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第11話 まだこちら側

 四週目に入るころには、彩佳の身体はもう“持っているように見える時間”と“明らかに落ちる時間”がはっきり分かれ始めていた。


 朝はまだ比較的ましだった。


 それが余計に厄介だった。

 起き上がるまでに少し時間はかかる。

 脚の重さも残っている。

 息も深くは吸いにくい。

 それでも、起きて、顔を洗って、歩いて、返事をして、朝食の席まで行ける。


 だから、研究側にはまだ“進められる”ように見える。

 だから、本人もまだ“何とかなる”と思ってしまう。


 六時半過ぎ、301の扉が開いた。

 彩佳はいつもより少しゆっくりした動きで廊下へ出た。

 扉を閉める。


 その一拍の遅さを、向かいのスタッフステーションから佐山が見ていた。


 歩幅が狭い。

 左に乗る時だけ、ほんのわずかに慎重になる。


 呼吸は乱れていない。

 だが“乱れていないように見せている”感じがある。


 隣の部屋から出てきた早苗も、同じものを見ていた。


「起きた?」


 早苗が声をかける。


「うん」


「脚、どう」


「重い」


 今日は最初から、それを隠さなかった。

 そのことに、逆に早苗は嫌な感じを覚える。


「左?」


「……左の方が」


 洗面へ向かう短い廊下で、彩佳は二度、呼吸を整えるみたいに少しだけ口を閉じて息を押し込むような仕草をした。

大きく息が上がっているわけではない。

だからこそ見逃されやすい。

だが、もう早苗も佐山も、その種類の変化を見逃す段階ではなかった。

 朝食のラウンジでは、四人の空気の差がさらに広がっていた。


 大沢は疲れてはいても、まだ“安定して継続している被験者”に見える。


 森下は座った時点で顔色が悪く、トレイに手をつける前から表情が沈んでいる。


 早苗は自分の頭痛やだるさを後回しにして、他人を見る方へ意識が向いている。


 彩佳は、静かだった。


 静かすぎる、と佐山は思う。


「石井さん」


 ラウンジの端で声をかける。


「はい」


「朝、息苦しさは」


「少し」


「少し、ね」


 佐山はそれ以上その場では言わなかった。

 だが声の温度が、もう日常の確認ではなかった。

 九時の問診で、上原は最初から採血項目を増やしていた。

 D-dimer。

 凝固系。

 必要なら追加評価。

 少なくとも今朝は、“いつもの確認”ではない。


「石井さん、息切れは」


「あります」


「昨日より」


「……増えてると思います」


「歩いた時?」


「歩いた時が分かりやすいです」 


「座ってる時は」


 彩佳は少し考えた。

「たまに、胸の奥が重い感じがします」


「痛みではない?」


「痛い、とは違います」


「動悸は」


「あります」


「脚は」


「左が張ります」


「ふくらはぎ寄り?」


「はい」


 上原は記録しながら、一度だけ視線を上げた。


「石井さん、今日このあと歩行の様子も見ます」


「はい」


 返事は素直だった。

 だが、その素直さが安心材料にならないことを、上原はもう知っていた。


 その後に入った森下の問診は、別の意味で嫌だった。

「吐き気は」


「あります」


「頭痛」


「あります」


「不安感は」


「あります」


「継続は」


 森下はそこで黙った。

 数秒置いてから、ようやく言う。


「……したくないです」


 観察室の空気が少しだけ変わる。

 河合が静かに聞き返す。


「身体がつらいから?」


「それもあるし」


 森下は膝の上で手を握った。


「なんか、これ以上やるの、嫌です」


 はっきりした拒否だった。


 だが、その拒否もこの場所ではそのままの形では残らない。

 上原は答えを急がせなかった。

 森下がやっと口にしたものを、少なくとも自分たちの前では薄めたくなかったからだ。

 ただ、二階へ上がる運用上の要約では、どうせ別の文言になるのだろうと思う。

 “継続拒否”ではなく、

 “情緒不安定”

 “導入期の心理的不安”

