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第22話 呼吸をするということ

 朝の気配は、専用区画の中では光ではなく音で分かった。


 本体ICUの方で人の動きが少しだけ増える。

 遠くの足音が続き、短い声がいくつか重なる。


 夜のあいだ一定だった機械音の並びに、別のリズムが混ざる。

 それでも、ここはまだ静かだった。

 彩佳は浅い眠りと覚醒の境目にいた。

 完全に眠っているわけではない。

 けれど目を開け続けることもできない。


 喉の奥の異物感は相変わらず強く、息をするたびに、自分の身体がどこまで自分のものとして戻ってきているのか分からなくなる。


 ただ、昨日のことはぼんやりとしかおぼえていないが感覚は明らかに違っていた。

 苦しい。

 重い。

 痛い。

 その感覚が全部ある。

 でもそれは、遠い底で溺れている苦しさではなく、こちら側の身体の苦しさだった。


 目を閉じたまま、彩佳はゆっくり息を吸う。

 すぐに喉の奥がひりついて、眉が寄る。


「石井さん」


 上原の声だった。


「聞こえますか」


 彩佳は目を開けようとした。

 瞼が重い。

 それでも昨夜よりは少しだけましだった。

 白い天井が見える。

 視界はまだぼやけているが、人の輪郭が分からないほどではない。

 ベッドの脇に立つ上原の顔。

 その少し後ろに佐山の姿。

 二人ともマスク越しなのに、疲れているのが分かった。


「今から少し、呼吸の様子を見ます」  


上原が言う。


「苦しいと思いますけど、できる範囲でいいので、呼吸を合わせてください」


 意味を全部は拾えない。

 けれど、言われていることが「今ここで何かを試している」のだということだけは分かる。

 彩佳は小さく頷こうとして、ほとんど動かなかった。

 それでも上原は「はい」と短く返した。動いたかどうかではなく、伝わったこと自体を拾う返事だった。


 上原はモニターへ視線を移し、呼吸器の波形を確認する。


 夜のあいだ保たれていた血圧はまだ大きく崩れていない。


 酸素化も保てている。


 自発呼吸の混じり方も、昨夜より少しだけはっきりしていた。


「血ガスも悪くないです」  


上原が低く言う。


「設定、もう一段見られます」


 佐山がベッド脇へ一歩寄る。

 視線は彩佳の胸の上がり方と肩の動き、それから顔色へ向いていた。


「焦らなくて大丈夫です」  

佐山が言う。

「身体はついてきています」


 その言葉が、彩佳の胸の奥へ静かに落ちる。

 身体はついてきている。


 それは、父が夢の中で言った「生きろ」と少し似た響きを持っていた。


 上原は芹沢と短く状態を確認し、村瀬へも合図を送った。

 専用区画の中に、大きな慌ただしさはない。

 だが、空気の質が少しだけ変わる。

 みんなが同じ一点へ意識を寄せる時の静けさだった。


「石井さん」  


上原がもう一度呼ぶ。


「このまま保てるなら、管を抜く方向で考えています」


 彩佳はその言葉を聞いて、喉の奥の痛みを急にはっきり意識した。

 抜く。

 今入っているこれを。

 息苦しさと、怖さと、少しだけ安堵みたいなものが同時に胸へ上がる。


 佐山はその表情の変化を見ていたのか、声を落として言った。


「大丈夫です。急にはやりません」


「呼吸が自分でちゃんと続くか見てからです」


 彩佳は目を閉じた。

 閉じて、喉の違和感の向こうで自分の息を探す。

 吸う。

 浅い。

 でも入る。

 吐く。

 少し遅れる。

 もう一度。

 今度は、機械に押されるリズムの中に、自分の方から合わせにいく感じが少しある。

 上原は波形を見たまま、わずかに頷いた。


「保てていますね」


「はい」


 佐山もすぐに答える。 


「肩の動きも昨日より自然です」


 そのやり取りを聞きながら、彩佳は自分が見られていることをぼんやり理解する。


 ただの“反応があるか”ではなく、身体が本当に戻る側へ乗っているかどうかを見られている。


 そのことが、なぜか少しだけ救いだった。

 しばらくして、芹沢が区画へ入ってきた。

 白衣の裾を揺らしながらベッド脇まで来て、モニターを一通り見てから上原に目を向ける。


「どうです」


「循環は保てています」

 上原が答える。

「酸素化も崩れていません。出血も今のところ問題なしです」


「自発呼吸も揃ってきています」


 芹沢は短く頷いた。


「じゃあ、段階としては見えてますね」


 彩佳にはその言葉の意味が全部は分からない。

 でも、その場にいる人たちが同じ方向を向いていることだけは分かった。

 上原が彩佳へ視線を戻す。


「石井さん、今から少しずつ管を抜ける状態か確認していきます」


「苦しかったら表情でもいいので反応してください」

 

