第17話 被験者
病院本体ICUの空気は、昼も夜も少し似ていた。
明るさが落ちきらない。
機械の音が完全には途切れない。
人の足音も、小さな声も、何かが終わった静けさではなく、何かを持ちこたえさせ続けるための音としてそこにある。
彩佳のベッドの周囲でも、それは同じだった。
人工呼吸器の規則的な作動音。
輸液ポンプの小さな電子音。
モニターの波形。
それぞれは一定に見えて、実際には全部が今の身体の危うさと結びついている。
血栓回収から三日が過ぎていた。
午前中に区画移動の決定が芹沢から伝えられ、
既に移動の準備に入っている。
循環は、急変直後に比べれば明らかに持ち直している。
昇圧薬は少しずつ絞られ、酸素化も最悪のところは抜けていた。
それでも、まだ“助かった”という言葉を置くには早い。鎮静は浅くし始めているが、挿管は継続中で、自発呼吸の戻りや反応は慎重に見ていく段階だった。
上原はベッドサイドのモニターを見ていた。
表示される数値はさっき確認したものと大きく変わっていない。
それなのに、視線を離した瞬間に何かが崩れるのではないかという感覚が、まだ体の奥から抜けない。
「先生」
声を掛けてきたのは、村瀬だった。
ICU看護師長らしい、余計な抑揚のない声だった。硬いわけではないが、ここで必要以上に感情を混ぜない人の声だと分かる。
「はい」
上原が振り向く。
「移送の準備が整いました」
「もうですか」
「ええ。向こうの区画、空けてあります。」
向こう、という言い方だけで意味は通じた。
病院本体ICUの一角にある、ガイア専用ICU区画のことだ。
上原は一瞬だけ彩佳の方を見た。
まだ目は開かない。
頬の色も健康な人のそれには遠い。
けれど、急変当日のあの崩れ方を知っている身からすれば、ここまで来ていること自体がひとつの現実だった。
佐山は少し離れた位置からそのやり取りを聞いていた。
聞いていながら、胸の奥がわずかに固くなる。
本体ICUから専用区画へ移す。
それは状態が少し落ち着いたという意味でもあるが、同時に、彩佳の管理がまた一段、ガイアの枠の内側へ戻されるという意味でもあった。
その時、反対側から芹沢が歩いてきた。
白衣の裾が、速すぎない足取りに合わせてわずかに揺れる。
初療の時と同じように慌ただしくはない。
けれど、気を抜いているようにも見えなかった。
救命の人間が、危機が一段落したあとにだけ出す種類の緊張をまだ残している顔だった。
「今さらですが、今回はいつもの先生じゃないんですね」
芹沢がそう言って、上原と佐山を見た。
その一言に、村瀬がわずかに眉を寄せる。
「芹沢先生、ガイア側のことに言及するのは……」
牽制するような声だった。
芹沢はそちらを一度見たが、すぐに視線を戻した。
上原が短く答える。
「今回は、被験者側から医師と看護師が同伴して試験を実施しています」
芹沢は小さく頷いた。
それだけで何かを理解したようにも、逆に何も飲み込んでいないようにも見えた。
村瀬が一歩前へ出る。
「ここの運用について説明するように、倉持さんの方から聞いていますので、これから説明します」
そこで一度言葉を切り、少しだけ視線を落とした。
「その前に、被験者の……ごめんなさい。彼女の名前を伺ってもいいですか」
上原と目線を合わせた後、佐山が答える。
「いしい、あやかさんです」
芹沢がそのまま続けた。
「こちらは名前すら教えてもらってないんです。そのまま、名前の漢字、生年月日まで聞いても良いですか?名前、生年月日の確認は病院では基本ですから」
村瀬がすぐに口を挟む。
「先生、だからあんまり深入りするのは……」
「被験者じゃなくて、患者として会話しないと意味ないでしょ」
芹沢は村瀬の方を見たまま言った。
「深入りとかじゃなくて」
村瀬は何か言いかけて、結局小さく息を吐いた。
「……ですが」
