表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/54

第16話 微かな気配

 待機室と呼ばれてはいたが、休める場所という感じは薄かった。

 壁は白く、机は小さい。

 端末が一台、

 簡易ベッドがひとつ、

 椅子が二脚。


 シャワーとトイレもあるにはあるが、そこに生活の匂いが生まれる前に、全部が「すぐ戻るための設備」に見える。

 病院本体ICUの一角を区切ったガイア専用区画。

 その通路を挟んだ向かいにある医師待機室を、上原は急変当日からほとんど離れず使っていた。


 看護師待機室には佐山がいる。

 扉を閉めれば別室だが、実際には行き来の方が多く、完全に分かれている感じはなかった。


 彩佳はまだ本体ICUにいる。


 専用区画へ移すには早い。

 血栓回収後、循環は急変当日より明らかに持ち直してきたものの、人工呼吸管理は継続中で、鎮静もまだ必要だった。


 ヘパリンは続いている。

 胎盤模倣薬剤はもちろん中止。

 呼吸、循環、出血、凝固、全部がようやく崩れずに並んでいる段階で、少し歯車がずれればまた傾く可能性がある。

 だから今は、本体ICUで病院側が主導して診る。


 上原も佐山も、そこは分かっていた。

 それでも、病院の中にいて、しかもすぐ向かいに専用区画と待機室があるというのは、奇妙な感覚だった。


 完全な付き添いでもない。

 完全な部外者でもない。

 だが、主治療者でもない。


 上原は待機室の端末を閉じ、椅子の背にもたれた。

 長く座っていたせいで、肩の奥が固い。

眠っていないわけではないが、寝た感じもしない。

机の上には、芹沢から渡された最新の検査結果のコピーが伏せて置いてあった。


 扉が二度ノックされ、すぐに開く。

 佐山だった。


「入ります」


「どうぞ」


 佐山は中へ入ると、扉の近くで一度足を止めた。

 表情に大きな動きはない。

だが、目元の色と、肩のわずかな強張りが、ここ数日まともに休めていないことをそのまま出していた。


「村瀬さんが来てました」


「何か言ってましたか?」


「さっき吸引のあと、刺激に対する反応が少し出たそうです」  


佐山は淡々と言った。


「覚醒というほどではないけど、返り方は前よりましだと」


「そうですか」


 上原は短く頷いた。


 それだけなら、まだ抜管に踏み切る段階ではない。

 ただ、沈み切ったままではなくなっているのなら、身体の側は少しずつ戻ろうとしている。

 佐山は椅子を引かず、そのまま立っていた。


「本体ICUにいる間、こっちは待機だけですね」


「ええ」


「でも、向こうが主導で正しいと思います」


 佐山は言ってから、少しだけ間を置いた。


「分かってるんですけど、変な感じはします」


 上原は小さく息を吐いた。


「病院の中にいるのに、まだガイアの枠から出ていない感じがしますね」


「……そうですね」


 佐山もそれにはすぐ頷いた。

 本体ICUの管理自体は病院側がきちんとやっている。

 必要な薬剤も、必要な処置も、遅れなく入っている。

 それでも自分たちは一般の家族待機室ではなく、最初から用意されたガイア専用区画向かいの待機室を使っていて、患者の動線も情報の流れも最初から切り分けられている。


 助けられている。


 同時に囲い込まれてもいる。


 その二つが並立していた。


 その時、待機室の内線が鳴った。

 上原が受話器を取る。


「はい、上原です」


 短い応答のあと、受話器を置く。


「今なら少し入れるそうです」

 上原が言う。

「村瀬さんと三崎先生がいるみたいです」


 佐山は


「はい」


 とだけ答えた。

 二人はそのまま廊下へ出た。

 通路は静かだった。

 専用区画の入口表示灯は変わらず淡く点いている。

 そこを通り過ぎ、本体ICU側へ向かう。

 距離は遠くない。

 だがそこへ入るたびに、自分たちが今どこまで許されているのかを意識させられる。

 本体ICUの中は、今日も変わらず明るかった。


 昼夜の区別が薄い照明。

 短い指示。

 モニター音。

 カーテンの向こうで続く処置の気配。


 命を持ちこたえさせ続けるための場所の空気がある。

 彩佳のベッドのところには、村瀬と三崎がいた。

 芹沢の姿は少し離れたモニター前にある。


「失礼します」  


 上原が小さく言う。

 三崎が一度こちらを見て頷いた。


 「いま、刺激で少し反応が出ました。まだはっきりした覚醒ではありませんが、鎮静を浅くした時の返り方は前よりいいです」


 上原はベッド脇へ寄り、モニターと呼吸器設定を一目で確認する。

 大きく悪くはなっていない。

 酸素化も循環も、少なくとも今この瞬間は保たれている。

 佐山は足元側から彩佳の顔を見る。

 まつ毛は閉じたまま。

 口元にはまだチューブ。

 頬に貼られたテープ。

 呼吸器に合わせて胸が規則的に上下している。

 村瀬がベッドサイドで呼びかける。


「石井さん、わかりますか」


 返事はない。

 だがその数秒後、右手の指先がほんのわずかに動いた。

 上原が視線を落とす。

 佐山も同じところを見る。


「今の」  


上原が低く言う。


「見えました」  


佐山が答える。声は落ち着いていたが、視線は逸れなかった。

 三崎がモニターを見ながら続ける。


「反応としては悪くありません。ただ、まだ気管チューブを抜く段階ではないですね」


「もう少し見ます」


「はい」  

 