彩佳はまた小さく頷く。

 頷いたつもり、に近い動きだったが、佐山がすぐに


「大丈夫、拾えてます」


と言った。

 そこから先の時間は、短いのに長かった。


 呼吸器のサポートを少し変える。

 波形を見る。

 胸の動きを見る。

 酸素化を見る。

 顔色を見る。

 喉の奥に管がある不快さの中で、彩佳は自分の呼吸を追いかける。


 苦しい。


 でも、急変前のあの「吸っても足りない」苦しさとは違う。

 今の苦しさは、戻ろうとしている身体の苦しさだった。


「……いけそうです」


 上原が言った。

 芹沢はモニターから目を離さずに聞く。


「同意ですか」


「はい」  

上原が答える。

「まだ慎重には見ますが、今のところ条件は揃っています」


 村瀬も短く頷いた。


「看護側も問題ありません」


 それで決まった。

 彩佳は目を開けたまま、上原の声を待つ。


「石井さん」


 上原が少しだけ身を寄せる。


「これから管を抜きます」


「抜いた直後は苦しく感じるかもしれません。でも、こちらで見ています」


「慌てなくて大丈夫です」


 彩佳は返事をしようとして、やはり声にならない。

 代わりに、指先へ力を入れる。

 ほんのわずかだったが、上原は「はい」ともう一度返した。

 佐山がベッド脇へ移る。

 その立ち位置が、急変の時とは違って見えた。


 今は落ちていく身体を押しとどめるためではなく、戻る身体を迎えるためにそこにいる。


「彩佳さん」  

佐山が言う。


「次に息を吸う時、焦らなくて大丈夫です」


「自分の呼吸でいけます」


 その声を聞いた瞬間、彩佳の胸の奥にあった怖さが少しだけ形を変えた。


 消えたわけではない。

 でも、飲み込まれるだけの怖さではなくなった。


 処置自体は短かった。


 固定を外す。


 タイミングを合わせる。


 抜く。


 喉の奥が、焼けるように痛んだ。


 彩佳は強く咳き込んだ。


 胸も喉もひどく痛くて、目の前が白く揺れる。


 息がうまく入らない気がして、反射的に身体に力が入る。


「大丈夫」


 佐山の声がすぐに入る。


「入ってます」


「吸えてますよ」

 その声に押されるように、彩佳はもう一度息を吸う。

 浅い。

 喉が痛い。

 でも、入る。

 自分で入ってくる。

 もう一度。


 今度はさっきより少しましだった。

 上原がモニターを確認する。

 酸素化は保たれている。

 血圧も落ちていない。

 呼吸はまだ不安定だが、破綻してはいない。


「保てています」


 上原が言う。

 その言葉で、彩佳はようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 抜いた瞬間にまた咳き込み、喉の痛みで涙が滲んだ。


「痛いですよね」


 佐山が静かに言う。


「それで普通です」


 彩佳は目を閉じたまま、小さく頷いた。

 喋ろうとしても、声は掠れてほとんど出ない。


「声は無理に出さなくて大丈夫です」  


上原が言う。


「今日はまず呼吸を整えることだけで十分です」


 彩佳はそのまま、何度か浅く息を繰り返した。

 喉の痛み。

 胸のだるさ。

 全身の重さ。

 それでも、呼吸は自分の中へ戻ってきていた。

 しばらくして、ようやく目を開ける。

 白い照明。

 上原の顔。

 佐山の顔。

 少し離れたところに芹沢と村瀬の姿もある。

 ここが現実なのだと、やっと身体の方が認め始める。


「……」  


何か言おうとして、声にならない。

 佐山がすぐに首を振る。


「まだ喋らなくていいです」


 彩佳はその言葉に従うみたいに、また目を閉じる。

 でも今度は、沈むためではなく、休むために閉じた。

 父の声はもう聞こえない。

 けれど消えてもいない。


 生きろ。


 その一言が、まだ胸の深いところに残っている。

 上原は記録に抜管時刻を書き込み、バイタルの推移を確認した。


 佐山は呼吸の速さと肩の力みを見ている。


 村瀬は必要な物品を整え直し、芹沢は最後にモニターを一通り見たあと、


「ここからですね」


とだけ言った。

 ここから。

 その言葉は、回復の始まりにも聞こえたし、別の何かの始まりにも聞こえた。


 彩佳は声もなく、浅く息をした。

 喉は痛い。

 身体は重い。

 頭もまだぼんやりしている。

 助かった実感なんて、まだ全然ない。

 それでも、呼吸だけは自分のものだった。

 専用区画の中には、人工呼吸器の音が消えたあとの静けさが残っていた。


 本体ICUのざわめきは壁の向こうに遠い。

 二重の記録も、芹沢のメモも、まだ何一つ終わってはいない。


 けれど、少なくとも今は、彩佳がこちら側で息を返したことだけが確かだった。


 白い場所の朝はまだ始まったばかりだった。

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