古城
魔法の使えない世界は、こんなにも寒いのか、と早鐘アイヤは思った。
石の部屋には、寝台と、水差しと、格子の嵌まった高い窓が一つ。逃げ場がないのは、まあいい。問題は、指先だった。土をひねれば肉まんでもピザでも湧いて出た指先が、この城では、ただの冷たい指だった。敷地ぜんぶに、魔法を殺す結界がかかっている。
最初の晩は、ゲームでいう捕獲イベントだと思うことにした。囚われヒロインは定番だし、定番なら、次は救出パートだ。
二日目の夜には、その軽口が、胸の内でも続かなくなった。
一度死んで、こっちに来た。だから大抵のことは怖くない——はずだった。けれど、手札を全部裏返しにされて、石の冷たさだけが本物として残ると、余裕というやつは、思ったより早く、底が見えた。
三日目、あの男が来た。
扉が開いて、清潔な顔が、廊下の明かりを背に微笑んでいた。護送車の後ろで、最後に見た顔。光が降ってきて、それきり世界がこの石の部屋になった、その前に見た顔だった。
「よく眠れているかい」
早鐘は、ありったけの敵意を目に込めて、男を睨んだ。前世と今世をあわせて、いちばんの睨みだったと思う。
男は、まるで気にしなかった。そよ風ほどにも。
「君の魔法薬精製チートは知っている。君には神酒を作ってもらう。ここの結界は週にいちど、決まった刻に下りる。魔法はそのときだけ返してあげよう」
「作るかーっ!」
石の部屋に、われながら威勢のいい声が響いた。
男は、困った子を見る顔で、ゆるく首をかしげた。
「それまでに考え直すといい……ソーマのサンプルからレシピを拾うのにも時間が必要だろう……。助けが来るとでも思っているのかい? 異世界人に人間の権利はない。君がある日突然異世界に戻ったとしても、誰も気にとめてくれる人などいないよ……」
誰も、気にとめない。
その言い草が、こけおどしでないことを、早鐘はもう知っていた。書類の上で、自分はどこにもいない。帰れないと証明できない女は、消えたと騒いでも、帰ったことにされるだけだ。
それでも、と思う。それでも、あの仏頂面は——
男の視線が、ふと、早鐘の胸元で止まった。
「おや」
伸びてきた手が、襟元から、それを摘まみ上げた。安物の、宝石のついたアクセサリー。渡されたときの、不器用な手つきごと、握りしめてきたものだった。
「なかなか良くできた魔法の道具だ。物騒だから、預かっておくよ」
「返せっ……!」
跳びかかった手は、空を切った。男は宝石を光にかざして眺め、興味を失ったように、自分の胸の内ポケットへ落とした。
それで、終わりだった。敵意は届かない。持ち物は取り上げられる。魔法は、ない。
扉が閉まる音を聞きながら、早鐘は、初めてこの世界で、自分がほんとうに手ぶらなのだと知った。
* * *
石の床の冷たさが、遠い日の冷たさを、呼び起こした。
前世のことは、じつは、あまり覚えていない。
私は早鐘アイヤ。高校生活、スタート。トラック。──以上、である。あとは白いもやもやした空間で、神様みたいな人が、ごめんねえ、と拝むように謝っていた。お詫びにすごいスキルをあげるから、と。まあいっかぁ、と思った次の瞬間には、ここにいた。我ながら、軽い。命が、というより、性格が。
ちゃんと覚えているのは、そのあとだ。
目が覚めたら、崖の下だった。
見上げるほどの岩壁と、曇った空。知らない世界、どころではなかった。知らない体だった。あちこちの痛むその体は、私より頭ひとつ大きくて、丈夫な革の服を着ていた。
散らばった荷物の書き付けを読むかぎり、体の持ち主は、薬草だか鉱石だかを探して山を歩く研究者で、崖から足をすべらせたらしい。私が来るまで、この体が何日ここに倒れていたのかは、わからない。荷袋のパンも、干し肉も、木の実も、何もかもが、みごとに腐っていた。
寒くて、ひもじくて、泣きそうだった。いや、泣いた。
泣きながら荷物を引っかき回して、腐っていない、たった一つを見つけた。小瓶のポーションだった。栓を抜くと、湯気も立てないのに、じんわり温かい。──身体の温まるポーション。おそるおそる飲んだら、腹の底に小さな火が点って、それから、頭の中へ、その作り方が、まるごと流れ込んできた。
