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第12話 選択肢

 四週目の半ばに入るころには、三階被験者臨床フロアの空気そのものが少し変わっていた。


 誰かが何かを口にしたわけではない。

 警報が鳴るわけでもない。


 それでも、長く同じ場所にいる人間ほど、こういう変化には敏感になる。


 朝の足音が少し慎重になる。

 スタッフステーションで交わされる短い確認が増える。

 観察室の扉が、前より少し長く閉まる。

 何かが、もう“よくある副作用”の線からはみ出しかけている。


 六時四十分、301の扉が開いた。


 彩佳は扉の前で一度だけ立ち止まり、それから廊下へ出た。

 出られないわけではない。

 歩けないわけでもない。


 ただ、動き始めるまでに身体の中で何かを整える時間が必要になっていた。


 左脚の奥が重い。

 胸の内側に、言葉にしにくい圧みたいなものがある。

 呼吸はできている。

 でも、深く吸おうとすると少しだけ引っかかる。

 隣の302から早苗が出てきて、彩佳を見るなり眉を寄せた。


「今日、かなり悪い」


「朝だから」


「その返し、もう禁止」


 早苗は即座に言った。

 その声音に、もう遠慮はなかった。

 心配を通り越して、苛立ちに近い切迫がある。


「歩ける?」


「歩けるよ」


「普通に?」


 彩佳は答えなかった。


 答えないこと自体が答えになってしまう。

 洗面へ向かう短い廊下で、彩佳は二度、足を止めかけた。


 完全には止まらない。


 だが歩幅が整わない。


 その一拍の遅れを、スタッフステーションから佐山が見ていた。

 もう駄目だ、と佐山は思った。


 “まだこちら側”と言える段階を、現場の感覚ではかなり越えている。


 七時過ぎ、スタッフステーションの奥で、上原は最新の採血結果を見ていた。

 画面の数値を一つずつ追う。


 決定打になるほどの派手な数字ではない。

 だが、だからこそ腹立たしかった。


 D-dimerは前より上がっている。

 凝固系も嫌な方向に触れている。

 症状の揃い方と合わせると、もう疑うには十分だった。


「先生」


 佐山が低い声で呼ぶ。


「石井さん、朝からかなり悪いです」


「見ました」

 上原は端末から目を離さず答えた。

「今日、相原さんと話します」


 その一言で、佐山の目が少しだけ鋭くなる。


「止める方向で?」


「少なくとも、医療優先を通します」


 八時の朝食は、食事の時間というより確認の時間になっていた。


 彩佳はラウンジの椅子に座るまでに少し時間がかかった。


 森下は最初から食欲がなく、トレイの前でほとんど手が止まっている。


 大沢は緊張したまま、それでも“普通に食べる”を続けている。


 早苗だけが、自分の食事を機械みたいに進めながら、他の三人を見ていた。


「彩佳」


 早苗が低く言う。


「今日、絶対言って」


「何を」


「全部」


 その“全部”には、息苦しさも、脚の張りも、胸の重さも含まれていた。


 彩佳は少しだけ目を伏せる。

「言ってるよ」


「軽くしてる」


「そんなこと」


「ある」


 ぴしゃりと言われ、彩佳は返せなかった。


 少し離れた席で、森下が急に立ち上がった。

 吐きに行くのかと思うほどの勢いだったが、その場でテーブルの端を掴んで止まる。

 清水がすぐ寄る。


「森下さん、座ってください」


「……すみません」


「今、吐き気?」


 森下は頷く。

 清水はそのまま腕を支え、椅子へ戻した。

 ラウンジの空気が張る。

 だが観察スタッフは、すぐに“対応済み”の顔へ戻る。


 それがこの場所の怖さだった。

 何が起きても、処理できる範囲の出来事みたいに整えられていく。


 九時の問診は、ほとんど最初から緊張を含んでいた。

 上原は彩佳が座る前から、いつもより一歩近い位置で見ていた。

 顔色。

 呼吸の浅さ。

 返事までのわずかな間。

 椅子へ腰を下ろす時、左へ体重を乗せるのを少し嫌がる感じ。


「石井さん、今日は順番に確認します」


「はい」


「息切れは」


「あります」


「昨日より」


「……増えてます」


「歩行時だけ?」


「歩くと分かりやすいです」


「座っていても胸の重さはある?」


 彩佳は少し迷ってから頷いた。


「時々」


「左脚の張りは」


「ずっとあります」


「痛みは」


「痛いっていうより、張る感じ」


「立つと悪くなる?」


「はい」


「冷汗、ふらつき」


「……少し」


 上原はそこでメモを止めた。


「石井さん」


 声が少しだけ低くなる。


「今日は、処置の前に歩行を見ます」


「はい」


「そのあと、こちらの判断を二階へ上げます」


