第23話 声のない朝
抜管のあと、時間の流れ方が少し変わった。
それまでの区画では、人工呼吸器の規則が時間を作っていた。
一定の圧で胸が上がり、下がり、その繰り返しが夜と朝の境目まで支配していた。
管が抜けたあとは、その規則だけが消えた。
静かになったわけではない。
モニターの電子音も、輸液ポンプの音も、足音も、まだある。
それでも、部屋の中心にあった一番大きな機械の呼吸がなくなるだけで、空気の重さが少し変わる。
彩佳はその変化を、意識の浅いところでぼんやり感じていた。
喉が痛い。
何より最初にそれがあった。
ひりつくような、擦り剝けたような、飲み込むだけで奥が熱くなる痛み。
息を吸うたび、胸の奥にも鈍いだるさが残っている。
苦しくないわけではない。
ただ、急変した時の「あらゆる空気が足りない」感じとはもう違っていた。
今の苦しさは、ちゃんとこちら側の苦しさだった。
それでも、身体は重い。
腕も脚も、布団の下で別の人のものみたいに遠い。
少し首を動かしただけで疲れる。
目を開けているのも長くは続かない。
視界の端に白いものが見えた。
天井。
カーテン。
壁。
全部が病院の色をしている。
ここはどこだろう、と一瞬思う。
でもすぐに、その問いが自分でも変だと分かる。
病院だ。
たぶん、まだ病院。
ガイアの三階じゃない。
あそこより静かで、あそこより白くて、でも自由ではない。
「石井さん」
上原の声がした。
彩佳は目を開ける。
上原の顔が見える。
マスクをしていても、夜を越えた顔だと分かる。
その少し後ろに佐山も立っている。
「聞こえますか」
彩佳は声を出そうとして、すぐに顔をしかめた。
喉が痛くて、空気が擦れるだけでひどく不快だった。
「無理に喋らなくて大丈夫です」
上原がすぐに言う。
「うなずけるなら、それで十分です」
彩佳はほんの少しだけ頷いた。
それだけで、胸が軽く上下する。
上原はその小さな動きにも「はい」と返した。
「管は抜けています」
「呼吸も、今のところは保てています」
「ただ、まだ全身が弱っています。苦しいのはおかしくありません」
説明の内容は簡潔だった。
全部を一度に理解できるわけではない。
でも、言葉が整っていることだけは安心になる。
佐山がベッド脇へ椅子を寄せた。
「喉、痛いですよね」
静かな声で言う。
「抜いたあとはしばらくそんな感じです」
彩佳はまた少しだけ頷く。
喋らなくていいと言われることが、今はありがたかった。
口の中が乾いていた。
舌も喉もざらついている。
水が欲しいと思う。
でもその前に、飲み込めるかどうかを確認する段階なのだろうということも、ぼんやり分かった。
上原はモニターを見てから、手元の記録へ視線を落とした。
「血圧は保てています」
「酸素化も大きく崩れていません」
「出血も増えていないので、少なくとも今のところは落ち着いています」
落ち着いています、という言葉が、遠くから届く。
彩佳の中ではまだ、何一つ落ち着いていない。
喉は痛いし、身体は重いし、息をするだけで少し怖い。
それでも医療者がそう言うなら、たぶん数字の上ではそうなのだろう。
数字の上では。
彩佳はそのことを思ってから、不意に夢を思い出した。
水辺。
川面。
夕方の光。
そして、父の声。
お前は、生きろ。
胸の奥が一瞬だけ詰まる。
けれど、その痛みはさっきまでのような暗いものではなかった。
苦しいのに、逃げたい感じが少し違う。
「……さや、ま」
声が擦れる。
ほとんど音にならなかったのに、佐山はすぐ身を寄せた。
「はい」
彩佳はそのまま言葉を続けられなかった。
喉が痛い。
息も途切れる。
佐山は首を振った。
「大丈夫です。分かってます」
「無理しなくていいです」
何が分かっているのかまでは分からない。
でも、その“分かってます”に救われる。
今は、言葉にしないと伝わらないことばかりではないのだと思えた。
少しして、村瀬が区画へ入ってきた。
看護師長らしい無駄のない動きで、記録板を確認し、彩佳の顔色と肩の動き、それからモニターを一通り見る。
「呼吸は落ち着いてますね」
村瀬が言う。
「痰が絡みやすいと思うので、咳は我慢しない方がいいです。痛くても、出せるなら出した方が楽になります」
彩佳はそれを聞いて、少しだけ顔をしかめた。
咳をするというだけで、喉も胸も痛みそうだった。
その反応を見て、村瀬がほんの少しだけ口元をやわらげる。
「怖いですよね」
「でも、ちゃんと出せた方が後が楽です」