それでもすぐには引き下がらず、
「いえ、申し訳ありません」
芹沢はベッド脇の簡易端末に差し込まれていた診療情報用紙を一枚抜き取り、氏名欄を指さした。
そこには患者名ではなく、簡略化された管理番号と、被験者という記載だけが印字されていた。
「ここに書いてください」
佐山はその紙を受け取り、数秒だけ動かなかった。
被験者。
その三文字の下に、自分の手で名前を書く。
胸の奥に何かがひっかかったまま、ペンを取る。
石井 彩佳
2020年12月10日
名前と生年月日を書き終えた時、ようやく少しだけ息ができた気がした。
「ありがとうございます」
芹沢が受け取りながら言う。
その言い方は軽くなかった。
村瀬が改めて事務的な声で続ける。
「では、専用区画の運用について説明します。設備は本体ICUと同等です。人工呼吸器、持続点滴、モニタリング、吸引、緊急対応物品は基本的に同じものを使えます」
「必要な医療機器、薬剤については、病院側では上級医と看護師長が窓口になります。今回は芹沢先生と私です」
「普段はガイア製薬の医師と看護師が入りますが、今回は上原先生と佐山さんが入ると、倉持さんから事前に連絡を受けています」
そこで上原がわずかに眉を寄せた。
「記録はどうなりますか」
村瀬は一瞬だけ上原を見たあと、言葉を選ぶように答えた。
「二系統です」
「院内カルテと、ガイア製薬側の試験記録」
「どちらも内容確認が入ります。院内カルテは治療に必要な情報を中心に、試験記録はガイア側の管理様式に合わせて整理されます」
「基本的には、病院側とガイア側の双方で整合性が取れるように確認します」
上原は表情を変えなかった。
だが、その「整合性」という言葉が何を意味しているのか、考えないわけにはいかなかった。
治療はされる。
適切な管理もされる。
それでも、情報の出口は最初からガイアの枠の中にある。
芹沢が上原の方へ向き直る。
「石井さんですが、今後の治療については、ヘパリン継続です。血栓回収後、循環は改善方向ですが、まだ再悪化の可能性はゼロではありません。人工呼吸管理は継続、鎮静は浅くしながら反応を見ます」 「大きな出血は今のところありませんが、不正出血背景があるので、凝固系と出血量は引き続き慎重に追います。呼吸状態、自発呼吸、血ガス、胸部所見を見ながら抜管時期を判断します」
「薬剤性も含めた神経症状、左右差、覚醒後の反応も確認していくことになります」
「以上です。村瀬さんからは?」
「はい」
村瀬が頷く。
「看護面では、吸引、体位変換、スキンケア、ライン管理、尿量確認、出血観察、鎮静下での反応確認が中心です。必要物品は向こうにも揃えます」 「専用区画は人の出入りが少ないぶん、記録と観察を落とさないことが重要です。ナースコールやモニター連動は本体とつながっていますが、対応の初動は基本的に入室者側が取る形になります」
「以上です」
芹沢が短く問う。
「何か質問は?」
上原は首を振った。
「大丈夫です」
佐山も
「ありません」
と答える。
実際には、ないわけではなかった。だが、今ここで問うべきことと、まだ胸の奥に沈めておくしかないことがある。
芹沢は小さく頷いてから、少しだけ空気を変えるように言った。
「じゃあ、改めて自己紹介しておきます。湾岸総合医療センターの芹沢恒一です」
「看護師長の村瀬慶子です」
村瀬が続ける。
上原も名乗った。
「ラクト・セラム医師の上原春菜です」
「ラクト・セラム看護師の佐山あかりです」
佐山が言う。
その名乗りのあと、ほんの短い間が落ちた。
芹沢が上原を見た。
「上原先生」
「はい」
「あまり自分を責めないでください」
上原はわずかに目を上げた。
「石井さんが命を繋げたのは、先生の判断があったからです」
言い方は静かだった。
慰めとして軽く流す感じではない。救命の人間が、本当にそこを見ていなければ言わない声だった。
