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第15話 沈んでいく体

 搬送中のことを、彩佳はほとんど覚えていない。


 音だけが断片的に残っている。


 規則的な機械音。


 誰かの短い声。


 遠くないはずなのに、水の底から聞こえるみたいに鈍い。

 身体は重く、でも内側だけが妙に急いでいる感じがあった。

 苦しいはずなのに、その苦しさすら少しずつ輪郭を失っていく。

 どこかで誰かが名前を呼んだ気がした。


 彩佳さん。


 たぶん佐山だった。

 その声だけは、沈みきる寸前まで細く届いていた。


 その一方で、病院側は静かに早かった。

 湾岸総合高度医療センターの救急搬入口にストレッチャーが入った時点で、芹沢はすでに受け入れの最終確認に入っていた。


「二十一歳女性。胎盤模倣製剤試験中。急性呼吸循環不全、挿管済み。高リスクPE疑い」


 上原が歩きながら要点だけを渡す。

 酸素化不良。

 血圧低下。

 頻脈。

 左下肢症状。

 急変前からの経過。

 ガイア側での初期対応。

 昇圧開始。

 未分画ヘパリン導入を視野に置きつつ、ショック対応と搬送を優先したこと。


 芹沢は短く頷くだけだった。

 その場で余計な評価を挟まない。

 必要なことだけを拾い上げて、そのまま次の動きへつなげる。


「CT優先。心エコー同時。カテ室つなげておいて」


 受け入れ側のスタッフが一斉に動く。

 ストレッチャーの車輪が床を切る音。

 モニターの電子音。

 点滴ライン。

 指示の声。

 誰も慌てているわけではない。

 けれど一つ一つが速い。

 ここまで来ると、ガイアの急変初期対応室とは空気が違った。


 向こうが

「限界の中で繋ぐ場所」なら、

 こちらは

「根本治療へ入る場所」だった。


 CTの結果と心エコー所見は、予想を裏切らなかった。

 肺動脈の太いところにかかる血栓。

 右心負荷。

 循環の崩れ方。


 若年で既往リスクに乏しい身体に、あまりにも大きい異常。


 芹沢は画像を見たあと、数秒だけ無言だった。


 その無言の中に、医師としての怒りに近いものが混じったのを、横にいた佐山は感じ取った。


「カテーテル行く」


 短い決定だった。


「このまま集中管理。治療遅らせない」


 それがこの時点での最善だった。

 全身血栓溶解へ一気に振るより、侵襲的再灌流へつなぐ。

 助けられる可能性を、まだ落とさない判断。

 佐山はそこではじめて、小さく息を吐いた。

 安心ではない。


 ただ、繋がったというだけの呼吸だった。


 その頃、早苗はガイアの三階に残されていた。

 急変初期対応室の扉が閉まったあと、何が起きているのかを正確に知る手段はなかった。

 聞こえるのは、廊下を行き来する足音と、普段より低く抑えられた声だけだった。


 ラウンジのテレビは消されていた。

 空調の音ばかりがやけに大きく聞こえる。

 森下も大沢も、いつもとは違う顔で黙っていた。

 何かを言えば現実になる気がして、誰も余計なことを口にしない。

 でも沈黙だけが積もっていく。

 早苗は座っていられなかった。


 ラウンジと廊下のあいだを何度か往復する。

 何の役にも立たない動きだと分かっている。

 分かっていても、止まると頭の中に嫌な想像ばかりが増えた。


 清水が一度だけ戻ってきて、最低限の説明をした。

「搬送になりました。今、湾岸で受け入れています」

 その言葉に、早苗は反射的に訊く。


「助かるんですか」


 訊いた瞬間、それが一番困る質問だと分かった。

 でも他に聞きようがなかった。

 清水は少しだけ視線を落としてから答える。


「今できる最善にはつないでいます」


 それは誤魔化しではなかった。

 だからこそ苦しかった。


「……はい」


 早苗はそれ以上何も言えなかった。

 待つしかできない、ということは、こういうことなのだと思った。

 何かしたいのに、何も差し出せない。

 そばにいたのに、その先へは入れない。

 ラウンジの窓の外では、昼の光が白く広がっていた。

 倉庫群の向こうを、車の流れだけが何事もないみたいに続いている。

 世界は普通に進んでいる。

 それが、妙に腹立たしかった。

 湾岸総合高度医療センターでは、治療が始まっていた。

 カテーテル室の光は明るすぎるくらい明るい。

 そこに横たわる彩佳は、もう自分の身体を自分のものとして保てていない。

 鎮静下。

 挿管。

 人工換気。

 ルート。

 モニター。

 画面の中に映る血管の像。


 芹沢はそこでも静かだった。

 怒鳴らない。

 感情を出しすぎない。