上原が頷く。


 芹沢がその時こちらへ歩いてきた。


「数値は昨日より素直です」

 短く言う。

「循環も呼吸も、少なくとも今は落ち着いてます」


 言い方は簡潔だった。

 余計な希望も、不要な脅しも混ぜない。

 それでも、急変当日や翌日の切迫感からは一歩進んでいると分かる声だった。


 上原は彩佳の顔を見た。

 動きはまだ小さい。

 目も開かない。

 それでも完全な無反応ではない。


 深いところから、少しずつ浮かび上がろうとしている身体の反応だった。


 佐山はそれ以上ベッドへ近づかなかった。

 触れるより先に、見ておくべきものがあると身体が知っていた。

 指先のわずかな動き。

 表情の変化はまだない。

 自発呼吸も完全には戻っていない。

 けれど、沈みきったままではない。


 村瀬が


「そろそろ」


と合図し、二人はまた少し下がった。

 本体ICUで長く居続ける立場ではない。

 必要な情報だけ受け取って、戻る。

 その割り切れなさを抱えたまま、また専用区画向かいの待機室へ戻る。

 帰りの通路で、佐山が言った。


「反応はありますね」


「ええ」  


上原が答える。


「まだ小さいですけど」


「抜管までは、もう少しかかりそうですか」  


 佐山の問い方は静かだった。

 予後そのものではなく、今どの段階にいるかを確かめる聞き方だった。

 上原は少し考えてから答える。


「今日すぐ、ではないと思います」


「でも戻り方としては悪くないです。ここで崩れなければ」


 佐山は無言で頷いた。

 そこに含まれている前提を、言い直して確かめる必要はない。

 崩れなければ。

 その一語の重さは、二人とも分かっていた。

 その日の夜は、前の日までより少しだけ長く感じた。

 待機室に戻ってからも、上原は机に向かったり、廊下へ出たりを繰り返した。

 佐山も同じように落ちつきが無い。

 休めと言われても休める状態ではない。

 だからせめて、同じ建物の同じ階で待っていられることだけが、辛うじて自分たちを保っていた。

 本体ICUから漏れてくる音は、夜になっても消えなかった。

 どこかで誰かのモニターが鳴る。

 短い足音が走る。

 カーテンレールが擦れる。

 その全部が、ここだけで何人もの命が持ちこたえさせられていることを示していた。


 佐山は看護師待機室へ戻ったあとも、すぐには横になれなかった。


 人に任せて待つ側へ下がることに、慣れていない。


 けれど今は、それが正しい。

 本体ICUは病院側の場で、ここで自分がやるべきことは、患者に近かった人間として必要な情報を渡し、抜けを作らないことだ。

 そこを間違えれば、ただの感情で動くことになる。

 佐山は申し送りのために作った紙を見たまま、静かに目を閉じた。


 彩佳はまだ若い。


 二十一歳で、

 明るくて、

 苦しくても軽く言う癖があって、

 だから、完全に無理がきかないところまで来てからやっと人に見せる。


 そういう子が、今は管に繋がれて眠っている。


 小出のことを、思い出さないわけがなかった。

 思い出したくないのに、こういう夜はどうしても思い出してしまう。


 名前を呼べなかったこと。


 止めきれなかったこと。


 何が何でも表に出せばよかったのではないかという、順番のない後悔。


 ただ今回は、同じではない。

 同じにしたくない。

 その思いだけで、どうにか立っている。

 廊下で小さく物音がして、佐山は目を開けた。

 すぐに扉を開けると、上原が立っていた。


「すみません、起こしましたか」


「起きてました」  


 佐山は言う。


「先生の方は」


「同じです」  

 上原は少しだけ苦く笑うような顔をした。

「寝る感じではなかったので」


 廊下の照明は夜でも落ちきらない。

 白い壁が、そのまま白く見える。


「何かありましたか」  


 佐山が訊く。


「いえ。ただ」  


 上原は少し言葉を探した。


「このまま待っているより、誰かと確認した方が頭が整理できる気がして」


「私でよければ」  


 佐山が言う。

 二人は医師待機室へ移った。

 机の上には、検査結果の紙と、芹沢が置いていった最新の経過メモが並んでいる。

 上原はその一枚を指で押さえた。


「血ガスは前より落ち着いています」


「昇圧もかなり絞れてる」


「ヘパリンも今のところ大きな出血なく入っている」


