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第20話 兆し

そのあと、すぐに大きな変化が起きたわけではなかった。


 指先はまた静かになる。

 人工呼吸器の規則正しい音は変わらず、モニターの波形も大きくは揺れない。


 けれど、一度見えてしまったものは、見なかったことにはできなかった。


 上原は彩佳の右手から視線を上げ、モニターへ戻した。


 血圧は比較的安定している。

 酸素化も保たれている。

 急変直後に比べれば、昇圧薬もかなり絞れていた。


 出血は増えていない。

 呼吸器設定も、最初の重さからは一段階下げられている。


 身体の方が、少しずつ戻る側へ乗ってきている。


 その上での、この小さな反応だった。


「もう少し、このまま見たいですね」


 上原が低く言った。


 佐山は頷いた。

 今は、その一言で十分だった。


 上原は呼吸器設定を確認し、鎮静の量と直前の記録を見直す。

 そのあと芹沢へ短く内線を入れた。


 反応があったこと。

 循環と酸素化が安定していること。

 出血が増えていないこと。

 自発呼吸らしい波形が、ごくわずかに混じり始めていること。


 必要なことだけを、簡潔に共有する。


『わかりました。数値の崩れがなければ、このまま少しずつ見ていきましょう』


「はい、同意です」


 受話器を置く。

 佐山はそのやり取りを聞きながら、ベッド脇の椅子へ座り直した。


 彩佳の呼吸は、機械のリズムに守られている。

 その規則の中に、さっきほんの少しだけ、本人が戻ろうとする気配が混ざった。


 それだけのことが、今はやけに大きかった。


「先生」


 佐山が小さく呼ぶ。


「はい」


「反応だけじゃなくて、今日はずっと安定していますね」


 上原はモニターを見たまま頷いた。


「ええ。血圧も酸素化も保てていますし、出血も増えていません」


「順調に戻ってきています」


 佐山は彩佳の肩と指先を見たまま、静かに言った。


「戻る側の人です」


 それは希望に飛びついた言葉ではなかった。

 元救命センターの看護師として、戻ってくる患者と、戻れない患者の違いを身体で知っている人間の声だった。


「ただの感覚ですが、鎮静を浅くしただけの動きじゃないと思います」


 上原は視線を外さずに答えた。


「ええ。そろそろ覚醒してきてもおかしくないと思います」


 けれど、すぐに続ける。


「ただ、ここで急がない方がいいですね」


「はい」


 佐山も迷わず同意した。


「ここまで身体が安定してきて、やっとその段階です」


 それからしばらくは、大きな会話もなく時間が過ぎた。


 上原は記録を更新し、波形を確認し、必要なオーダーを整理する。

 佐山はベッドサイドで、彩佳の顔色、肩の動き、指先の緊張の変化を見ていた。


 静かな場所では、小さな変化ほど目立つ。

 だから見ている側も、いつの間にか呼吸を浅くしてしまう。


 夜になり深夜にかかる頃、


 区画の外の気配も薄くなり、人工呼吸器の音だけが、白い照明の下で一定に続いている。


「そろそろ休みましょう」


 一段落したところで、上原が言った。


 佐山はすぐには返事をしなかった。

 視線は彩佳の顔に向いたままだった。


「もう少しだけ、見ていてもいいですか」


 上原は少しだけ佐山を見る。

 その顔にある疲労も、離れがたさも分かっていた。


「分かりました」


 そう言ってから、上原は記録用紙を閉じた。


「私もすぐ戻ります。確認したいことだけ済ませてきます」


「はい」


「無理はしないでくださいね」


 佐山は小さく頷いた。


 上原が待機室の方へ向かう。

 扉が静かに閉まると、区画に残るのは、佐山と、ベッドの上の彩佳だけになった。


 佐山は椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。


 言葉を向けることで、かえって自分の方が何かを求めすぎてしまう気がしたからだ。


 だから、ただ聞いていた。


 人工呼吸器の音。

 一定の圧で胸が上がる。

 少し遅れて下がる。

 その繰り返しの中に、今はごく薄く、彩佳自身の呼吸の気配が混じっている。


 助かることと、戻ってくることは違う。


 戻ってきても、元通りではないかもしれない。


 それでも、戻る途中にあるのだとしたら、その途中にちゃんと立ち会っていたかった。


 佐山はゆっくり息を吐いた。


「彩佳さん」


 呼んでも返事はない。

 けれど、声をかけること自体には意味があるような気がした。


「急がなくていい」


 独り言のような声だった。


「でも、戻るなら……ちゃんと戻ってきて」


 聞かせるというより、自分の方が沈まないために口にしている言葉に近かった。


 その時だった。


 瞼が、ほんの少しだけ震えた。


 佐山は息を止める。


 見間違いかもしれない。

 そう思った次の瞬間、今度はもう少しはっきりと、睫毛の際が揺れた。


「……彩佳さん」


 呼んだ声は、さっきより少しだけ強くなった。


 上原を呼びに行こうとして、佐山は椅子から立ち上がる。

 けれど、部屋を出る前にもう一度だけ彩佳の顔を確認した。


 その頬に、涙が流れていた。


 佐山は動きを止めた。


 しばらく、その場で何も言えなかった。

 彩佳の目はまだ閉じたままだった。

