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第26話 足を下ろす

 朝の方が、少しましだった。

 それはもう、気のせいではなかった。


 目を覚ました時の頭の重さ。

 呼吸の入り方。

 喉のひりつき。

 左の聞こえにくさ。

 どれも消えてはいない。


 でも、午後の自分よりはまだこちら側にいると、身体がはっきり知っている。


 彩佳は白い天井を見上げたまま、ゆっくり息を吸った。

 胸の奥はまだ慎重だ。

 深く吸おうとすると少し怖い。


 それでも、急変した日のような“吸っても足りない”感じではない。

 今の苦しさは、回復の途中にある身体の苦しさだった。


 右側で紙の擦れる音がして、佐山が顔を上げた。


「おはようございます」


 彩佳は小さく頷く。


「朝の感じ、どうですか」  


佐山が訊く。


「息、喉、頭の重さ、昨日と比べて」


 彩佳は少し考えた。


「……少し、まし…」


「でも、まだ重い…です」


「うん」


 佐山はその言い方をそのまま受け取る。


「今はそれで十分です」


 少しして上原が入ってきた。

 いつものように顔色と呼吸を見て、モニターを確認し、それから彩佳へ視線を戻す。


「今日は、足を下ろしてみましょう」  


上原が言う。


「無理ならすぐ戻します」


「座位にどこまで耐えられるかを見るだけです」


 足を下ろす。


 その言葉を聞いた瞬間、彩佳は少しだけ身構えた。

 立つわけではない。

 歩くわけでもない。

 それでも、ベッドの上だけで完結していた身体を、その外へ少し出すことになる。


「できるかどうかを見るだけでいいです」


 佐山が右から言う。


「頑張る日は、まだ先です」


 彩佳は喉の奥の痛みを一度飲み込んで、頷いた。

 村瀬も入ってきて、三人が自然にそれぞれの位置へつく。


 右に佐山。

 左に村瀬。

 正面に上原。

 少しの負荷で崩れうることを皆知っている動き方だった。


「じゃあ、いきます」


 上原が言う。

 まずベッドの角度が上がる。

 ここまではもう慣れてきた。


 呼吸は少し忙しくなるが、すぐには崩れない。

 昨日までより、起きていること自体は少し長く保てる。


「ここまではどうですか」


「……大丈夫」


 声は掠れている。

 でも昨日より少しだけ、言葉に余裕があった。

 点滴の流れ、導尿バッグの位置を注意しながら体の向きを少し変え、足を下ろす。


 そこまでもう少し落ち着いてついていけた。

 呼吸は忙しくなる。


 でも昨日ほど急には限界は来ない。

 足先が床につく。

 その時、右側で佐山が彩佳の顔を覗き込むようにして、少しだけ鼻先に目を向けた。


「カニューレ、今ちょっと外してみますね」  


佐山が言う。


「苦しくなったらすぐ戻します」


 彩佳は一瞬だけ緊張した。

 鼻にかかった細い管は、付いていることが当たり前になり始めていた。


 それを外す、と言われると、急に息の逃げ場がなくなる気がする。


「今の数字なら、一度見て大丈夫です」


上原がモニターを見ながら言う。


「外した状態でどこまで保てるか確認したいです」


 村瀬がカニューレのラインを整理する。

 佐山の指が鼻の脇へ伸びて、カニューレが静かに外される。

 途端に何かが大きく変わるわけではない。

 でも、空気の入り方に少しだけむき出しの感じが出る。


 自分の呼吸だけでここにいる、という感覚が急にはっきりする。


「……っ」


「大丈夫です」


 佐山がすぐに言う。


「息、入ってます」


 彩佳は一度、浅く吸って吐いた。

 喉はまだひりつく。

 胸の奥も慎重だ。

 でも、吸えないわけではない。


 怖いのは、身体より先に気持ちの方だった。


「酸素化は保てています」  


 上原が言う。


「脈は少し上がっていますが、想定内です」


 彩佳は答えられなかった。

 足を下ろしただけでも会話に使う余裕が減っているのに、今日は鼻の管まで外れている。


「支えるので肩の力、少し抜けますか」