「少なくとも、急変当日の不安定さからは抜けてきています」


「はい」  


 佐山も紙を見る。


「呼吸器設定も少し下がってますね」


「ええ」  


 上原は頷いた。


「だから、身体そのものは戻る方向にあると思います」


 その言い方を聞いて、佐山はほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 大丈夫とは言わない。

 助かるとも言い切らない。

 でも

「戻る方向にある」

と、上原が自分で言えるところまで来ている。


 それは今の二人にとって、十分に大きい言葉だった。

 沈黙が落ちる。

 そのあと、佐山がぽつりと言った。


「三階、どうなってると思いますか」


 上原はすぐには答えなかった。

 河合と清水が残っている。

 A群は継続中。

 森下もまだ観察対象からは外れていない。

 早苗は、試験参加者でありながら、彩佳不在の空気を一番近くで受けているはずだ。


「止まってはいないでしょうね」  


上原が言う。


「たぶん、普通に進んでる」

「それが一番、嫌ですけど」


 佐山は無言で頷いた。

 彩佳があんなふうに崩れて運ばれたあとでも、フロアの時計は進む。


 朝食の時間が来て、

 問診があって、

 投薬があって、

 採取があって、

 記録が積まれる。


 その平然さが、あの場所のいちばん気持ち悪いところだった。


 「清水さんなら」  


 佐山が言う。


「高橋さんのことも見てくれてると思います」


「ええ」  


 上原は頷いた。


「河合先生もいますし」


 それでも心配が消えるわけではない。

 ただ、今ここで自分たちが病院を離れる選択肢がないことも、同じくらいはっきりしていた。


 ようやく上原が少しだけ椅子にもたれた頃、

 看護師待機室の方へ村瀬が来た。

 佐山が呼ばれて廊下へ出ると、村瀬は手元の記録板を閉じながら言った。


「状態、少し落ち着いています」


「本体ICUの負荷も考えて、移送の話が現実的になってきました」


「専用区画にですか?」  


 佐山が訊く。


「ええ」  


 村瀬は頷いた。


「明日の昼以降か、遅くても明後日までには」

「まだ最終決定ではないですけど、準備は始めます」


 佐山は本体ICUの方を一度見た。

 向こうで続いている管理の音が、壁越しにかすかに伝わる。


「わかりました」


「上原先生にも伝えておいてください」


「正式に決まったら、芹沢先生から直接説明があります」


「はい」


 村瀬はそれ以上多くを言わず、短く会釈して戻っていく。

 残された廊下は、また静かだった。

 佐山はそのまま上原の待機室の扉を叩いた。


「はい」  

 

中から返事がある。

 開けると、上原はまだ机に向かっていた。

 端末は落としてあり、紙の検査結果だけが広がっている。


「村瀬さんから」  


佐山が言う。


「移送の準備、始めるそうです。専用区画へ」


 上原は一度目を閉じてから、開いた。


「……そうですか」


 その声には、安堵と緊張のどちらも入っていた。

 本体ICUを抜けられる程度には落ち着いてきた。

 でもそれは同時に、自分たちがまた前へ出る段階に入るということでもある。


「明日か、明後日」


 佐山が言う。


「ええ」  


上原は静かに頷いた。


「ここから、ですね」


 それは回復の始まりを指す言葉でもあり、

 別の管理の始まりを指す言葉でもあった。

 待機室の向かい側、電気のついていない専用区画が、見えた。

 まだ彩佳はいない。

 まだ本体ICUのベッドの上にいる。

 けれどもう、移されてくる場所は決まっていた。

 そこへ入れば、治療は続く。


 同時に、病院の中にありながら


 試験の延長に置かれる異様さが、

 

 もっとはっきり形を取る。


 上原は机の上の紙を揃えた。

 佐山は何も言わず、扉の近くに立ったまま少しだけ呼吸を整える。

 明日か、明後日。

 二人とも、その先の場面をまだ言葉にしなかった。

 ただ、そこへ向けて空気が少しずつ切り替わっていくのだけは分かった。

 そしてその切り替わりの先に、

 まだ表に出ていない真相へ触れる入口が待っていることを、

 この時の二人はまだ、はっきりとは知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