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第20話 雫の底

 息が追いつかなくなってからは、あまり覚えていない。

 空気を吸っているはずなのに足りなかった。

 胸の奥が潰れるみたいに苦しくて、何かを掴もうとしても手の中をすり抜けていく。


 そのまま、水の底へ沈んでいくような感覚だけが残っている。


 沈みながら、思う。


 やっぱり、罰が当たったんだと。


 努力が足りなかったんだと。


 何も感じない暗闇の中で、その意識だけが妙にはっきりしていた。


 どこかで、サイレンの音がする。


 夜の道路を切り裂くように、赤い光が窓ガラスを何度も流れていく。


 救急車の中は狭く、白く、金属の匂いがした。

 誰かが時刻を告げ、誰かが心臓マッサージをしている。


「気道確保できたから、次ルートとってアドレナリン入れるよ」


 低く、落ち着いた声だった。

 手際よく点滴に必要な資器材が準備されていく。

 焦っていないのに、少しも遅くない。

 白い手袋をはめた両手が、倒れた患者の腕を取り、血管を確認する。


 車体が揺れても、父の手だけはぶれない。


「ルートとれた。固定完了」


「脈、まだ触れません」


「了解。アドレナリン投与する」


 必要なことだけを短く返す。

 父の声を聞くと、周りの人まで少し落ち着くように見えた。


 その横顔を、私は知っている。


 幼い頃、何度も憧れた顔だった。


 誰かを助けるために、迷わず動く人。


 怖い場面でも、怖い顔を見せない人。


 父は、私にとって本当にヒーローだった。


 場面が不意に切り替わる。


 泣いている母。

 白い骨壺。

 冷えた部屋。

 線香の匂い。


 父が帰ってきた、十二年前のあの日だ。


 いつもならここで終わるはずの夢が、終わらない。


 父の死後、挨拶のために家へ来た父の上司が言う。


「佳人さんは、本当に優秀な方で……」


 一緒に救急車に乗っていたという人も言う。


「佳人には本当にお世話になって……」


 みんな、口々に言う。


 父は

 優秀だったと。

 人格者だったと。

 惜しい人を亡くしたと。


 扉越しに聞いたその会話は、来訪者が途絶えるまで何度も何度も続いた。

 実際には、それ以外の言葉もあったのかもしれない。

 でも私の耳には、その部分だけが何度も刺さった。


 優秀だった。

 惜しい人だった。

 皆の役に立つ人だった。


 そして、いなくなった。


 十歳の私が、そこにいる。

 泣いているわけではない。

 泣けないまま、立ち尽くしている。

 小さな肩だけが硬くこわばっている。

 その子が、私を見る。


「行かせたのは誰?」


 細い声だった。

 でも、逃がしてくれない声だった。


「みんなのヒーローを奪ったのは誰?」


 胸が締めつけられる。


 私が、あんなことを言わなければ。


 『患者さんを助けてあげて』


 あんなふうに背中を押さなければ。


 私が送り出した。


 私が、父を死ぬ方へ行かせた。

 私が、父の代わりを背負わないと。


 父が傷ついて死んだように、私も傷つかないと。

 父のぶんまで。

 父が残した穴のぶんまで。

 父を失った誰かの穴埋めを、私がしないと。



 後悔から始まった感情は、長い時間をかけて、歪んだ贖罪と自己犠牲へ形を変えていた。


 見ないようにしていた過去。

 思い出したくない過去。


 それが今、逃げ場のない重さで胸に乗ってくる。


 私はその場にしゃがみこむ。

 頭を抱える。

 息ができない。


 暗いはずなのに、何も見えないはずなのに、その重圧だけが妙にはっきりしている。


 ……やか


 どこか遠くで、声がする。


 あやか


 ぼんやりと聞こえていた声が、少しずつ形を持ちはじめる。


「彩佳」


 聞き覚えのある声に、顔を上げる。


 父が立っていた。


 夕方の光の中だった。


 いつの間にか景色は変わっていて、そこは水辺だった。

 広い川面が、静かに揺れている。

 河川敷に立つ父の輪郭だけが、やわらかい橙色の光を背にしている。


 若い頃のままでもなく、最後に見た姿のままでもない。


 私の記憶の中で、いちばん父らしい顔をした父だった。


 私は言葉が出なかった。

 喉が詰まる。

 何から言えばいいのかも分からない。

 父はすぐには近づいてこない。

 少し離れたところに立ったまま、まっすぐ私を見ている。


「……ごめん」


 最初に出たのは、それだった。

 情けないくらい細い声だった。


「ごめん、私…」


「私が、あんなこと言ったから」


 父は何も言わない。

 責めるわけでも、すぐ否定するわけでもなく、ただ聞いている。


「私が言わなかったら」


「行かなかったかもしれないのに」


 息がうまく続かない。

 涙も次々にあふれ出る。

 それでも止まれない。

 


