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第25話 午後に落ちる

 昼を回るころまでは、まだ大丈夫だと思っていた。

 座る姿勢の確認は、思ったより保てた。

 昨日より息の乱れ方も少し穏やかで、喉の痛みも、抜管した直後ほど鋭くはない。


 左の聞こえにくさは残っているが、それでも朝のあいだは頭が少しはっきりしていて、会話の意味もきちんと追えていた。


 だから一瞬だけ、このまま少しずつ戻っていけるのかもしれないと思ってしまう。


 その甘さが剥がれるのは、午後だった。

 最初に来るのは、重さだ。

 まぶたの裏が鈍く重くなって、背中の奥に疲労が沈む。

 呼吸が急に苦しくなるわけではない。

 でも、息をするたびに少しずつ余裕が削られていく。

 起きているだけで体力を使う。

 話そうとすると、すぐに胸の奥が忙しくなる。

 彩佳は目を閉じたまま、呼吸を整えようとした。

 吸う。

 吐く。

 続く。

 でも午前中みたいには保てない。


「落ちてきましたね」


 右側から、佐山の声がする。


 責める響きはない。

 事実を、そのまま言葉にする声だった。

 彩佳は返事をする代わりに、少しだけ頷いた。

 その頷きだけでも少し疲れる。


 上原もすぐにモニターを見た。


「酸素化は保てています」


「血圧も大きくは崩れていません」


「でも、疲労が前に出ていますね」


 疲労が前に出る。

 その言い方が、今の身体にはいちばん近かった。

 悪くなっているわけじゃない。

 でも、元気とは全然違う。

 朝に少しだけ保てた分が、午後になるとそのまま尽きていく感じだった。


「……午後、だめ」


 掠れた声でそう言うと、喉の奥が少しひりついた。


「うん」  

佐山がすぐに頷く。

「今の体だと、午後に落ちるのは自然です」


 自然。

 そう言われても、楽になるわけではない。


 でも“おかしい”わけではないと言われると、それだけで少し気持ちが緩む。


 上原がベッドの角度を少し戻した。

 起こしていた分だけ、起きていることの負荷も増える。

 今は休ませる方が先だった。


「今日は午前中に必要な確認はできています」


 上原が言う。


「午後はもう、回復の方を優先しましょう」


 回復。

 その言葉が、自分の身体にはまだ少し遠い。

 起きていられなくなって、喋るのもつらくて、ただ横になっているしかないのに、これも回復なのだろうかと思う。


 でも、たぶんそうなのだ。

 朝に少しましで、午後に落ちて、それでもまた次の日の朝には少し戻る。


 今の自分の回復は、そういう小さな波でしか進まない。

 村瀬が様子を見に入ってきたのは、その少しあとだった。

 モニターを見て、彩佳の顔色と呼吸の浅さを確認し、上原と短く視線を交わす。


「今日は朝に起こせましたし」  

 村瀬が言う。

「午後はもう負荷をかけない方がいいですね」


 その言い方もまた、必要なことだけを残す声だった。

 村瀬が出ていくと、区画の中はまた少し静かになる。


 白い。

 薄い。

 午後の光は相変わらず曖昧で、外の時間だけが別の速さで進んでいるようだった。

 彩佳は目を閉じたまま、自分の身体の中を探る。

 喉は痛い。

 左はまだ変だ。

 胸の奥も少し慎重だ。

 脚にも朝の座位のだるさが残っている。

 その全部が、午後になると少しずつ前へ出てくる。

 朝の自分と、午後の自分が別人みたいだった。


「……戻らないかも」


 気づくと、そう漏れていた。

 誰に向けた言葉でもない。

 喉の奥で引っかかるみたいに出た、小さな本音だった。

 区画の中が少しだけ静かになる。

 佐山はすぐには何も言わなかった。


 佐山が黙る時は、適当なことを言わない時だと、もう少しずつ分かるようになっていた。

 答えたのは上原だった。


「元通り、という意味なら」

上原は少しだけ言葉を選んだ。

「今の時点では、誰にも分かりません」


彩佳は目を開けず、その声を聞いていた。


「でも」  

上原は続ける。

「急性期は抜けています」


「今日の朝、昨日より保てたことも事実です」


「午後に落ちることも含めて、今の経過です」


 慰めではなかった。

 でも、ごまかしでもない。

 今の経過。

 その言い方で、自分の身体の置かれている位置が少しだけ見える。


 良くなっていないわけじゃない。

 でも、まだ全然戻りきっていない。


「……はい」

 それだけ言うと、また少し疲れた。

 喋ること自体がまだ負荷だった。

 佐山が右側から、少しだけ声を落として言う。


「元通りじゃない戻り方もあります」


「朝に少し保てるとか、昨日より座っていられるとか、そういうのも今はちゃんと“戻ってる”です」


 彩佳はその言葉をすぐには飲み込めなかった。

 元通りじゃない戻り方。

 そんなものを戻ると言っていいのか、まだ分からない。

 でも少なくとも、今日の朝に少し長く起きていられたことは事実だった。


 左が変でも、

 喉が痛くても、

 午後に落ちても、

 それでも朝の自分は昨日よりほんの少しだけ前だった。


 佐山は記録板を開いて、また短く書き始める。

 何時頃から返答が遅くなったか。

 どの角度で呼吸が浅くなったか。

 会話がどこで切れるか。

 左からの音への反応の遅れ。

 そういうことを、まとめずに一つずつ。

 その書く音を聞きながら、彩佳は少しだけ安心していた。

 今の自分の身体を、自分一人ではもう把握しきれない。

 でも、こうして誰かが言葉にして残してくれるなら、完全に見失わずに済む気がした。


 少しして、左の方で何かが置かれる音がした。

 彩佳は反射的にそちらを意識する。

 やはり少し遅れる。

 どこで鳴ったのか、すぐには掴めない。

 その小さな遅れに、自分でも少しだけ苛立ちそうになる。


「左、やっぱり疲れると余計に気になりますか」  


佐山が訊く。


「……はい」


「そうですよね」

佐山はそのまま受け止める。


「午前より疲れてるぶん、拾いにくくなってる感じもあります」


 その説明が、妙にしっくりきた。


 左耳が急に悪くなったわけではない。

 午後の疲れが前に出るぶん、自分が音を拾う余力まで落ちているのかもしれない。


 午後の白い時間は、ゆっくり長く続いた。

 起きているのか、うとうとしているのか、自分でも曖昧なまま、彩佳は浅く呼吸を繰り返す。


 遠くで台車の音。

 壁の向こうの足音。

 右から届く佐山の声。

 少し遅れてくる左の音。

 その全部の中で、身体は確かに疲れていた。


 でも、壊れてはいなかった。

「……つかれた」


 また小さく漏れる。


「そうですよね」  

 佐山が言う。


「ちゃんと疲れてます」


 その“ちゃんと”が、やっぱり少し救いだった。


 夕方が近づくころには、落ち込みは少し静かな疲労へ変わっていた。

 午前中ほどではない。

 でも、昼過ぎの底よりは少しだけ戻る。

 それもまた、昨日と同じ流れだった。


 彩佳は目を閉じたまま、父の声を思い出した。


 生きろ。

 

あの言葉は、簡単に元に戻ることを約束する声ではなかった。


 息をして、落ちて、また少し戻って、それでもこちら側にいることを選べ、という声だった気がする。

 白い区画の午後は、今日も静かに沈んでいく。


 朝は少しましで、午後は落ちる。

 喉はまだ痛くて、左の音はまだ変だ。


 それでも、自分の身体が今日もこちら側に残っていることだけは、はっきり分かった。

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