 そういう処理しやすい言葉へ。

 午前の処置に入る前、上原は佐山と河合をスタッフステーションの奥へ呼んだ。


「石井さんは、かなり嫌です」


 開口一番、そう言った。

 河合が短く頷く。


「私もそう思います」


「症状の揃い方が、もう単純なホルモン負荷の副作用では説明しきれない」


 上原は社内端末に表示した一覧を見せる。


「左脚優位の張り、歩行時の息切れ、動悸、胸部不快感。午後の落ち込みも強い」


 佐山が低く言う。


「PE(肺塞栓症)かVTE(静脈血栓塞栓症)、ですよね」


「かなり疑っています」

 上原は即答した。

「まだ画像も確定もない。けれど、疑うには十分です」


「じゃあ、もう抗凝固ですか」

 佐山が訊く。


 上原は短く首を振った。


「考えていないわけじゃありません。むしろかなり考えています」


 一拍置いて、低く続ける。


「ただ、今の段階だと症状が高ホルモン負荷の副作用ともまだ重なる。D-dimerも嫌な上がり方ですが、これだけで研究センター内で治療量抗凝固に踏み切るには弱い」


「でも、かなり怪しい」


「ええ。だから嫌なんです」

 上原は言った。

「しかも、ここは病院本体じゃない。研究センター内で雑に治療量ヘパリンを走らせるより、急変時にすぐ気道、循環、搬送へ切り替えられる形を先に整えたい」


 佐山は黙って聞いていたが、やがて低く言う。


「つまり、今は止める準備と落ちた時の準備を両方やる」

「そうです」


 河合も静かに言う。


「森下さんも、継続困難に寄ってるのに」


「ええ」


 上原は頷く。


「石井さんは成功例として押し上げられ、森下さんは脱落例にしたくないから軽くされる」


 佐山の表情がさらに硬くなる。


「B群そのものを成立させたいんですね」


「そう見えます」


 午前の投与と観察が始まると、その構図はもっと露骨になった。


 彩佳の数字は、やはり良かった。

 搾乳量も。

 反応性も。

 高田が見ている四階の画面では、石井彩佳の名前は“有望なB群個体”として読める。

 その一方で、観察室から研究用搾乳室へ移るだけの短い距離で、彩佳ははっきり息が浅くなった。


「石井さん、止まりましょう」


 佐山が言う。


「……大丈夫です」


「大丈夫じゃない」


 今度は少し強かった。

 彩佳はその場で立ち止まり、左脚をかばうように体重をずらす。


 壁に手をつくほどではない。

 だが、つかないように踏ん張っている感じがある。

 それを、ラウンジの入り口から早苗が見ていた。

 もう確信だった。

 これは放っていいものじゃない。

 研究用搾乳室では、野上が相変わらず端末を見ていた。


「石井さん、今日も反応いいですね」


 その一言に、彩佳の目がほんの少しだけ揺れる。

 嬉しいのではない。

 安心してしまうのだ。

 まだ出る。

 まだ役に立つ。

 その感覚が、身体の危険を一瞬だけ遠ざける。


 森下は逆だった。

 チェアに座る前から顔色が悪く、途中で二度、目を閉じた。


「森下さん、継続できますか」


 野上が訊く。

 またその質問だと、佐山は思う。

 森下は唇を湿らせてから言った。


「……分かりません」


 その返答に、野上は困ったような顔をしたが、記録端末に何かを入力するだけだった。

 “継続困難”と打ったかどうかは、ここからでは見えない。

 ただ、後で上がる要約では別の文言に変わるだろうという確信だけがあった。


 昼食の時間、彩佳は窓際の席に座ったまま、しばらくスプーンを動かせなかった。


「食べられる?」


 早苗が訊く。


「……食べる」


「そうじゃなくて」


 早苗は声を落とした。


「今、息変だった」


「大丈夫」


「その返し禁止」


 彩佳は小さく笑おうとした。

 だが笑う前に少し息が乱れ、結局視線を落とすだけになる。

 少し離れた席で、森下が急に立ち上がった。

 吐きに行くのかと思うほどの勢いだったが、結局その場で足を止め、口元を押さえる。

 清水がすぐに寄る。


「森下さん、座って」


「……すみません」


「大丈夫です、じゃなくて、今の感じを言って」