「私が送り出した」

「私が、皆からヒーローを奪った」

「だから私が…」

「私がちゃんと、父さんの代わりをしないといけないのに」


 最後の方は、ちゃんと喋れているのかどうかもわからなかった。


 言葉だけが勝手にほどけていく。


「私が傷つかないと駄目だったのに」

「私がちゃんと差し出さないと駄目だったのに」


 父はようやく、小さく息を吐いた。


「あやか、それは違うよ」


 静かな声だった。

 怒っていない。

 哀れんでもいない。

 ただ、間違っていることを間違っていると言う声だった。


 私は泣きながら顔を上げる。

 父は変わらずまっすぐこちらを見ていた。


「お父さんは、"自分で"決めたんだ」


 その一言が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちてくる。


「お前に言われたからじゃない」


「誰かに押されたからでもない」


「俺が、自分で行くって決めた」


 私は息を止めたまま父を見る。


「でも」

「でも、私が……」


「違う」


 父はもう一度言った。


「そこを間違えるな」


 その声は強くはない。

 けれど、揺らがなかった。


「あやか、人を助けるっていうのはな、自分を傷つけることじゃない」


 川面の光が風で波立つ。

 耳元で風を切る音が鳴る、夕方の風は冷たくない。

 それなのに、


 その言葉だけが痛いくらいはっきり聞こえる。


「溺れてるやつの手を掴むことだ」


「でもな」


「自分が泳げないなら、一緒に沈むだけだ」


 私は何も言えない。


 その言葉の意味を、私は既にわかっていたのかもしれない。


「お前は、誰かの代わりに沈むために生まれたのか?」


 胸の奥が、大きく軋む。


 答えられない。

 答えたくない。


 でも、答えはもう出ている気がした。


 父は少しだけ表情をやわらげた。


「助けるってのはな、背負うことじゃない」


「並ぶことだ」


 その言葉を聞いた瞬間、何かが音もなく崩れた気がした。


 ずっと胸の奥で重しみたいに固まっていたものが、少しだけ形を失う。


「手を引くだけじゃない、手を借りろ」


「自分を差し出すな、自分を上手く使え」

 父の声は静かだった。


 でも、一つ一つが逃げ場なく届く。


「お前が沈んだら駄目だ」

「お前までいなくなったら、そこで終わるだろ」


 私は唇を噛んだ。

 泣き顔できっと顔はくしゃくしゃだ、それでも目を逸らせなかった。


「……でも」

「でも、お父さんは、死んじゃった」


 ようやく出した言葉は、それだけだった。

 父はすぐに頷いた。


「ああ。死んだ」


 誤魔化さない言い方だった。


「助からなかった」


「悔しかったし、苦しかったし、怖かったよ」


 私は目を見開いた。

 父がそんなふうに言うのを、たぶん初めて聞いた気がした。


「でもな」


 父は続ける。


「だからって、お前が同じようになればいいわけじゃない」


 川の向こうに、光が滲む。

 空は夕方の終わりみたいな色をしていた。


「お前は、生きろ」


 その言葉で、とうとう膝の力が抜けた。

 私はその場に座りこんで、俯いた。


 生きろ。


 その一言だけが、胸の奥の一番深いところに落ちていく。


 罰じゃない。


 穴埋めじゃない。


 代わりに沈むことでもない。


 それでも、生きろと言われている。


「……わかんないよ」


 自分でも驚くほど小さな声だった。

 父は少しだけ笑った。


「一人でやるからわからなくなるんだよ」


 その笑い方は、昔と同じだった。

 無茶をする私を見て、少し呆れながらもちゃんと助ける時の笑い方。


「手を借りろ」

「隣に立て」

「お前はもう、そうしていい」


 私はゆっくり顔を上げる。

 父の輪郭が、少しだけ光の中へ溶け始めていた。


「待って」  


思わず言う。


「私どうしたら…」


 父は首を横に振った。


「大丈夫だ」


 その言葉に重なるように、別の声がどこかから響いてくる。


 ……さん


 彩佳さん。


 今度ははっきり分かった。

 佐山の声だ。


 父の向こう側の景色が、少しずつ白く滲む。

 川面の色が薄れていく。

 夕方の光が遠くなる。


「生きろ」


 父が最後にもう一度言う。

 その声とほとんど重なるように、


「彩佳さん」


 現実の声が近づいてくる。

 私はその二つの声のあいだ、自分の力でようやく息を吸った。

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