上原は返事までに一拍かかった。
「……はい」
芹沢はそれ以上追わなかった。
追えば崩れると分かっている時の引き方だった。
「村瀬さん、薬と検査オーダーの説明、お願いします」
「わかりました」
村瀬が上原に向き直る。
上原もすぐにそちらへ意識を切り替えた。二人はオーダー端末のあるカウンター側へ歩いていく。
その背中が少し離れたところで、芹沢が低く言った。
「あかり」
佐山はその呼び方に、呼吸をひとつ止めた。
職場でも病院でもない、昔の距離の呼び方だった。
「やっぱり」
息を吐いた後に佐山は小さく言った。
「見覚えあると思った」
芹沢は苦く笑ったような顔をした。
「今回はどんな試験やってんだよ…、二十一歳の子に、あんな血栓ができるなんて」
ため息混じりではあったが、その言葉には、医師としての怒りがそのまま乗っていた。
佐山はすぐには答えられなかった。数秒遅れて、低く言う。
「一言で言えば、最悪」
「気丈に振る舞っているけど、試験を止められなかった上原先生も相当つらいと思う」
「まだ三十代半ばくらいか…」
芹沢は吐き捨てるように言った。
「したくもない経験させやがって」
佐山は唇を少し結んだ。
その言い方で、芹沢が怒っている対象が誰なのか、はっきり分かる。
「この件、内容によっては告発する」
芹沢が言う。
「え?」
佐山が顔を上げる。
「倫理観が腐ってる」
芹沢の声は低いが、はっきりしていた。
「当日から今まで、上原先生から申し送り受けてきたけど、雑さは全くない。担当医として今までちゃんと石井さんを診てきたんだろうって、すぐ分かった」
「試験記録も見たけど、倉持がやってる修正なんて、こっちが見ればすぐ分かる」
佐山は一瞬、息を詰めた。
「見たの?」
「見るよ」
芹沢は迷いなく答える。
「こっちは患者を受けてるんだ。必要な範囲の情報を見て、必要な違和感があれば拾う」
「だから、めちゃくちゃ腹立ってる」
その怒りは静かだった。
怒鳴るでもなく、荒ぶるでもない。ただ、線を越えたものを線越えだと認識した人間の怒りだった。
「何もできないつらさは、あかりも分かってるでしょ」
その一言に、佐山はすぐ返せなかった。
十二年前のことが、言葉になる前に体の奥で先に疼く。
何も出来なかった。
気づいたら終わっていた。
あの時、もう少し違う動き方ができたのではないかという後悔は、今も完全には消えていない。
「……分かってる」
ようやく佐山が言う。
芹沢は白衣のポケットから、小さく折ったメモを取り出した。
誰かに見られても、ただの申し送りの断片にしか見えないくらいの紙片だった。
「この件はこっちでも動く」
それだけ言って、佐山の手の中に押し込む。
佐山は反射的に握りこんだ。
「何これ」
「今は見るな」
芹沢が短く言う。
「あとで一人の時に見て」
その声の低さで、ただの連絡先や備忘ではないと分かった。
佐山は紙の感触を掌の中に閉じ込めたまま、芹沢を見る。
芹沢はほんのわずかに目を細めた。
「あかりも、決着つけな」
その言葉は強くなかった。
けれど、逃がしもしない言い方だった。
向こうでは村瀬が、薬剤オーダーと検査系の運用を上原に説明している。
彩佳のベッド周囲では、移送前の最終確認が進んでいた。
回路、ライン、薬剤、モニター、全部が次の区画へそのまま命を運ぶために整えられていく。
佐山は何も言わなかった。
言えなかったのではなく、今はまだ口にするには早いものが多すぎた。
ただ、握った手の中の紙だけが、熱を持ったみたいにそこにあった。
彩佳はまだ目を開けない。
人工呼吸器の音は規則的に続いている。
本体ICUの明るさは変わらない。
それでも、何かが少しだけ動き始めていた。
命を繋ぐための治療とは別の場所で、
見過ごされてきたものに名前をつけるための線が、静かに引かれ始めていた。




