速さ。

 いつもの順番で確認してから、上原は足元へ視線を落とした。


「おはようございます」

上原が言う。

「今日は立位を見ます」


「昨日の反応なら、短時間ならいける可能性があります」 


 “可能性”という言い方が、上原らしかった。

 できる、と言い切らない。

 でも無理とも言わない。


「無理ならやめます」  

 上原は続ける。

「大事なのは、崩れない範囲でどこまでいけるかです」


 村瀬も少し遅れて入ってきた。

 三人が揃うと、区画の空気が少しだけ変わる。

 大きな処置ではない。


 でも、今の身体にとっては十分に意味のある時間が始まる空気だった。


 右に佐山。

 左に村瀬。

 正面に上原。


「じゃあ、いきます」  

 上原が言う。


 まず、ベッドの角度がゆっくり上がる。

 そこまでは、もう前ほど怖くない。

 呼吸は少し忙しくなる。

 胸の奥も慎重になる。

 でも、まだ保てる。


「ここまではどうですか」

 上原が訊く。


「……だいじょうぶ、です」


 言ったあと、少しだけ息が浅くなった。

 でも昨日みたいに、言葉がそこで途切れる感じではない。


 次に、足を下ろす。

 床に足の裏が触れる。

 昨日もあった感覚。


 でも今日は、その感覚が少しだけはっきりしていた。


「ここまでも大丈夫そうですね」  

 村瀬が言う。


 彩佳は答える余裕がなくて、頷くだけにした。


「じゃあ、立ちます」

 上原が言う。


 その一言で、胸の奥がまた一段固くなる。

 佐山の手が右腕の近くへ来る。

 村瀬は左側とラインの位置を見る。

 上原は正面で表情と呼吸を見る。


「いきます」

 身体が少しずつ持ち上がる。

 その瞬間、足の裏に体重が落ちた。


「……っ」


 反射的に息を止めかける。

 胸が忙しい。

 膝が少し頼りない。

 太腿の奥が細かく震える。

 でも、崩れるほどではない。


「吸って」  

佐山の声が右から届く。

「息を止めないで」


 その声に押されるように、彩佳は浅く息を吸う。

 喉はまだ少しひりつく。

 それでも呼吸は入る。

 立っている。

 本当に、と思った。

 誰かに縦にされているだけみたいな感じもまだある。

 でも、足の裏には自分の重さがある。

 それだけははっきり分かった。


「保てています」  

上原が言う。

「脈は上がっていますが、酸素化は大丈夫です」


「顔色もまだ落ちすぎてません」

 村瀬が続ける。 


 彩佳は何も言えなかった。

 立っているだけで精一杯だった。

 でも、ほんの少しだけ、自分で支えている感じもある。


「あと一呼吸だけ」  


 上原が言う。

 一呼吸。

 それだけなら、と思う。


 吸う。


 吐く。


 長かった。


 でも、終わる。


「ここまでです」  

佐山が言った。

「戻します」


 身体がゆっくり下ろされる。

 ベッドに腰が触れ、背中がマットへ預けられた瞬間、全身から一気に力が抜けた。


「……しんどい」


 掠れた声でそれだけ言う。


「そうですよね」

 佐山が言う。

「でも、立てました」


 その言葉は、疲れた身体の中へ少し遅れて落ちてくる。

 立てた。

 たった数秒かもしれない。

 支えもあった。

 でも、立ったのだ。


 上原もモニターを見ながら頷く。


「短時間ですが、立位は取れています」


「反応としては悪くありません」


 反応としては悪くない。

 その言い方が、今の身体には一番しっくりきた。

 できた、でもなく、無理だった、でもない。

 ちゃんと一歩進んだ言い方だった。

 村瀬が必要な確認を終えて出ていく。

 区画の中はまた少し静かになる。

 佐山は記録板へ短く何かを書き足していた。


 立位保持。

 呼吸数増加。

 脈拍上昇。

 酸素化維持。

 脚の震え。

 会話短文。


 そういう言葉が並んでいるのだろう。


「……立てたんだよね」


 彩佳は天井を見たまま、ほとんど独り言みたいに言った。

 佐山はすぐに顔を上げた。


「立てました」


 迷いなく答える。


「支えはありましたけど、自分の脚で体重を受けてました」


 その言葉に、彩佳は少しだけ目を閉じた。

 自分では、まだ半分信じきれない。

 でも佐山がそう言うなら、それはそうなのだろうと思う。


 午前の残りは、ほとんど休むだけで終わった。


 少し起きて水分を取る。

 短い返事をする。


 それだけで身体は十分に使われている。

 昼を越える頃には、やはり午後の落ち込みが来た。

 まぶたが重い。

 背中がだるい。

 起きているだけで、少しずつ余力が削られていく。


「午後ですね」  


 佐山が静かに言う。

 彩佳は目を閉じたまま頷いた。

 もう驚かない。

 嫌ではある。

 でも、予想外ではない。


「今日は午前に立位まで見られました」


 上原が言う。  


「午後はもう静かにいきましょう」


 その言い方に、少しだけ安心する。

 今はまだ、できることより休ませることの方が大事なのだと分かっているからだ。


 午後の白い時間は、今日も静かに沈んでいった。

 夕方に近づく頃には、重さは少し質を変えていた。

 昼過ぎのような、身体の中身まで沈む感じは薄れ、代わりに脚と背中に疲れが残っている。


 立っていた時の震えも、まだ筋の中に少しある。

 彩佳は目を閉じたまま、その残り方を確かめる。

 昨日は足を下ろした。


 今日は立った。

 しんどかった。

 怖くもあった。

 でも崩れなかった。


 その小さな違いだけが、午後の落ち込みの底に残っている。


 右から届く佐山の声。

 少し遅れてくる左の音。

 足の裏に落ちた体重。

 震えた太腿。


 それらが全部、小さく身体の中に残っている。

 疲れている。


 でも、昨日よりは前だ。

 そのことだけが、白い午後の底で、今日もまだ消えずに残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