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第24話 これから

 午後になると、自分の状況が少しずつ分かってきた。


 目を覚ましている時間が、午前より少しだけ長くなったからかもしれない。

 それとも、朝の混乱が少し薄れてきたからかもしれない。


 鼻にかかったカニューレ。


 腕から伸びる点滴のライン。


 胸に貼られた心電図モニターのシール。


 指先に挟まれた酸素飽和度の測定器。


 下腹のあたりへ続く導尿カテーテルの管。


 それから、右の鼠径部に貼られた絆創膏。


 自分の身体に何が起きたのか、その全部はまだ分からない。


 でも、ただ眠っていただけではないことだけは、見れば分かった。

 どれくらい寝ていたんだろう、と思う。

 身体のあちこちが痛い。

 喉はひりつくし、深く息を吸うと胸の奥がまだ慎重になる。


 でも、全く苦しいわけではない。


 あの、吸っても吸っても足りなかった感じとは違う。


 佐山さんや、上原先生に迷惑をかけてしまった。

 早苗は大丈夫だろうか。

 試験はまだ続いているのだろうか。

 そんなことを、ぼんやり考える。



 結局――

 自分は、役に立てたのだろうか。



 一瞬だけ、その考えが頭をよぎった。


 彩佳はすぐに目を閉じる。

 違う、と思った。

 父に言われた。


 差し出すな、と。

 生きろ、と。


 だから、それは違う。

 でも、これからどう頑張ればいいのかが分からない。


 差し出して当たり前。


 無理して当たり前。


 むしろ、自分からそうしてきたのかもしれない。


 そういうやり方でしか、ここまで来られなかったのかもしれない。


 それを急にやめろと言われても、頑張り方が分からなくなっていた。


 ぼんやりそんなことを考えていると、区画の扉が開いた。

 上原と佐山の後ろから、違うスクラブを着た医師と看護師が入ってくる。


 最初に対応してくれた医師だということは、なんとなく覚えていた。

 顔をはっきり思い出せるわけではない。

 でも、あの白くて忙しい場所の空気ごと記憶に残っている。


 男の医師が、ベッドの少し離れたところで足を止めた。


「初めまして。湾岸総合医療センター医師の芹沢です」  

低く、聞き取りやすい声だった。

「こちらの病院で担当していました。退院まで、必要なところは一緒に見ていきます。よろしくお願いします」


 彩佳は喉の痛みをこらえながら、短く息を整えた。


「……ありが……とう、ござい……ました」


 声は掠れていて、ほとんど息だけみたいだった。

 それでも芹沢はすぐに頷いた。


「無理に喋らなくて大丈夫ですよ」


「これから、私や看護師の村瀬も定期的に来ます」


 隣の女性が一歩だけ前へ出た。


「村瀬です。よろしくお願いします」


「お願い……します」


 それだけで、もう少し疲れた。


 たった数語なのに、喉も胸も使う。

 芹沢と村瀬は、そのあと上原と佐山から経過の簡単な共有を受け、モニターとラインの状態を一通り確認してから、長居せずに出ていった。


 話すだけで疲れる。

 知らない人なら、なおさらだ。


「……はぁ」


 小さく息をつくと、右側にいた佐山が気づいて顔を向けた。


「疲れましたよね」

佐山は静かな声で言う。

「でも、今はそれで当然です」


 その言い方が、変に励ます感じではなくて少し救われた。


「明日から、少しずつ離床を見ていきます」


「今日はもう、身体が戻ってきたところまでで十分です」


 彩佳は目を閉じたまま、かすかに頷いた。


 明日から。


 その言葉が遠いようで、でも現実だった。

 助かったあとに、次の段階がある。


翌朝


目を覚まして最初にしたのは、自分の身体の確認だった。

 喉の痛み。

 まだひりつく。


 呼吸のしづらさ。

 昨日よりは少しましだが、深く吸う時はまだ慎重になる。


 鼻のカニューレ。

 胸のモニター。

 腕の点滴。

 導尿カテーテル。


 改めて、自分が今どんな状態に置かれているのかが分かる。

 それでも、昨日より少しだけましだと思った。


 喉の痛みも、呼吸のしづらさも、完全には変わらないのに、身体の側が少しだけこちらに戻っている感じがある。


 しばらくして、区画の扉が開いた。

 佐山がトレーを持って入ってくる。

 上に乗っているのは、温められたおしぼりとコップ、それから水分を含ませるためのスポンジだった。


「おはようございます」


「おはよ……ございま……す」


 まだ声は弱い。

 でも昨日より少しだけ、言葉の形になった。


「水分、少し取りましょうか」


 佐山が言う。

 彩佳が頷くと、佐山は右側へ椅子を寄せて、スポンジを口元へ運んだ。