 彩佳は顔を上げた。


「二階?」


「責任者判断が必要です」


 もう曖昧な段階ではない、という意味だった。


 同じ頃、森下の問診も悪かった。

 吐き気。

 頭痛。

 情緒の揺れ。

 継続拒否に近い言葉。

 それでも運用の言葉へ載せると“経過観察下で継続可能”へ寄せられる余地が残る。


 上原はそれを腹の底で理解しながら、なお今日は先に進まなければならなかった。


 彩佳の方が、先に危険域へ入っている。

 九時四十分、メイン廊下での歩行確認は数十歩で終わった。

 観察室前から個室列の半ばまで。

 それだけの距離。

 だが彩佳は途中で明らかに呼吸が浅くなり、歩幅が崩れた。


「止まりましょう」


 上原が言うより早く、佐山が横へつく。

 彩佳は壁に手をつき、二度ほど空気を押し込むみたいに息を吸った。


「……すみません」


「謝らなくていいの」


 佐山の声は短い。

 もう余裕がないことはわかる。


 上原はその場で決めた。


「二階へ行きます」


 十時前、二階の小会議室に呼ばれたのは、相原俊成、倉持慶子、滝沢康一郎だった。

 ラクト側からは上原、河合、佐山。

 会議室の空調はよく効いていて、机の上の資料だけが妙に白く見えた。

 相原は着席したまま、先に口を開かなかった。

 上原が切り出すのを待っている顔だった。


「石井さんの継続は危険です」


 上原は最初から言い切った。

「PE(肺塞栓症)とVTE(静脈血栓塞栓症)を、臨床的にはかなり強く疑っています」


 倉持の指先が資料の端で一度止まる。

 滝沢は小さく息を飲んだ。

 相原だけが、表情を変えなかった。


「根拠は」


「左脚優位の張りと浮腫、歩行時の息切れ増悪、動悸、胸部不快感、午後の落ち込み、D-dimer上昇傾向」


「確定ではない」


「はい、確定ではありません」

 上原は即答した。

「ですが、現場で待てる段階ではないと判断しています」


相原が一拍置いて言う


「なら、抗凝固へ踏み切る判断では」


 上原は相原を真っ直ぐ見た。


「視野には入れています」


 その声は静かだった。


「ただ、ここで欲しいのは“研究センター内での曖昧な様子見”でも、“雑な治療量抗凝固”でもありません」


 会議室の空気が少し張る。


「石井さんは、もう急変してもおかしくない段階です。必要なのは、急変時にすぐ医療側判断で気道・循環管理へ入り、そのまま外部高度医療機関へつなげる体制です」


 佐山が続ける。


「今ほしいのは、止めるか続けるかの言葉遊びじゃない。落ちた時に間に合わせる準備です」


 相原はそこで初めて、静かに息をついた。


「五十二人、うち十人」


 唐突に置かれた数字に、上原と佐山は一瞬だけ顔を上げる。


「……何の数字ですか」


 上原が問う。

 相原の声は、相変わらず穏やかだった。


「昨日の国内死者数です」


 数秒の沈黙が落ちる。


「五十二人。うち十人は十八から三十歳、基礎疾患のない人間です」


 会議室の空気がひやりと冷える。

 相原は続けた。


「増減はありますが、全体としては増加傾向にある。対策を急ぐ以外の選択肢は多くありません」


 その言葉は脅しではなかった。

 本気でそう考えている人間の声だった。


「危険性は承知しています」


 相原は言う。


「ただ、状況はそれ以上に切迫している。誰かがやらなければならない」


 佐山の奥歯がきしむように噛み合う。


「誰かって」

 声が低くなる。

「“誰か”って、いつも現場じゃないですか」


 相原はその言葉にも声を荒げない。


「ガイアの中にも家族を失った人間はいます」


「だからって」


 佐山が言いかけたところで、上原が静かに遮った。


「なら、条件があります」


 相原が視線を向ける。


「石井さんの継続如何にかかわらず、急変時は我々の判断で処置に入ります」


 上原の声は低かったが、はっきりしていた。


「研究側判断を待たない。医療優先で動きます」


 会議室の空気がもう一段張る。


「加えて、三階の急変初期対応室に足りない機器を入れてください」


 上原は続ける。


「酸素投与の強化、気道確保器材、昇圧対応、循環監視、搬送前提の処置準備。いまの設備では足りません」


 河合も静かに言う。


「少なくとも、重症化を想定した初期対応セットは必要です」


 相原は数秒黙った。

 その沈黙は、迷いというより計算に近かった。


「倉持さん」


「はい」


「必要物品の確認を」

 相原は言った。

「今日中に三階へ入れてください」


 倉持が頷く。


「分かりました」


 佐山はそのやり取りを見ながら、完全に納得したわけではなかった。

 止めない。

 だが準備はさせる。

 それがこの人間の譲歩なのだと思うと、余計に冷たく感じる。