その言い方は、厳しいのに冷たくはなかった。
励ますより、必要なことを必要な強さで渡す人の声だった。
上原が村瀬へ短く状態を共有する。
抜管後の経過。
酸素化。
循環。
喉の痛み。
意識の戻り方。
村瀬は一つずつ確認しながら頷いた。
彩佳はそのやり取りを、半分だけ聞いている。
言葉は拾えるのに、意味が全部は追いつかない。
自分のことを話しているのだと分かる。
でも、その“自分”がまだ身体の中でうまく一つになっていない。
しばらくして、村瀬が出ていく。
区画の中はまた少し静かになる。
上原はベッド脇へ戻り、今度は少しだけ彩佳へ意識を向けて言った。
「石井さん、ここがどこか分かりますか」
彩佳はすぐには答えられなかった。
病院。
そういう言葉が頭の中にあるのに、声にする前に喉が止まる。
「……びょう、いん」
ようやくそれだけ言う。
掠れた、ほとんど息だけみたいな声だった。
それでも上原は頷いた。
「はい。病院です」
「その認識で大丈夫です」
彩佳はその一言で、ほんの少しだけ安心した。
正解を当てたことへの安心ではなく、まだ自分の頭が全部壊れたわけではないのだという安心だった。
上原は続けた。
「細かい説明は、もう少し落ち着いてからにします」 「いまは、助かったことと、呼吸が自分でできていることだけ分かっていれば十分です」
助かった。
その言葉だけが、耳の中に少し遅れて届く。
助かった。
それは、ここまでの出来事を一つの言葉にするにはあまりに短いのに、短いからこそ重かった。
彩佳は目を閉じた。
閉じるとすぐに、白い明るさの残像が瞼の裏に残る。
水辺はもう見えない。
父の姿もない。
でも、最後の声だけは消えていなかった。
お前は、生きろ。
その言葉のあとに現実へ戻ってきたのだと、今はっきり分かる。
喉の痛みも、胸の重さも、身体の疲れも全部ある。
それでも、戻ってきてしまったのだ。
逃げられないように思えて、同時に少しだけ救いでもあった。
「石井さん」
上原がまた呼ぶ。
彩佳は目を開ける。
「次に大事なのは、呼吸を整えることと、少しずつ飲み込みや反応を見ていくことです」
「急には戻りません」
「でも、身体の方は戻る方向へ向いています」
その言い方に、彩佳は父の声と似たものを少しだけ感じた。
大丈夫だと簡単に言わない。
痛いものは痛いままにして、でもそこから先へ進める形だけは示す。
そういう声。
佐山は彩佳の呼吸を見ながら、静かに言った。
「今日は、元気になった実感なんてなくていいです」
「息して、痛くて、疲れてるだけで十分です」
それがあまりに正確で、彩佳は少しだけ泣きそうになった。
でも泣く元気もまだなかった。
泣く代わりに、もう一度だけ小さく頷いた。
左の方で何かが動いた気がして、彩佳はそちらへ顔を向けようとする。
けれど、音の輪郭が少し遅れてくる。
誰かが何かを置いたような気がするのに、その位置がうまく掴めない。
彩佳は眉を寄せた。
「どうしました」
上原がすぐに気づく。
彩佳は言葉を探す。
喉が痛くて、うまくまとまらない。
「……ひだり」
「おと……」
上原と佐山の視線が一瞬だけ交わる。
「左からの音が、少し取りづらいですか」
上原がゆっくり訊く。
彩佳はそれに頷く。
頷いたあと、自分でも少し驚いた。
ただぼんやりしているだけだと思っていた違和感に、言葉がついたからだった。
「分かりました」
上原は声の調子を変えずに言う。
「それも確認していきます」
「今すぐ全部説明しなくて大丈夫です」
佐山が、今度は少し意識して右側へ位置をずらした。
その動きが、彩佳にはちゃんと分かった。
「こっちから話しますね」
佐山が言う。
彩佳はそれに、ほんの少しだけ安心する。
左耳の違和感。
喉の痛み。
呼吸の慎重さ。
全部が、助かったあとに残る現実だった。
けれどその現実は、まだ絶望の形にはなっていない。
ただ、重くて、遅くて、回復という言葉がすぐには似合わないだけだ。
上原は記録欄へ簡単に書き込みを足した。
抜管後の意識状態。
会話成立。
左側聴覚違和感の訴え。
呼吸状態は維持。
循環安定。
文字にされることで、彩佳の身体はまた一つ、こちら側の現実へ固定されていく。
それでも今は、それでよかった。
専用区画の朝はまだ白いままだった。
本体ICUのざわめきは遠い。
壁の向こうでは病院全体が動いている。
けれどこの小さな区画の中では、彩佳がようやく名前を持って、声のない朝を越えようとしていた。




