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第10話 揃っていく徴候

 数字は、きれいだった。


 四階の解析室で高田真也がモニターを開くたび、石井彩佳の欄だけが静かに右肩へ伸びていく。


 搾乳量。

 sIgA濃度。

 供給安定性の予測値。


 B群の中でも、彩佳のデータは目を引いた。

 その隣で、森下紗希の欄も数字だけを見れば“維持”されていた。

 極端な落ち込みはない。

 脱落例にするほど悪くはない。

 そう読める形に、少なくとも画面の上では整えられている。

 それが高田には少し不自然だった。


 研究の側から見れば、B群は成立しつつある。

 現場の身体から見れば、明らかに無理が出ている。


 その二つが同時に進む時、後回しにされやすいのはたいてい身体の方だった。


 二週目の終わり、

彩佳の不調はもう“なんとなく”ではなくなっていた。


 朝の時点で身体が重い。

 乳房の張りははっきり増している。

 脚のむくみが抜けにくい。

 少し歩くと息が浅くなる。

 体重増加感があって、下半身だけが自分の身体じゃないみたいに鈍い。

 それでも倒れない。

 会話はできる。

 数値もまだ決定的ではない。

 だからこそ、全部が“継続可能”の側へ押し込まれていく。

 朝、共有ラウンジで、彩佳はトレイを持ったままほんの一瞬立ち止まった。

 座る場所を探していただけとも言える。

 けれどその動きの遅さを、早苗は見ていた。


「こっち」


 早苗が先に椅子を引く。


 彩佳は小さく「ありがと」と言って座った。


 それだけのことだった。

 それだけなのに、早苗は朝から胸の奥がざわついていた。


「食べられそう?」


 小さく訊く。

「うん、たぶん」


「たぶんね」


「ちょっと張ってるだけ」


「どこが」


 彩佳は一瞬だけ目を逸らした。

「……全体的に」


 早苗はスプーンを置いた。


「彩佳」


「うん」


「今日、朝から遅いよ」


「何が?」


「全部」


 その一言に、彩佳は少しだけ苦笑した。

「そんなことないよ」


「ある」

 早苗はきっぱり言う。

「返事も、動きも、トレイ持つのも」


 彩佳は否定しなかった。

 否定しなかったこと自体が、少し前ならなかった変化だった。


 少し離れた席で、森下はヨーグルトの蓋を開けたまま手を止めていた。


 気持ち悪いのか、食べたくないのか、自分でもうまく切り分けられない顔をしている。


「森下さん、大丈夫?」

 大沢が小さく訊く。


「……大丈夫じゃないかも」

 森下は苦く笑った。

「でも、これくらいで言ってもって感じするし」


 その言葉を、早苗は聞いた。

 そして、そういう空気にもうなっているのだと理解した。

 しんどい。

 でも、これくらいで止まる流れじゃない。

 だから軽く言うしかない。


 九時の問診で、上原は先週よりも細かく項目を拾った。


「頭痛は」


「あります」


「息切れは」


「前よりは、あるかもです」


「動悸」


「あります」


「脚の違和感は」


 彩佳は少し考えてから答えた。

「重いです」


「両方?」


「……左の方が」


 上原の手元のメモが一度止まる。


「痛みは」


「痛いっていうより、張る感じです」


「歩くと変わる?」


「歩くと余計に分かります」


 上原は短く頷いた。

 まだ決定打ではない。

 だが、揃い方が良くない。


 乳房緊満。

 体重増加感。

 下肢の重さ。

 息切れ。

 左脚優位の張り。


 試験計画書の「注意喚起所見」に近づく単語が、少しずつ現実の身体の側へ寄ってきている。


 隣の面談室では、森下の問診が続いていた。


「吐き気は」


「あります」


「頭痛」


「あります」


「不安感は」


 森下は少し黙ってから答えた。

「……強いです」


「継続はできますか」

 その問いに、森下は唇を噛んだ。

「……分かりません」


 河合はその返答をそのまま受け取った。


 だが、二階へ上がる運用要約では、おそらく違う言葉になるだろうと上原は思った。


 “継続困難”ではなく、

 “導入期に伴う情緒変動”

 “経過観察下で継続可”