 会議が終わり、二階の廊下へ出たところで、佐山が低く吐き出した。


「止めないんですね」


 上原はすぐには答えなかった。

 窓のない廊下の白い壁を一度見て、それから言う。


「止めるとは言わないでしょう」


「分かってましたけど」

 佐山は短く息を吐く。

「分かってても腹が立ちます」


「私もです」

 上原は静かに言った。

「だから準備を先にします」


「先生、抗凝固は」


 佐山が問う。

 上原は足を止めた。


「考えています」

 即答だった。


「でも今の石井さんは、薬を入れるかどうかだけの問題じゃない。呼吸も循環も崩れかけている」


 一拍置く。


「ここで中途半端に走らせるより、急変時に落とさず外へつなぐ体制を先に固めます」


 佐山は短く頷いた。


「分かりました」


 十一時前、三階の急変初期対応室には追加機材が運び込まれ始めた。


 酸素供給ラインの確認。

 吸引。

 気道確保器材。

 ルート確保物品。

 昇圧薬。

 ポータブルモニター。

 搬送導線の最終確認。

 処置室と急変初期対応室を何度も行き来しながら、清水が必要物品を揃えていく。

 佐山は一つ一つの位置を確認し、実際に手に取って順番を頭へ入れる。

 河合は薬剤と背景整理。

 上原は搬送先との連絡基準まで詰め始めていた。

 被験者フロアの外から見れば、少し慌ただしいだけに見えるかもしれない。

 だが中で動いている人間には分かる。

 これは通常準備ではない。

 急変前提の準備だ。


 その頃、ラウンジでは早苗が落ち着かない様子で廊下の向こうを見ていた。

 彩佳は個室に戻され、少し休むよう言われている。

 森下も個室で横になっているはずだ。

 それでも、何かがもういつもと違う。

 倉持がスタッフへ指示を出しながら通り過ぎる。

 観察スタッフの足が速い。

 処置室の扉が開閉する音が増える。


「……何かある」


 早苗が小さく呟く。

 その時、佐山がラウンジへ入ってきた。


「高橋さん」


「はい」


「頭痛はまだ続いてますか?」


頭痛は続いているが、動けないわけではない。

今の慌ただしさから、佐山の言葉の意味は直ぐに理解できた。


「彩佳ですか?」


「出来る範囲で良いので、そばにいて下さい」


 その言葉に、早苗の顔色が変わる。


「そんなに悪いんですか」


 佐山は一瞬だけ迷ったが、曖昧にはしなかった。

「かなり気にしてる」


 それだけで十分だった。


 昼過ぎ、301の個室では、彩佳がベッドに浅く腰掛けていた。

 午前中に動いた分だけ、もう身体の奥が重い。

 脚の張りも、胸の重さも消えない。

 それでも倒れてはいない。

 意識もはっきりしている。

 だから余計に、自分でも危険の輪郭がつかみにくい。

 ノックのあと、佐山が入ってきた。


「……大丈夫ですか」


 問いの形はしていたが、声はほとんど確認だった。


「まだ…」


「“まだ”ね」


 佐山はベッド脇の椅子に座る。


「石井さん」


「はい」


「今日は、少しでもいつもと違ったらすぐ言って」


 彩佳は頷く。


「言ってるつもりです」


「足りない」


 きっぱり言われ、彩佳は少し黙った。

 その沈黙のあとで、やっと小さく言う。


「……胸が、時々少し重いです」


 佐山の表情が硬くなる。

「いつから」


「昨日から、少し」


「息は」


「歩くと上がります」


「脚は」


「左がずっと張ってます」


 佐山は数秒黙ったあと、立ち上がった。

「上原先生呼びます」


 その後ろ姿を見送りながら、彩佳はふと窓の外を見た。

 湾岸の空は曇っていて、光が平たかった。

 遠くに見える道路を、小さな車が流れていく。


 外では、五十二人が死んで、十人は若くて、それでも今日は普通に昼が来ている。

 相原の言葉を、彩佳はまだ知らない。


 でも、その数字の冷たさだけは、どこかで自分の中にも似た形で入り込んでいた。


 もし足りなかったら。

 もし遅かったら。


 その思いが、自分の身体をどこまで差し出させるのか、まだ自分でも分からなかった。


 午後の光が少しずつ傾いていく。

 三階のフロアは相変わらず整っていて、規則正しい生活時間を保っているように見えた。


 だがその内側では、もう誰も“普通の四週目”だとは思っていなかった。


 数字は外でも増え続けている。

 施設の中でも危険は濃くなっている。

 それでも試験はまだ止まらない。


 選択肢が少ない、という言葉は便利だった。

 便利すぎるから、誰か一人の身体をその少なさの中へ押し込んでしまう。


 そして今、彩佳の身体は、その押し込まれた先で静かに限界へ近づいていた

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