第26話 午後に落ちる
昼を回るころまでは、まだ大丈夫だと思っていた。
座る姿勢の確認は、思ったより保てた。
昨日より息の乱れ方も少し穏やかで、喉の痛みも、抜管した直後ほど鋭くはない。
左の聞こえにくさは残っているが、それでも朝のあいだは頭が少しはっきりしていて、会話の意味もきちんと追えていた。
だから一瞬だけ、このまま少しずつ戻っていけるのかもしれないと思ってしまう。
その甘さが剥がれるのは、午後だった。
最初に来るのは、重さだ。
まぶたの裏が鈍く重くなって、背中の奥に疲労が沈む。
思考もモヤがかかったみたいにぼんやりしてくる
呼吸が急に苦しくなるわけではない。
でも、息をするたびに少しずつ余裕が削られていく。
起きているだけで体力を使う。
話そうとすると、すぐに胸の奥が忙しくなる。
彩佳は目を閉じたまま、呼吸を整えようとした。
吸う。
吐く。
続く。
でも午前中みたいには保てない。
「落ちてきましたね」
右側から、佐山の声がする。
責める響きはない。
事実を、そのまま言葉にする声だった。
彩佳は返事をする代わりに、少しだけ頷いた。
その頷きだけでも少し疲れる。
上原もすぐにモニターを見た。
「酸素化は保てています」
「血圧も大きくは崩れていません」
「でも、疲労が前に出ていますね」
疲労が前に出る。
その言い方が、今の身体にはいちばん近かった。
悪くなっているわけじゃない。
でも、元気とは全然違う。
朝に少しだけ保てた分が、午後になるとそのまま尽きていく感じだった。
「……午後、だめで…す」
掠れた声でそう言うと、喉の奥が少しひりついた。
「うん」
佐山がすぐに頷く。
「今の体だと、午後に落ちるのはしょうがない」
しょうがない。
そう言われても、楽になるわけではない。
でも“おかしい”わけではないと言われると、それだけで少し気持ちが緩む。
上原がベッドの角度を少し戻した。
起こしていた分だけ、起きていることの負荷も増える。
今は休ませる方が先だった。
「今日は午前中に必要な確認はできています」
上原が言う。
「午後はもう、回復の方を優先しましょう」
回復。
その言葉が、自分の身体にはまだ少し遠い。
起きていられなくなって、喋るのもつらくて、ただ横になっているしかないのに、これも回復なのだろうかと思う。
でも、たぶんそうなのだ。
朝に少しましで、午後に落ちて、それでもまた次の日の朝には少し戻る。
今の自分の回復は、そういう小さな波でしか進まない。
村瀬が様子を見に入ってきたのは、その少しあとだった。
モニターを見て、彩佳の顔色と呼吸の浅さを確認し、上原と短く視線を交わす。
「今日は朝に起こせましたし」
村瀬が言う。
「午後はもう負荷をかけない方がいいですね」
その言い方もまた、必要なことだけを残す声だった。
村瀬が出ていくと、区画の中はまた少し静かになる。
白い。
薄い。
午後の光は相変わらず曖昧で、外の時間だけが別の速さで進んでいるようだった。
彩佳は目を閉じたまま、自分の身体の中を探る。
喉は痛い。
左はまだ変だ。
胸の奥も少し慎重だ。
脚にも朝の座位のだるさが残っている。
その全部が、午後になると少しずつ前へ出てくる。
朝の自分と、午後の自分が別人みたいだった。
「……戻らないかも」
気づくと、そう漏れていた。
誰に向けた言葉でもない。
喉の奥で引っかかるみたいに出た、小さな本音だった。
区画の中が少しだけ静かになる。
佐山はすぐには何も言わなかった。
佐山が黙る時は、適当なことを言わない時だと、もう少しずつ分かるようになっていた。
答えたのは上原だった。
「元通り、という意味なら」
上原は少しだけ言葉を選んだ。
「今の時点では、誰にも分かりません」
彩佳は目を開けず、その声を聞いていた。
「でも」
上原は続ける。
「急性期は抜けています」
「今日の朝、昨日より保てたことも事実です」
「午後に落ちることも含めて、今の経過です」
慰めではなかった。
でも、ごまかしでもない。
今の経過。
その言い方で、自分の身体の置かれている位置が少しだけ見える。
良くなっていないわけじゃない。
でも、まだ全然戻りきっていない。
「……はい」
それだけ言うと、また少し疲れた。
喋ること自体がまだ負荷だった。
佐山が右側から、少しだけ声を落として言う。
「元通りじゃない戻り方もある」
「朝に少し保てるとか、昨日より座っていられるとか、そういうのも今はちゃんと“戻ってる”だから」
彩佳はその言葉をすぐには飲み込めなかった。
元通りじゃない戻り方。
そんなものを戻ると言っていいのか、まだ分からない。
でも少なくとも、今日の朝に少し長く起きていられたことは事実だった。
左が変でも、
喉が痛くても、
午後に落ちても、
それでも朝の自分は昨日よりほんの少しだけ前だった。
佐山は記録板を開いて、また短く書き始める。
何時頃から返答が遅くなったか。
どの角度で呼吸が浅くなったか。
会話がどこで切れるか。
左からの音への反応の遅れ。
そういうことを、まとめずに一つずつ。
その書く音を聞きながら、彩佳は少しだけ安心していた。
今の自分の身体を、自分一人ではもう把握しきれない。
でも、こうして誰かが言葉にして残してくれるなら、完全に見失わずに済む気がした。
少しして、左の方で何かが置かれる音がした。
彩佳は反射的にそちらを意識する。
やはり少し遅れる。
どこで鳴ったのか、すぐには掴めない。
その小さな遅れに、自分でも少しだけ苛立ちそうになる。
「左、やっぱり疲れると余計に気になりますか」
佐山が訊く。
「……はい」
「そうですよね」
佐山はそのまま受け止める。
「午前より疲れてるぶん、拾いにくくなってる感じもあります」
その説明が、妙にしっくりきた。
左耳が急に悪くなったわけではない。
午後の疲れが前に出るぶん、自分が音を拾う余力まで落ちているのかもしれない。
午後の白い時間は、ゆっくり長く続いた。
起きているのか、うとうとしているのか、自分でも曖昧なまま、彩佳は浅く呼吸を繰り返す。
遠くで台車の音。
壁の向こうの足音。
右から届く佐山の声。
少し遅れてくる左の音。
その全部の中で、身体は確かに疲れていた。
でも、壊れてはいなかった。
「……つかれた」
また小さく漏れる。
「うん」
佐山が言う。
「ちゃんと疲れてる」
その“ちゃんと”が、やっぱり少し救いだった。
夕方が近づくころには、落ち込みは少し静かな疲労へ変わっていた。
午前中ほどではない。
でも、昼過ぎの底よりは少しだけ戻る。
それもまた、昨日と同じ流れだった。
彩佳は目を閉じたまま、父の声を思い出した。
生きろ。
あの言葉は、簡単に元に戻ることを約束する声ではなかった。
息をして、落ちて、また少し戻って、それでもこちら側にいることを選べ、という声だった気がする。
白い区画の午後は、今日も静かに沈んでいく。
朝は少しましで、午後は落ちる。
喉はまだ痛くて、左の音はまだ変だ。
それでも、自分の身体が今日もこちら側に残っていることだけは、はっきり分かった。




