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第19話 兆し

そのあと、すぐに大きな変化が起きたわけではなかった。


 指先はまた静かになる。

 人工呼吸器の規則は変わらず、モニターの波形も大きくは揺れない。


 けれど一度見えてしまったものは、見なかったことにはできなかった。


 上原は彩佳の右手から視線を上げ、モニターへ戻した。

 血圧は比較的安定していて、大きく崩れていない。

 酸素化も保たれている。


 昇圧薬は急変直後に比べてかなり絞れていた。

 出血も今のところ増えていない。

 呼吸器設定も、急変直後の重さからは一段階下げられている。


 身体の方が、少しずつ戻る側へ乗ってきている。


 その上での、この小さな反応だった。


「もう少し、このまま見ます」  


 上原が低く言った。

 佐山は頷いた。

 今はその一言で十分だった。

 上原は呼吸器設定を確認し、鎮静の量と直前の記録を見直す。

 そのあと芹沢へ短く内線を入れ、反応のことだけでなく、循環と酸素化が安定していることも含めて共有した。


『わかりました。次の確認の時に本体側でも共有します』


「お願いします」


『数値の崩れがなければ、このまま少しずつ見ていきましょう』


「はい、同意です」


 受話器を置く。

 佐山はそのやり取りを聞きながら、ベッド脇の椅子へ座り直した。


 彩佳の呼吸は、機械のリズムに守られている。

 その規則の中に、さっきほんの少しだけ本人の戻りたい気配が混ざった。

 それだけのことが、今はやけに大きかった。 


「先生」  


佐山が小さく呼ぶ。


「はい」


「反応だけじゃなくて、今日はずっと安定してますね」


 上原はモニターを見たまま頷く。


「ええ、血圧も酸素化も保てていますし、出血も増えていない」


「順調に戻ってきています」


 佐山は彩佳の肩と指先を見たまま、静かに言った。


「戻る側の人…」


「ただの感覚ですが、鎮静を浅くしただけの動きじゃないと思います。」


 その言い方は落ち着いていた。

 元救命センターの看護師として、戻る患者と戻らない患者の差を、身体で知っている人間の声だった。

 希望に飛びついているのではない。


 小さい反応が、全身状態の安定とちゃんと噛み合っているかを見ている。


 上原は視線を外さずに答えた。


「ええ。そろそろ覚醒してきてもおかしくないと思います」


「ただ、ここで急がない方がいいですね」


「はい」  

佐山もすぐに同意した。

「ここまで身体が安定してきて、やっとその段階です」


 それからしばらくは、大きな会話もなく時間が過ぎた。

 上原は記録を更新し、波形を確認し、必要なオーダーの整理だけをする。

 佐山はベッドサイドで彩佳の顔色、肩の動き、指先の緊張の変化を見ていた。

 静かな場所では、小さな変化ほど目立つ。

 だから見ている側も、いつの間にか呼吸を浅くしてしまう。

 夜がさらに深くなったころ、上原は一度だけ待機室へ戻った。

 新しい検査結果がまだ反映されていないか確認し、芹沢から渡されていた経過要約の紙ももう一度見直すためだった。


 区画に残るのは、佐山と、ベッドの上の彩佳だけになる。

 佐山は椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。

 言葉を向けることで、かえって自分の方が何かを求めすぎてしまう気がしたからだ。


 だからただ、

 人工呼吸器の音を聞く。

 一定の圧で、胸が上がる。

 少し遅れて下がる。

 その繰り返しの中に、いまはごく薄く、

 