 佐山が言う。


「呼吸に集中して」


 その声に合わせて、彩佳は一度深く吐いた。

 少しだけ楽になる。

 完全ではない。

 でも“無理”の一歩手前で保てる感じがある。


「……いける」


 掠れた声でそう言うと、上原がすぐに頷いた。


「はい。いけています」


「カニューレなしでも今は保てています」


「今日はここまでで十分です」


 そこから数十秒だけ、その姿勢を保った。


 足の裏に床の感触がある。


 鼻には何もない。


 それが妙に現実だった。

 ベッドの上で寝ているだけだった身体が、ほんの少しだけ外の世界へ触れている。

 たったそれだけのことが、大きかった。


「戻します」  


村瀬が言う。

 脚がベッドへ戻され、背中がマットに預けられた瞬間、彩佳は深く息を吐いた。


 カニューレはまだ戻されない。

 そのまま数値を見るためだと、ぼんやり理解する。


「……つかれた」


「そうですよね」  


佐山が言う。


「でも、足は下ろせました」


「カニューレも、今日は外したままでいけそうです」


 その言葉に、彩佳は少しだけ目を開けた。


「……ほんとで…すか」

 自分でもおかしいくらい弱い声だった。

 佐山は迷わず頷く。


「ほんとです」


「いまのところ数字も落ちてません」


 上原もモニターを見ながら続ける。


「呼吸も循環も保てています」


「負荷は大きいですが、カニューレは一度離脱してよさそうです」


「ただ、きつくなったらすぐ戻します」


 彩佳は目を閉じた。

 鼻に何もない違和感が、逆にまだ少し落ち着かない。


 でもそれは、悪い不安じゃなかった。

 少しずつ外れていくものがある。

 少しずつ、自分の身体だけで保つ部分が増えていく。


 村瀬が必要な確認を終えて出ていき、区画の中はまた少し静かになる。

 佐山は記録板へ短く何かを書き足していた。

 端座位導入。

 足下垂可能。

 呼吸数増加、脈拍上昇軽度。

 酸素化維持。

 鼻カニューレ離脱。

 負荷大。

 会話短文。

 書かれているのは、たぶんそういう言葉だろうと彩佳は思う。

 自分の体のことなのに、今はその方が自分で思うより正確に見える。


「ちゃんと進んでます」  


佐山が記録板を閉じながら言った。


「大きくじゃないけど」


 彩佳はその言葉に、すぐには返事ができなかった。

 進んでいる。

 その一言が、今の自分にはまだ少し重い。


「……はい」

ようやく出た声は、ひどく弱かった。


佐山は続ける


「昨日の同じ時間なら、ここまで保てなかったと思います」


 上原もそれに続く。


「今日は足を下ろしたあとも、酸素化は崩れていません」

「呼吸も、負荷はありますが破綻していない」


「それだけでも十分に変化です」

 彩佳は目を閉じた。

 疲れている。

 喉も痛い。

 左の音も変だ。

 足を下ろしただけで、もう午後の落ち込みが少し前倒しで来そうなくらいだるい。

 それでも、鼻に何もないことだけが少し不思議だった。


 何かを一つ返してもらったみたいな感覚がある。


 午前の残りは、ほとんど休むだけで終わった。


 少し起きている。


 水分を口に含む。


 短い返事をする。


 それだけで、身体はもうじゅうぶん使われている。


 昼を越える頃には、やはり疲労が前に出てきた。

 まぶたの裏が重い。

 背中の奥に鈍いだるさが沈む。

 息をする時の慎重さも、朝より少しだけ前へ出る。


「落ちてきましたね」


 佐山が静かに言う。

 彩佳は目を閉じたまま頷いた。

 上原もモニターを見て、短く整理する。


「酸素化は保てています」


「カニューレなしでも問題ありません」


「ただ、疲労が前に出ています」

 疲労が前に出る。

 その言葉が今の身体にぴったりだった。

 悪化しているわけではない。

 でも、元気では全然ない。


「……午後、しんどい」

 気づくと、そう漏れていた。


「うん」  


 佐山がすぐに頷く。


「今の体なら、そうです」


 その“そうです”が、妙にありがたかった。