 声もない。

 意識がこちらへ戻ってきているのか、それとも身体だけが反応しているのか、それはまだ分からない。


 それでも、その涙だけは、あまりにも人のものだった。


 佐山はベッド脇へ戻り、椅子に座り直した。

 清潔なタオルで、彩佳の頬をそっと拭う。


 試験前より痩せた顔。

 血色も決して良くはない。

 点滴のラインも、人工呼吸器のチューブも、モニターのコードも、彼女を助けるためのものなのに、同時にここまで追い込んだ事実を突きつけてくる。


 NV-40の流行が始まってから、明らかに増えた自己犠牲的な選択


 誰かの役に立ちたい。

 人が助かるなら、自分が少し無理をしてもいい。


 彼女が部下になった時から、佐山はその明るさの裏にある違和感に気づいていた。

 気づいていたのに、止めきれなかった。

 もっと強く見ていなければいけなかった。


 試験出向を許してしまった後悔。

 異変を拾いきれなかった罪悪感。

 そして、試験を止められなかった悔しさ。


 それらが胸の奥で重なって、言葉にならなかった。


 気づけば、佐山は彩佳の髪を優しく撫でていた。


 病み上がりというにはまだ遠い。

 回復という言葉を使うには、まだ早い。

 それでも今、彩佳は完全に遠い場所にいるわけではない。


 閉じたままの瞼の下で、意識がどこか別の場所から、こちらへ向きを変えようとしている感じがあった。


「大丈夫」


 佐山は小さく言った。


「今は、戻ってくることだけ考えて」


 自分に言い聞かせるような声だった。


 しばらくして、扉が静かに開いた。


 上原が戻ってきた。


「先生」


 佐山は抑えた声で呼んだ。


「どうしました」


「瞼、さっきから反応があります」


 佐山は彩佳の顔を見たまま続ける。


「今までより、少しはっきりしています。」


 上原の表情がわずかに変わる。

 すぐにベッドへ寄り、彩佳の顔とモニターを一緒に確認した。


 血圧は崩れていない。

 酸素化も保たれている。

 呼吸器の波形にも、不穏な乱れはない。


 その上で、反応だけが一段階、こちら側へ近づいている。


 上原は彩佳のそばに立ち、静かに名前を呼んだ。


「石井さん」


 短い間を置く。


「上原です。聞こえますか」


 ほんのわずかに、瞼の端が動いた。


 呼びかけに合わせるような動きだった。


 右手の指先にも、完全な不随意運動とは片づけにくい程度の張りが出る。


 上原は一度だけ、深く息を吸った。


 急がない。


 今ここで無理に覚醒を引き上げる段階ではない。

 ただ、この反応の向こうに何があるのかを見失わないようにする。


「揃ってきていますね」


 佐山が言った。


 上原は頷く。


「ええ。循環も呼吸も保てていますし、反応の出方も悪くありません」


「戻る側の流れには乗っています」


 佐山は彩佳の胸の上がり方を見ながら、小さく言った。


「まだ浅いですけど」


 途中。


 その言葉のまま、彩佳はまだ深いところにいる。

 けれど、その深さの質が、少し変わってきている。


 最初の数日は、沈んだまま何も返さない水底のようだった。


 今はそこに、光の筋のようなものが、どこかから差し込み始めている。


 上原は記録用紙に時刻を書き入れた。


 瞼反応。

 指先の動き。

 自発呼吸の混入。


 全部はまだ小さい。

 けれど、こういう変化は積み重ねでしか見えない。


「今夜はこのまま見ます」


 上原が言った。


「朝までにもう少し反応が揃えば、次の判断材料になります」


「はい」


 佐山も頷いた。


 そのまま二人は、必要以上には声をかけなかった。

 呼びかけるたびに何かが起きてほしいと願い始めると、見えるものまで歪む気がしたからだ。


 だから見る。

 待つ。

 小さな反応を拾う。


 今はそれだけでよかった。


 しばらくして、上原が静かに言った。


「佐山さん」


「はい」


「今日は交代で休みましょう」


 佐山はすぐには返事をしなかった。

 視線はまだ彩佳に向いている。


「ここで私たちが崩れたら、次を見落とします」


 上原の声は穏やかだった。

 けれど、その言葉は逃げ道ではなかった。


 彩佳のために見る。

 そのために、休む。


 佐山はゆっくり息を吐いた。


「分かりました」


「先に少し休んでください。私はもう少し見ています」


「……お願いします」


 佐山は立ち上がる前に、もう一度だけ彩佳の顔を見た。


 まだ目は開かない。

 まだ声もない。


 それでも、こちらの声がまったく届かない場所ではなくなってきていることだけは分かった。


 区画の中には、人工呼吸器の規則的な音が続いている。

 本体ICUのざわめきは、壁の向こうに遠い。


 机の上には二重の記録があり、ポケットの中には小出へつながるメモがある。

 まだ何一つ片付いていない。


 それでも、彩佳の意識のどこかでは、別の時間が流れ始めていた。


 白い照明の下で眠っている身体とは別に、

 もっと柔らかい光のある場所へ、

 何かが静かに触れようとしている。


 戻る途中のものには、急がせない方がいい時がある。


 夜へ向かう静かな区画の中で、彩佳の呼吸にはごくわずかに、自分のリズムが混じり続けていた。

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