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第21話 白い場所

息を吸った瞬間、胸の奥がひどく重かった。


 さっきまであった水辺の匂いも、夕方の光も、もうどこにもない。

 代わりにあるのは、乾いた空気と、白すぎる明るさと、喉の奥に引っかかる異物感だった。


 彩佳はうまく目を開けられなかった。

 瞼は動く。


 でも、視界の向こうへ届くまでに時間がかかる。

 世界が薄い膜を何枚も隔てた先にあるみたいで、自分がどこにいるのか、すぐには結びつかない。


「彩佳さん」


 声がする。

 今度は遠くない。

 ちゃんと近くで聞こえる。

 低く抑えた、聞き慣れた声だった。


 佐山さんだ、と思うまでに、少しだけ時間がかかった。

 もう一度、息を吸おうとする。

 でも自分の呼吸の感覚がつかみにくい。

 胸は上下している。


 けれど、それが自分の力なのか、別の何かに動かされているのか、まだ曖昧だった。


 喉が痛い。

 その痛みだけが、やけにはっきりしていた。

 焼けるような、擦れるような、咳き込みたいのに咳き込めない不快さ。


 彩佳は眉をわずかに寄せる。


「……いい反応です」


 今度は別の声。

 上原だった。


 その声を聞いた瞬間、現実が少しだけ近づいた。

 ガイアの三階ではない。


 病院。


 白い部屋。


 ここまでしかまだ繋がらない。


「石井さん、聞こえますか」  

上原の声が、今度はもう少しだけはっきりした輪郭で届く。

「上原です」


 彩佳は返事をしようとした。

 でも、喉の奥の何かが邪魔で音にならない。


 代わりに、右手の指先に少し力を入れようとする。

 動いたかどうか、自分ではよく分からない。


 それでも、ベッド脇の空気がわずかに変わった気がした。


「拾えてますね」


 佐山が言う。


「呼びかけに合わせて返してます」


 その声は落ち着いていた。

 喜びすぎてもいないし、怖がりすぎてもいない。

 小さな反応をそのまま受け取っている声だった。

 彩佳はもう一度、目を開けようとする。

 今度は少しだけ、白い天井が見えた。

 ぼやけている。

 眩しい。

 でも、見えた。

 そこから視線を下ろそうとして、うまくいかない。

 首も重い。


 身体のどこも、自分のものなのに、自分の思った通りには動かなかった。


「焦らなくていいです」  


上原が言う。


「身体は戻る方向にあります。大丈夫です」


 大丈夫。

 その言葉が、すぐには意味を持たない。


 でも父の最後の声と重なって、妙に深く沈んだ。

 生きろ。

 あの声は、まだ胸の奥に残っている。


 夢だったのかどうかも曖昧なのに、その一言だけは現実よりはっきりしていた。


 彩佳はわずかに顔を動かそうとして、喉の違和感でまた眉を寄せた。


「チューブ、気になってますね」  


佐山が低く言う。


「それはそうですよね」


 その言い方に、少しだけ救われる。

 苦しいことを苦しいと、そのまま受け取ってくれる声だった。

 上原はモニターを見てから、呼吸器の波形を確認した。

 血圧は保たれている。

 酸素化も崩れていない。

 自発呼吸はさっきから少しずつ増えてきている。

 呼びかけへの返りもある。

 まだ十分とは言い切れない。

 だが、身体そのものは確かに覚醒へ向かう条件を揃え始めていた。


「もう少しだけ、このまま見ます」  


上原が言った。


「すぐには抜きません。急がない方がいいので」


「はい」  


佐山が頷く。

 彩佳にはその意味が半分しか分からなかった。


 でも、すぐに何かが終わるわけではないことだけは伝わる。

 終わっていない。

 まだ途中だ。


 その感覚だけが、ひどく重く、でもどこか確かなものとしてあった。


 少しして、視界の端に影が差した。

 佐山がベッドの近くへ椅子を寄せたのだと、あとから分かる。


「彩佳さん」  


佐山が静かに呼ぶ。


「聞こえてたら、それでいいです」


「無理に動かなくて大丈夫です」


 彩佳はその声に、わずかに意識を預ける。


 何かを返さなければと思うのに、まだ身体が追いつかない。

 喉の痛み。

 胸の重さ。

 息をすること自体への慎重さ。

 

全部がまだ、自分を現実へ戻すより先に、自分を守る方へ働いているみたいだった。


 それでも、さっきまでいた暗い底とはもう違う。

 白い。

 痛い。

 苦しい。

 でも、ここには声がある。


「石井さん」


 上原がまた呼ぶ。


「これから少しずつ、呼吸が自分でどこまでできるか見ていきます」


「いまはそれだけ分かっていれば十分です」


 説明の意味を全部は拾えない。

 でも、上原の声が冷静に整っていることだけは分かる。

 その整い方が、逆に安心になる。

 彩佳はもう一度だけ、目を開けようとした。

 今度はさっきより少しだけ長く開いた。

 白い照明。

 ぼやけた天井。

 視界の端に、マスクをつけた上原の顔。

 もう少し横に、佐山の輪郭。

 見慣れたはずの人たちなのに、どこか遠い。

 それでも、その遠さは夢の遠さではなかった。

 ちゃんとこちら側の距離だった。


「……よし」


 上原が小さく言った。

 自分に言い聞かせるような声だった。


「返り方は悪くないです」  


佐山も言う。


「血圧も落ちてません」


 上原は頷き、モニターの数値を再確認した。


「酸素化も保てています」


「呼吸の入り方も、今のところは大丈夫そうです」


「もう少し見て、このままなら次の段階に進めます」


 次の段階。

 その言葉だけが、彩佳の耳に残る。


 何のことかはまだ分からない。

 でも、少なくとも“終わり”ではない。

 ただ、進む。

 まだ進む途中にいる。

 彩佳は目を閉じた。

 閉じたというより、もう一度休むように落ちた。


 完全な沈み込みではない。

 さっきまでの暗闇よりは浅い場所へ、少しだけ戻る。


 父の声はもう聞こえなかった。

 けれど、消えてもいなかった。


 生きろ。

 

その一言だけが、身体の重さの下に小さく残っている。

 専用区画の中では、人工呼吸器の音が規則的に続いていた。

 

本体ICUのざわめきは遠い。

 机の上には二重の記録があり、ポケットの中にはまだ開かれていない線があり、誰もそれを今は口にしない。

 

今ここにあるのは、まず身体の方だった。

 血圧。

 酸素化。

 呼吸。

 出血。

 反応。

 それらがひとつずつ、戻る側の形へ寄り始めている。

 佐山は彩佳の顔を見ながら、もう何も言わなかった。

 上原も記録へ視線を戻し、必要な確認だけを続ける。

 戻ってくる時には、まだらにしか戻らない。

 意識だけが先に上がることもあれば、身体の方が先に条件を揃えることもある。

 今の彩佳は、その両方がようやく噛み合い始めたところにいた。


 だから急がない。


 ここで急いでしまえば、また身体を置き去りにする。

 白い区画の中で、時間だけがゆっくり進む。


 彩佳の胸は、機械の助けを借りながら、それでも少しずつ自分のリズムを取り戻し始めていた。

 夜の終わりはまだ遠い。


 けれど、朝を迎えるための準備だけは、もう静かに始まっていた。

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