 否定も、無理な励ましもない。

 ただ事実として受け取ってくれる。

 午後の白い時間は、呼吸を整えているうちにゆっくり過ぎていった。


 夜になると、少しだけ楽になることがあった。

 元気になるわけではない。

 身体は相変わらず重いし、喉の痛みも、左の聞こえにくさも消えない。

 それでも、朝に動いて午後に落ちきったあと、夜の静けさの中では、身体の輪郭が少しだけ落ち着いて感じられる時がある。


 専用区画は静かだった。

 本体ICUの音は壁の向こうに薄く遠い。

 白い天井を見上げていると、ここが病院の中なのか、夜の途中なのか、時々分からなくなる。


 身体が戻ってくるのと同じくらいの速さで、頭の方も少しずつはっきりしてきていた。

 だから、考えてしまう。


 これからのことを。


 完全に戻らなくても、次の日はたぶん来る。


 身体が前みたいに動かなくても、朝は来るし、午後には落ちるし、それでもまた夜になる。


 その先を、自分はどう生きればいいのだろうと思った。

 差し出すな、と父は言った。

 沈むなとも言われた。

 隣に立て、とも。


 自分の生き方の中に、間違っていたところがあったのだということは、なんとなく分かる。


 無理して当たり前だと思っていたこと。


 差し出して当たり前だと思っていたこと。


 頑張ることと、自分を削ることの境目を、ずっと曖昧なままにしてきたこと。


 でも、何が正しいのかはまだ分からなかった。


 自分が頑張ること。


 辛い時でも笑顔でいようとすること。


 誰かの役に立ちたいと思うこと。


 それも全部、間違いだったのだろうか。

 違う気がする。

 でも、どこから先が違ったのかが分からない。

 頑張ろうとすると、今の身体はすぐに悲鳴を上げる。


 少し起きるだけで脈が速くなって、足を下ろすだけで疲れて、午後になれば落ちる。

 結局いまは、自分に集中するしかないのかもしれない。

 そう思うと少しだけ、怖かった。

 自分のことだけを考える、ということに慣れていない。


 むしろ今までずっと、自分のことを後ろへ追いやる方が自然だった。

 白い天井を見つめたまま、彩佳はゆっくり息を吐いた。

 鼻に管がないことを、そこでふと思い出す。

 小さなことなのに、その小さなことが自分の中の何かを少し変えていた。


 これからの生き方を考えるなら、たぶん身体のことだけでは足りないのだろう、とも思う。


 母のことが浮かぶ。

 高校に進んでから、進路の話をするたびに、母とはうまくいかなかった。


 父と同じ道を歩むな。


 あなたなら、もっと違うところを目指せる。


 そんなふうに言われるたびに、どうしてそこまで否定されるのか分からなかった。


 きっと母なりに、自分のことを思って言っていたのだろう。

 今なら、それは少し分かる。


 でも当時の自分には、その言葉がただ父ごと否定されたようにしか聞こえなかった。


 父に縛られていたのは、たぶん自分の方だったのかもしれない。


 母が嫌だったというより、父のことを否定されるのが怖くて、何も聞けなくなっていた。


 そのまま苦手意識だけが残って、距離ができた。


 父への見方が変わった今、そのことももう一度考えなければいけないのだろうと思う。

 これからどう生きるかを考えるなら、

 母とのことも、たぶんどこかで避けては通れない。

 そう思って、彩佳は少しだけ目を閉じた。


 今すぐ答えが出るわけじゃない。

 今はまだ、足を下ろすだけで疲れる。

 立つことすら遠い。


 なのに、生き方のことまで考えようとしている自分がおかしくも思えた。

 でも、そういうことを考えてしまうくらいには、自分はもうこちら側へ戻ってきているのだとも思う。

 静かな専用区画の夜の中で、彩佳は浅く息を吸った。


 身体はまだ思うようにならない。

 それでも明日が来るのなら、たぶんまた少しだけ前へ進むのだろう。


 その少し先に、自分で考えなければいけないことが、まだいくつも残っていた。

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