 清水のその言い方だけが、この場所ではまだ少し救いに近かった。

 午後前半、彩佳の落ち込みはさらに分かりやすくなった。

 朝は持っていた。

 だが十四時を過ぎるころには、会話の途中で呼吸が乱れ、立ち上がる時に一度動きが止まる。

 観察室から個室へ戻る途中、今度ははっきり壁に手をついた。


「石井さん」


 佐山がすぐ横へつく。


「座りましょう」


「……すみません」


「謝らなくていい」


 その声は低く、短い。

 もう慰める段階ではない。

 処置室へ移したあと、上原はすぐに血圧と酸素化を確認した。

 この時点ではまだ、決定的な崩れではない。

 それでも“危ない方向へ傾いている身体”の感じが、あまりにも強い。


「先生」


 佐山が低く言う。


「もう待てません」


 上原は一瞬だけ目を閉じた。


「分かっています」


「抗凝固を考えてるなら、もう準備だけでも」


「準備はします」


 上原ははっきり言った。


「ただ、今ここで雑に入れるより、急変時に即動ける形を先に整えたい」


 佐山は黙って頷いた。

 上原が何もしていないのではなく、むしろ先の最悪を見て動き始めていることは分かる。


「ICU対応室、もう一度確認します」


「お願いします」


「酸素、ルート、昇圧、搬送導線も」


「全部詰めましょう」


 その会話は、もう試験継続中の通常対応ではなかった。

 急変前提の準備だった。

 同じ頃、四階の解析室では高田がデータと要約ログを見比べていた。


 石井彩佳。

 反応性良好。

 供給見込み高。

 自覚症状は増えているが、要約は比較的整っている。


 森下紗希。

 自由記載では不安感、吐き気、継続拒否に近い言葉まである。

 だが承認後のログでは、“導入期に伴う情緒変動”“軽度悪心、経過観察下で継続”へ寄っている。

 高田はそこで初めて、違和感を“処理の方向”として意識した。

 石井さんは危険所見が軽くなっている。

 森下さんは継続困難所見が軽くなっている。

 方向は違うのに、結果は同じだ。

 B群が成立しているように見える。


 その夜、二階の確認の場で、上原はついに言葉を選ばなかった。


「石井さんはかなり危ないです」


 相原は静かに視線を上げる。

「“かなり”の定義は」


「現場の医師として、急変を具体的に想定する段階です」


 会議室の空気が一段沈む。

 佐山も続けた。


「歩行で息が上がる。左を庇う。午後に落ちる。もう普通じゃない」


 相原は沈黙のあと、穏やかな声で言った。

「現時点で中止基準を明確に満たしたわけではありません」


 やはりそこへ戻る。

 だが今日は、昨日までよりもその言葉が薄く聞こえた。

 上原にも、佐山にも、もう紙の上の話ではなくなっているからだ。


「明日、もう一度話します」


 上原が低く言う。

「その時には、こちらの要求もはっきり出します」


 相原は何も答えなかった。

 否定もしない。

 止めるとも言わない。

 会議が終わったあと、二階の廊下で佐山が言う。


「先生、明日は押します」


「ええ」


「もう“まだこちら側”って言葉、使いたくないです」


 上原は少しだけ疲れた顔で頷いた。


「私もです」


 三階へ戻ると、夜のフロアはまた静かだった。

 彩佳は自室のベッドで横になっていた。


 左脚の張りは、今日はもう一日中消えなかった。

 胸の奥も、時々はっきり重くなる。

 けれど、数字は今日も悪くなかった。

 そこがいちばん嫌だった。

 身体は危険へ近づいている。


 なのに数字は、むしろ“続けられる理由”として積み上がっていく。


 まだ急変ではない。

 まだ崩れ落ちていない。


 だから、紙の上ではまだこちら側に置ける。


 けれど現場では、もう十分近かった。

 越えてはいけない線の直前は、案外静かだ。


 大きな音もなく、派手な警報も鳴らず、ただ少しずつ身体の方が先に答えを出し始める。

 そして今、彩佳の身体はもう、その答えにかなり近いところまで来ていた。

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