 だが指示は鋭く、無駄がない。

 この場にいる人間に必要なのは、怒りではなく、手を止めないことだと知っている人の動きだった。 


 上原はカテ室の外で結果を待ちながら、壁に寄りかかることもなく立っていた。

 手元には、ガイアでの経過メモと搬送時要約がある。


 頭の中では、四週目の歩き方から今ここまでが、一本の線として繋がっていた。


 もっと早く止められなかったのか。

 その問いを、今はまだ自分に向けない。

 ここで崩れるわけにはいかないからだ。


 佐山は少し離れた場所で、ようやく手の震えに気づいた。

 小さく、でも確かに震えている。

 廊下で彩佳を支えた時にはなかった。

 急変初期対応室で挿管介助に入っている間も出なかった。

 全部が一段ついたあとで、遅れて身体に来たのだと分かった。


「大丈夫ですか」


 芹沢の声がした。

 振り返ると、処置の合間に一度だけ外へ出てきていた。


「大丈夫じゃないです」


 佐山は素直に答えた。

 芹沢はほんの少しだけ口元を動かした。

 笑ったわけではない。

 でも、その正直さを否定しない顔だった。


「そうでしょうね」


「そっちは」


「まだ何とも言えない」


 その返答も正直だった。

 だから信じられた。


「でも、ここまでつないだのは正しいです」


 佐山は何も返さなかった。

 正しい、という言葉が救いになるほど、まだ余裕がなかった。

 治療が終わるまでの時間は、長かったのか短かったのか分からない。

 時計を見た記憶はある。

 けれど数字が頭に入ってこない。

 待っている人間にとっての時間は、たいていそういうものだった。


「血栓は取れました」


 芹沢のその一言で、上原はようやく息を吐いた。

 細く、長く。


「ただ、ここからです」


 芹沢が続ける。


「循環はまだ不安定です。ICUで集中管理に入ります」


「はい」


 上原の返事は短かった。

 でも、その短さの中に今の現実をすべて受け入れる重さがあった。

 助かった、ではない。

 まだ戻ってきていない。

 ただ、切れかけていた線が一本つながった。

 いまはその段階だ。


 ICUへ移る前、佐山は一瞬だけ彩佳の顔を見た。

 鎮静下で目は閉じている。


 口元にはチューブ。

 肌はまだ白い。

 でも、急変直後の“今にもどこかへ落ちていく感じ”は少しだけ遠のいていた。

 その変化に、救われたような気持ちにはならなかった。


 ただ、間に合ったのだと思った。


 間に合わないまま終わった十二年前とは、まだ違う場所にいる。

 そのことだけが、身体の奥に重く沈んだ。


 三階へ連絡が入ったのは、その少しあとだった。

 搬送先で治療に入ったこと。

 血栓回収まで繋がったこと。

 ただし状態はまだ重いこと。

 面会はできないこと。

 説明を受けながら、早苗は手を強く握りしめていた。

 爪が食い込むくらい握って、ようやく立っている。


「取れたって……助かったってことですか」


 もう一度そう訊いた時、自分の声が少し掠れているのが分かった。

 上原からの電話を切った清水は、慎重に言葉を選んだ。


「まだ予断はないです」


 その一拍のあとで、続ける。


「でも、繋がったのは確かです」


 それは希望と言っていいのか、まだ分からない。

 でも絶望ではない言葉だった。


 早苗はその場で座り込みそうになるのを堪えた。

 隣で森下が小さく息を呑む。


 大沢が何か言いかけて、でも言葉にならずに黙る。

 ラウンジの窓の外では、もう夕方へ向かう光が少し傾き始めていた。


 高架道路の影が長く伸びて、水面の色が朝より少しだけ鈍くなっている。


 世界はまだ続いている。

 彩佳の時間も、たぶんまだ続いている。

 そのことだけを、早苗は繰り返し胸の中で言い直した。


 届かない場所へ行ってしまったと思った。

 でも、まだ完全に向こう岸へ渡ったわけじゃない。

 そう思わなければ、ここで息ができなかった。

 夜、湾岸総合高度医療センターのICUは静かだった。

 静かというより、必要な音しかない。

 人工呼吸器。

 モニター。

 微かな足音。

 明るすぎる照明。

 その中で彩佳は深く沈んでいた。

 身体から苦しさがなくなったわけではない。

 ただ、それを自分で支えるところから一度外されている。


 意識は遠く、水の底みたいな暗さの中にある。

 夢を見るにはまだ深すぎる。


 そして、現実へ戻るにも遠すぎる。

 そんなあわいの中で、彩佳はゆっくりと沈み続けていた

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