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第27話 立つ前の形

 翌朝、目を覚ました時、最初に気づいたのは鼻の軽さだった。


 何もない。


 それだけのことに、少しだけ驚く。

 昨日まで当たり前みたいに顔の一部になっていたカニューレがなくなっている。

 息を吸うと、喉の奥はまだ少しひりつく。

 胸の奥にも慎重さが残る。

 でも、空気そのものは自分の身体へまっすぐ入ってくる感じがあった。


 彩佳はしばらく天井を見ていた。

 朝はまだ少しましだ。

 これはもう、毎日の身体で分かる。

 午後に落ちる前の、短い猶予みたいな時間。

 頭の中の霧も、背中の重さも、夜の眠りを挟むとほんの少しだけ薄くなる。


 右側で紙をめくる音がして、佐山が顔を上げた。


「おはようございます」


 彩佳は小さく頷く。


「朝の感じ、どうですか」  


佐山が訊く。


「鼻がない感じも含めて」


 彩佳は少しだけ息を整えてから答えた。


「……変な感じ」


「でも、昨日より楽かも」


「うん」  


佐山はすぐに頷く。


「それならいいです」


 喉の痛みはまだ残っている。

 声も完全には戻っていない。

 それでも昨日までより、言葉の形が少しだけ整ってきていた。


 上原が入ってくる。

 今日も変わらず、最初に彩佳の顔色と呼吸を見て、そのあとモニターへ視線を移した。

 酸素化は保たれている。

 血圧も大きくは動いていない。

 脈はやや速めだが、落ち着かないというほどではない。


「おはようございます」


 上原が言う。


「息はどうですか。昨日の午後の落ち込み、今朝まで引きずってる感じはありますか」


 彩佳は首を横に振った。


「今は……まだ」

「朝だから」


「はい」  

上原は頷く。

「そのリズムは変わっていませんね」


 喉の痛み、胸の慎重さ、左耳の聞こえ方。

 いつもの確認が一通り続く。


「左はどうですか」  

上原が訊く。


「……まだ変」


「少し遠い」


「耳鳴りは」


「ないです」

 “です“を自然に言えた事に、自分で少し驚いた。

 ほんの少しずつ、喋る形も戻ってきているのかもしれない。


 でも、そのあと少し喉がひりついて、まだ無理はできないのだとすぐ分かる。


 上原は記録に短く書き込んでから、足元へ少し視線を落とした。

「今日は、立位の手前まで見たいです」

上原が言う。


「昨日は足を下ろした状態で保てました」


「今日は、もう少し体を前へ持っていけるかを見ます」


 彩佳はその意味を、頭の中でゆっくり組み立てた。

 立つ、まではいかない。


 でも、その前の形。


 身体を前へ持っていき、脚に少しずつ役割を戻していく。


 怖い、と思う。

 でも昨日ほどではない。

 昨日、自分の足が床について、息は忙しくなっても崩れなかったことを、身体が覚えているからだ。


「無理ならすぐ戻します」  


佐山が右から言う。

「今日は“昨日より少し前かどうか”を見るだけです」

 

彩佳は頷いた。


 村瀬も少し遅れて入ってきた。

 三人が揃うと、区画の中にいつもの緊張が生まれる。

 特別な慌ただしさは全くない

 それでも、これから身体へ小さな負荷をかけるのだと分かる空気だった。


「じゃあ、いきます」  

 上原が言う。

 まずベッドの角度が上がる。

 そこまでは、昨日までより落ち着いてついていけた。


 息は少し忙しくなる。


 でも、起きていること自体がもう無理、という感じではない。

 足を下ろす。

 床の感触が足裏へ届く。

 脚はまだ重い。

 でも、昨日みたいな“自分のものじゃない”遠さは少し薄い。


「ここまではどうですか」


「……大丈夫です」


 今度はちゃんと“です”まで言えた。


 それだけで、佐山の目元が少しだけやわらいだ気がした。


「じゃあ、少し前へ」  

 