 水分が口の中に広がるだけで、喉のひりつきが少しやわらぐ。

 ありがたかった。


「顔、拭きますか」


 そう言って、おしぼりを渡される。

 佐山が鼻カニューレを少しだけ外し、彩佳はおしぼりでゆっくり顔を拭いた。

 たったそれだけの動作なのに、胸が少し忙しくなる。

 脈が速くなるのも自分で分かった。


「……さやま、さん」


「わた…、どれくらい…寝てま…た」


あまり声にならなかったが佐山は理解したようで


「彩佳さんが倒れた日を含めて今日で8日目です。」

と答えてくれた。


そんなに経過していたのかと思った。


「さなえ……だいじょう……ですか」


 佐山はその問いにすぐ答えた。


「安心して大丈夫ですよ」


「お互いの経過を定期的に河合先生や清水さんと交換しています。」

少し笑って

「高橋さんね、毎日“彩佳はどうなんですか”って聞いてくるって、清水さんや河合先生から聞いてます」

と言った。


 それを聞いた瞬間、彩佳は少しだけ笑いそうになる。

 でも直ぐに申し訳ない気持ちになった。


 “彩佳を一人で行かせるのはもっと嫌”


 あの時の言葉が、ふいによみがえる。

 自分が倒れたことで、早苗は自分の事を責めていないだろうか。

 そう思うと胸の奥が少しだけ痛んだ。


「……しけん、は」


 佐山はその問いの意味をすぐに取った。


「まだ続いてます」


「でも、森下さんはもう投薬は終わって、経過観察に入ってます」


「大沢さんと高橋さんはまだ投薬中ですけど、副作用も落ち着いてるとは聞いてます」


 彩佳は目を閉じた。

 続いている。

 自分が倒れても、試験は続いている。

 そのことをどう受け取ればいいのか、すぐには分からない。


 佐山は少しだけ声をやわらげた。


「とはいえ、彩佳さんは今は自分に集中しましょう」


「はい……」


 短く答えると、それだけで少し疲れた。

 佐山がおしぼりとコップを下げに立つと、区画の中に少しだけ一人の時間ができた。


「……さなえ」

 合理的な早苗が、意に反して試験に参加している。

 あの日、試験出向の話をされたあの日、早苗は上司や担当医との相談よりも先に、私が行くか行かないかを確かめに来たのだろう。


 沈むな。


 父にそう言われた気がする。

 もしかしたら早苗は、ずっと自分が沈まないように手を差し出してくれていたのかもしれない。


「おはようございます」


その声で現実に戻される。


 上原が入ってきていた。

 その後ろに、戻ってきた佐山がいる。


 上原はモニターを見てから、ベッド脇へ椅子を引いた。

「今日は少し、ベッドを起こして座る姿勢をとってみましょう」


落ち着いた声で言う。


「無理ならすぐ戻します」


「今の体で、どこまで起こした姿勢を保てるかを確認したいです」


 彩佳は少しだけ緊張した。

 でも、それを断る理由もなかった。

 頷く。


「大丈夫」  


佐山が右側から言う。


「今日は“できるかどうかを見る”だけです」


その言葉に少しだけ息を整えてから、彩佳はまた頷いた。

 ベッドの角度が、少しずつ上がる。

 最初はまだ大丈夫だった。

 胸は少し忙しくなるが、昨日ほど急には苦しくならない。

 背中の重さはある。

 でも、起きていること自体がもう無理、という感じではない。


「ここまではどうですか」  


上原が訊く。


「……だい、じょうぶ」


「はい」  

上原が頷く。

「じゃあ、もう少しだけ見ます」


 佐山は右側に立ったまま、肩の上がり方と呼吸の浅さを見ていた。

 上原がモニターを見るのに対して、佐山は数字になる前の変化を拾っている。


 その時、区画の外で金属の触れるような小さな音がした。

 彩佳は反射的にそちらへ意識を向ける。

 でも、やはり左から入る音は少し遅れる。

 何が起きたのかを掴むまでに一拍かかる。

 彩佳は眉を寄せた。


「左、やっぱり少し取りづらいですね」  

佐山がすぐに言う。


「……はい」


「なんか……へん」


「分かりました」  

 上原が言う。

「そこも含めて見ます」


 それ以上は広げず、上原は呼吸と顔色を確認し、少ししてベッドの角度を戻した。


「今日はここまでで十分です」


「昨日より、朝の反応はいいです」


 彩佳はベッドへ背中を預けたまま、ゆっくり息を吐いた。


 疲れた。


 でも、昨日よりはほんの少しましだ。


 左耳の違和感も、早苗のことも、試験のことも、何も片付いてはいない。


 それでも、自分の身体が少しずつこちらへ戻る形を取り始めていることだけは、白い部屋の中で少しずつ分かってきていた。

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