 そういう、もう少し薄い言葉に。


 診察室を出たあと、上原はスタッフステーションで佐山に低く言った。


「石井さん、左が気になります」


「やっぱり」

 佐山は即座に返す。

「朝の歩き方も変でした」


「採血、追加で回します。D-dimerも」

 佐山は個室列の方を見た。


「森下さんも、かなりきつそうです」


「ええ」


 上原は短く答える。

「ただ、あちらは“不安定さ”として処理されやすい」


「石井さんは成功例寄り、森下さんは脱落させたくない方の処理ですね」


 佐山の言葉に、上原は少しだけ目を伏せた。


「そう見えます」


 午前の処置が始まる頃には、B群の負荷の差が目に見える形で出始めていた。


 森下は不安を隠しきれなくなっていた。

 吐き気。

 頭痛。

 むくみ。

 気持ちの揺れ。

 何かおかしいと思うことを、自分の中でそのまま怖がれる人間だった。


 一方の彩佳は、しんどさを“まだ説明しにくいもの”として抱え込む。

 胸の奥が重い。

 息が浅い。

 脚が重い。

 でも、仕事ができないほどじゃない。歩けないほどじゃない。

だから大丈夫だと思おうとする。

 研究用搾乳室での反応は、その認識をさらに悪くした。

 記録端末の数値が、明らかに伸びていたからだ。


「石井さん、かなりいいですね」


 野上がモニターを見ながら言う。


「昨日比でも伸びてます。B群の中でも反応が早い」


 その言葉に悪意はない。

 ただ数字を読んでいるだけだ。

 だが彩佳にとっては、それだけで十分だった。

 しんどくても、意味はある。

 きつくても、ちゃんと出ている。

 その感覚が、身体の不調を少しだけ黙らせる。

 少し離れたチェアの森下は、セッションの途中で一度だけ目を閉じた。

 明らかに気分が悪そうだったが、野上は端末を見ながら事務的に言う。


「続けられそうですか」


 森下は返事までに少し時間がかかった。

「……たぶん」


 その“たぶん”が、この場ではもう十分な返答として扱われる。

 ガラス越しのブースで、高田は画面の数字と二人本人の様子を見比べていた。


 石井彩佳は、数字が良すぎる。

 森下紗希は、見た目の揺れの割にログが静かすぎる。


 まだ言語化はできない。

 だが、どちらも“そのままの身体”とは少しずれて見えた。

 午後、ラウンジから個室へ戻る短い廊下で、彩佳は一度だけ足を止めた。

 長い距離ではない。

 数十歩。

 それなのに、呼吸が一拍だけ深くなる。


「大丈夫?」


 後ろから早苗が訊く。


「うん」


「今、止まったけど」


「ちょっとだけ」


「それだよ」


 彩佳はそこでようやく振り返った。


「何が」


「“ちょっとだけ”で済ませるやつ」

 声は低い。怒鳴ってはいない。


 けれど早苗の中では、もうかなり強い警報が鳴っていた。

 午後前半、いちばん落ちやすい時間だ。

 午前は持っていた人が、ここで落ちる。

 眠気。

 だるさ。

 頭重感。

 息苦しさ。

 森下はソファに座ったまま、ほとんど喋らなくなった。

 彩佳は表面上はまだ保っている。

 だが、それが“静かに保ってしまう”方向なのが、余計に危ない。

 観察室のチェアに座った彩佳を見て、佐山は小さく息を吐いた。


「石井さん」


「はい」


「ちょっと歩いてみましょう」


「今ですか」


「今」


 短いやりとりのあと、彩佳は立ち上がる。

 観察室の前からメイン廊下へ出て、個室列の方へ少し歩く。

 たったそれだけ。

 それだけなのに、彩佳の呼吸は途中でわずかに乱れた。


「止まりましょう」

 佐山が言う。


「……すみません」


「謝らなくていい」


 そこで初めて、彩佳は壁に軽く手をついた。

 寄りかかるほどではない。

 だが、支えを探す手つきだった。

 その瞬間を、早苗はラウンジ側から見ていた。

 胸の奥で、何かがはっきり形を持つ。

 これは、自分たちが言っている“きつい副作用”とは違う。

 頭痛とも違う。

 吐き気とも違う。

 森下の不安定さとも違う。

 大沢の疲れとも違う。

 彩佳のそれは、もっと静かで、もっと嫌な方向の異常だ。

 夕方前、処置室で追加採血が行われた。

 清水が準備をし、上原が項目を確認する。

 彩佳は椅子に座り、少しだけ俯いていた。


「しんどい?」

 佐山が訊く。


「……少し」


「今日それ何回目」


 少しだけ皮肉を混ぜた言い方だった。

 彩佳は弱く笑ったが、すぐその笑いも消える。


「顔色、落ちてます」


 清水が記録を見ながら言う。


 少し離れたところで、森下も壁にもたれて座っていた。

 処置待ちの間、目を閉じている時間が長い。

 だが、その様子も正式ログでは“安静にて軽快傾向”くらいの言葉へ整えられるのだろうと、佐山には思えた。

 上原は採血を確認しつつ、彩佳へ向けて言った。


「石井さん、今の段階でまだはっきり断定できる所見はありません」


 そこで一拍置く。


「でも、いい揃い方ではないです」