上原が言う。


 体を前に傾ける。

 下腹と太腿の奥に力が入る。

 胸も少し忙しい。

 肩に無意識の力が入って、彩佳は思わず息を浅くした。

「肩、少し抜けますか、昨日と同じ感じで。」

佐山がすぐに言う。

「足元じゃなくて、呼吸だけでいいです」


 右からの声に意識を戻す。

 左の音は相変わらず少し遅れる。

 だから今は右だけ拾えばいい、と身体が分かり始めている。


 彩佳は一度深く吐いた。

 完全には楽にならない。

 でも、崩れる一歩手前で保てる。


「ここまではいけています」

村瀬が言う。

「顔色もまだ大丈夫」


 そこから数十秒、前傾した姿勢を保つ。

 それだけで十分にしんどい。

 でも、昨日の“足を下ろすだけで精一杯”よりは、たしかに先へ行っている。


「……しんどい」


 掠れた声でそう言うと、上原がすぐに頷いた。


「はい。今日はここまでで十分です」


「昨日より前に行けています」


 戻される時、彩佳は深く息を吐いた。


 背中がマットに触れた瞬間、身体が一気に重くなる。

 たったこれだけで、こんなに疲れる。

 でも今の疲れには、昨日とは違う感覚があった。


 使った。

 身体を少しだけ、自分で支えた。

 その疲れだった。


 村瀬が必要な確認を終えて出ていく。

 区画の中はまた静かになった。


 佐山は記録板へ何かを書き足している。

 呼吸数、脈拍、前傾保持、会話、顔色。

 そういう言葉が短く並んでいるのだろう。


「ちゃんと進んでます」

 佐山が記録板を閉じながら言った。


「昨日より、立つ前の形に近づいてます」 


 立つ前の形。

 その表現が、今の自分には妙にしっくりきた。

 立てる、とはまだ言えない。

 でも、昨日と同じ場所ではない。


 少しして、芹沢が区画へ入ってきた。


「どうです」  

と、まず上原へ訊く。


「昨日より安定してます」  

上原が答える。


「前傾姿勢まで見られました」


「呼吸も循環も保てています」


 芹沢はモニターを見て、それから彩佳の顔色と肩の力み方へ視線を向けた。


「なら順当ですね」  

 短く言う。


「焦らなければ、ちゃんと前には進んでます」


 その言い方は、昨日と同じように大きく励ますものではなかった。

 でも今の彩佳には、そのくらいの言葉の方が届きやすかった。


 芹沢は上原と二、三の確認を交わし、去り際に記録板へほんの一瞬だけ視線を落としてから出ていった。


 その意味までは彩佳には分からない。

 でも、その視線が“ただ眺めた”のではないことだけは何となく伝わる。


 午前の残りは、ほとんど休むだけで終わった。

 少し起きる。

 水分を取る。

 短く返事をする。


 それだけで身体はもう十分使われている。

 昼を越えると、また午後の落ち込みが来た。

 まぶたが重い。

 背中がだるい。

 起きているだけで、少しずつ余力が削られていく。


「午後ですね」  

 

 佐山が言う。

 彩佳は目を閉じたまま頷いた。

 もう驚かない。

 嫌ではある。

 でも、予想外ではない。


「今日は午前に少し進めたので」  

上原が言う。


「午後はそのぶん落ちやすいと思います」


「今は戻そうとせず、休ませます」


 その説明が、かえって安心になる。


 理由の分からないしんどさより、分かっているしんどさの方がまだ耐えやすい。


 静かな午後の中で、彩佳はまた考える。

 差し出すな。

 沈むな。

 隣に立て。

 それは分かる。

 でも、いまの自分はまだ立つ前の形で精一杯だ。

 こんな身体で、これからどう生きていけばいいのだろう。

 けれど同時に、今日の朝の自分は昨日の朝より少しだけ前にいた。

 それも事実だった。


 午後の落ち込みの中で、彩佳は浅く息を繰り返した。


 右から届く佐山の声。

 少し遅れてくる左の音。

 床に触れた足裏。

 前へ倒れかける身体を、少しだけ自分で支えた感覚。

 それらが全部、小さく身体の中に残っている。


 疲れている。


 でも、昨日よりは前だ。

 そのことだけが、白い午後の底で、今日もまだ消えずに残っていた。

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