 彩佳自身の呼吸の気配が混じる。


 助かることと、戻ってくることは違う。


 戻ってきても、元通りではない。


 それでも、戻る途中にあるのだとしたら、その途中にちゃんと立ち会っていたかった。

 佐山はゆっくり息を吐いた。


「彩佳さん」


 呼んでも返事はない。

 けれど、声をかけること自体には意味があるような気がした。


「まだいいです。急がなくて」


「でも、戻るなら、ちゃんと戻ってきて」


 独り言みたいな声だった。

 聞かせるというより、自分の方が沈まないために口にしている言葉に近い。

 その時だった。

 瞼が、ほんの少しだけ震えた。

 佐山は息を止める。

 見間違いかもしれない、と思った次の瞬間、今度はもう少しはっきり、睫毛の際が揺れた。


「……彩佳さん?」


 呼んだ声はさっきより少しだけ強い。

 佐山は立ち上がり、すぐに上原を呼ぼうとして、けれどもう一度だけ彩佳の顔を見た。

 目はまだ開かない。

 でも、閉じたままの瞼の下で、意識がどこか別の場所からこちらへ向きを変えようとしている感じがある。


 佐山は待機室の扉を開けた。


「先生」  


抑えた声で呼ぶ。


上原はすぐに戻ってきた。


「どうしました」


「瞼、さっきから反応があります」


「さっきより、少しはっきり」


 上原はベッドへ寄り、彩佳の顔とモニターを一緒に見る。


 血圧は崩れていない。

 酸素化も保たれている。

 呼吸器の波形にも不穏な乱れはない。

 その上で、反応だけが一段階こちら側へ近づいている。

 上原はそのまま名前を呼んだ。


「石井さん」


「上原です。聞こえますか」


 ほんの短い間のあと、今度は呼びかけに合わせるみたいに、瞼の端がまたかすかに動いた。


 右手の指先も、完全な不随意運動では片づけにくい程度に張る。


 上原は一度だけ深く息を吸った。


 急がない。


 今ここで無理に覚醒を引き上げる段階ではない。

 ただ、この反応の向こうに何があるかを見失わないようにする。


「揃ってきていますね」  


 佐山が言う。

 上原は頷いた。


「ええ」


「循環も呼吸もここまで持っていますし、反応の出方も悪くないです」


「そろそろ、覚醒してきてもおかしくありません」


 佐山は彩佳の肩の動きと胸の上がり方を見たまま、小さく頷いた。


「戻る側の流れには乗ってます」

「まだ浅いですけど」

 途中。

 その言葉のまま、彩佳はまだ深いところにいる。

 けれどその深さの質が、少し変わってきている気がした。


 最初の数日は、沈んだまま何も返さない水底のようだった。


 今はそこに、光の筋みたいなものがどこかから差し込み始めている。


 上原はベッドサイドの記録用紙に時刻を書き入れた。


 瞼反応、指先の動き、自発呼吸の混入。


 全部はまだ小さい。だが、こういう変化は積み重ねでしか見えない。


「今夜はこのまま、見ます」

 上原が言う。

「朝までにもう少し反応が揃えば、次の判断材料になります」


「はい」  

佐山も頷いた。


 それから二人は、必要以上には声をかけなかった。

 呼びかけるたびに何かが起きてほしいと願い始めると、見えるものまで歪む気がしたからだ。

 だから見る。

 待つ。

 小さな反応を拾う。

 今はそれだけでいい。

 区画の中には、人工呼吸器の規則的な音が続いている。

 本体ICUのざわめきは壁の向こうに遠い。


 机の上には二重の記録があり、ポケットの中には小出へつながるメモがあり、まだ何一つ片付いていない。


 それでも、彩佳の意識のどこかでは、別の時間が流れ始めていた。


 白い照明の下で眠っている身体とは別に、


 もっと柔らかい光のある場所へ、


 何かが静かに触れようとしている。


 まだ目は開かない。


 まだ声もない。


 それでも、こちらの声がまったく届かない場所ではなくなってきていることだけは分かった。

 だから上原も佐山も、もうそれ以上は何も言わなかった。


 戻る途中のものには、

 急がせない方がいい時がある。

 夜へ向う静かな区画の中で、彩佳の呼吸にはごくわずかに、自分のリズムが混じり続けていた。

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