 彩佳は顔を上げた。


「揃い方?」


「症状の出方です」

 上原の声は静かだった。

「一つずつなら“よくある副作用”で片づけられる。でも、同じ方向へ並び始めると話が変わる」


 彩佳は何も言わなかった。

 言葉の意味は分かる。


 だが、分かったところで何をどうすればいいのか、自分ではまだ分からない。


 夜、四階の解析室で高田は今日のデータを見ていた。


 石井彩佳。

 搾乳量、良好。

sIgA、上昇。

 自覚症状、増加。

 下肢所見、要観察。


 森下紗希。

 吐き気、頭痛、不安感。

 自由記載では揺れがある。

 だが要約欄では“経過観察下で継続可能”へ寄っている。

 画面の中では綺麗に並ぶ。

 その綺麗さが、むしろ怖い。

 高田は少しだけ眉を寄せた。

 石井さんは、しんどさの割に記録が軽い。

 森下さんは、揺れの割に要約が静かすぎる。

 まだ改ざんと呼ぶには早い。


 だが、記録が人体に対して綺麗すぎる。

 その感覚だけが残った。


 同じ頃、二階では短い確認が行われていた。

 相原は報告を一通り聞いたあと、静かに言う。


「B群の反応性はむしろ良いですね」


 その一言に、佐山の表情が硬くなる。


「身体も見てますか」


 昨日と同じ問いだった。

 だが今日は少し重みが違う。

 相原は落ち着いて答える。


「見ています。症状も把握しています」


「森下さんの記録、かなり軽く整理されています」

 上原が低く言う。

「石井さんも、数字の良さに引っ張られすぎている」


 相原は一拍置いた。

「導入期の変動です」


 やはりその言葉で来る。


「継続可否に影響する段階ではありません」


 彩佳の危険も、森下の揺れも、同じ“継続可能”の箱へ入れられていく。


 方向は違うのに、運用上は同じ扱いになる。

 会議が終わったあと、二階の廊下で佐山が低く言った。


「先生」


「はい」


「これ、成功例と成立例しか見てません」


 上原は少しだけ黙ってから答えた。

「分かっています」


「止める線を、こっちで持っておかないと」


「ええ」


 上原の声も低かった。

「だから今のうちに拾います。数字になる前も、なった後も」


 夜、三階はまた静かになった。

 個室待機。

 見回り。

 最低限の声かけ。

 窓の外の夜景だけが、やけに遠くきれいに見える。

 彩佳の部屋に、早苗が顔を出す。


「起きてる?」


「うん」


「脚、見せて」


 前置きなしだった。

 彩佳は少し驚いた顔をしたが、黙って裾を少し上げた。

 早苗は足首のあたりを見て、すぐ顔をしかめた。


「……やっぱり左」


「そんなに?」


「そんなに」


 早苗はベッド脇に立ったまま言う。

「今日、廊下でも止まったし」


「ちょっとだけだよ」


「それがもう嫌」

 その言い方は、かなり本音だった。


「森下さんも今日、かなりきつそうだった」

 彩佳が小さく言う。


「うん」

 早苗は即座に頷いた。

「でもたぶん、ああいうのも軽くされる」


 その言葉に、彩佳は目を伏せた。


「私も、そんなにしんどく見えてないのかな」


 早苗はすぐ返した。

「見えないようにしてるんだよ」


 彩佳は何も言えなかった。

 見たくない。

 研究側が。

 会社が。

 あるいは、自分自身も。

 扉が閉まったあと、個室には空調の音だけが残った。

 彩佳はベッドに横になり、天井を見上げた。

 胸の奥が少し重い。

 左脚の張りも、朝よりはっきり残っている。

 それでも今日は、また数字が出ていた。

 しんどさが増している。

 でも成果も伸びている。


 その二つが同時に進んでいくことの嫌さを、彩佳はまだ言葉にできなかった。


 ただ、身体のどこかではもう分かり始めている。

 このままではまずい。

 でも、ここで止まったら何かが足りなくなる。

 その二つの感覚が、胸の中で静かにぶつかり続けていた。

 同じ頃、スタッフステーションでは佐山が三階の夜間記録を見直していた。

 301、石井。

 302、高橋。

 303、森下。

 304、大沢。

 記録の上では、まだ全員が“継続可能”の中にいる。

 だが現場で見ている身体は、もう少し違う場所へ近づいていた。


 上原が処置室から戻ってきて、低く言う。


「石井さん、明日も同じなら次の段階で見ます」


 佐山は短く頷いた。


「ええ」


「森下さんも軽くはない」


「分かってます」


 二人とも、もう“普通の副作用の範囲”だけでは見ていなかった。

 窓の外では、湾岸の灯りが静かに滲んでいた。

 フロアの中は整っている。

 規則正しい生活時間に見える。

 だがその実、誰かの身体は毎日少しずつ削られ、その削れ方さえ記録の中で均されていく。


 三週目の終わりは、まだ急変ではなかった。

 まだ崩れ落ちる前だった。


 けれど、越えてはいけない線はもうすぐそこまで来ていた。

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