神様からもらったスキルは、体が触れたものを、中身の中身まで読んでしまうらしい。そして読めたものは、そっくりそのまま出せるらしい。
つまりこの小瓶は、もう、無限に作ることができた。三日、それだけで生きた。
四日目、崖下から立ちのぼる湯気につられて、崖の上の道から、冒険者の一党が覗き込んできた。いかつい人たちだった。
崖下でキャンプしていた私を引き上げてもらった礼に、無限の小瓶を配った。それで付いた呼び名が、ポーションマスターだった。まさか誰も無免許だとは思わなかったらしい。そのままなし崩しに、荷物持ちみたいな顔で、街まで連れていってもらうことになった。
夜は、焚き火を囲んだ。大剣の姉さんが作ってくれた携帯食糧の雑炊を、一口もらって──読んだ。次の晩、そっくりそのまま出してみせたら、一党は椀を持ったまま、どよめいた。味まで、そっくりだった。つまり、ちゃんと、マズかった。携帯食糧だもの。
だから、道すがら、読んだ。焼いてもらった野兎の肉。名前も知らない野草。木いちごに似た、すっぱい赤い実。読んだ味を、雑炊に、ひとつまみずつ足していった。足すたび、おいしくなーれ、と唱えた。効いたかどうかは、わからない。
三度目の晩に出した椀で、大剣の姉さんの手が、止まった。それから無言で、おかわりの椀が、突き出された。
「さすがポーションマスター」
誰かがそう言って、焚き火のまわりが、笑った。名前を呼ばれるたび、この世界でも生きていける気が、少しずつ、した。
街の門をくぐったとき、よし、頑張るぞ、と思ったのだ。
あのときも、手ぶらだった。いまよりずっと、ひどい手ぶらだった。それでも湯を沸かして、生きて、街まで歩いた。
だから──大丈夫だ。たぶん、大丈夫。
* * *
何日目かの朝、城が、にわかに騒がしくなった。
廊下を走る音。怒鳴り合う声。石の壁ごしにも、空気が変わったのがわかった。
「まずい! そっちは!」
「ダメだ、公園が警察に囲まれている!」
「バカな…!」
あの男の声が、初めて、素で乱れていた。早鐘は寝台から跳ね起きて、格子窓に張りついた。木立の向こう、公園の柵に沿って、制服の列が見えた。
来た。
ほら来た。定番どおりだ。やっぱりだ。救出パートだ。目の奥が熱くなったのは、寒さのせいということにした。
やがて、廊下に足音が戻ってきて、扉が乱暴に開いた。男は、もう微笑んでいなかった。
「立て……! 移動する……!」
手首を掴まれた。氷みたいな握力だった。引かれるまま、暗い廊下を歩かされる。男は早口で、部下に指示を飛ばしていた。
「市警どもは下がらせろ。誰も入れるな。以降の捜査は、本部が引き取る──」
その声の低さで、早鐘は察した。この移動は、避難ではない。
ソーマは、もう諦めたのだ。囲まれた城から、生きた証拠をひとつ、消しておくための移動だった。
証拠を消してしまえば、この男はまた清潔な顔で言うのだろう。私も犯人を追っていたのだが、逃げられた、と。
——異世界人に、人間の権利は与えられない。
あの言葉の意味が、いまさら、腑に落ちた。権利がないとは、こういうことだ。消しても、誰の罪にもならない。いなくなっても、帰ったことにされる。
膝が、笑いそうになった。それを、意地で歩いた。
角を、曲がった。
廊下の先に、人が立っていた。
黒っぽい上着の、仏頂面。両手は下げたまま。息ひとつ乱さず、まるで散歩の途中みたいに、そこにいた。
「タダノフさーん!」
声は、勝手に出た。語尾が伸びて、涙声が混じって、われながら締まらない呼び方だった。でも、それでよかった。届けば、よかった。
男の手が、早鐘の手首を、掴み直した。
「……単独か」男は、値踏みするように言った。「勇敢だね。だが、結界の中だ。君の火は、ここでは点かない」
タダノフは、答えなかった。ただ、立っていた。
睨み合いは、長かった。魔法のない城で、魔法使いが二人、間合いだけを測っている。
早鐘には、わかった。この男は、待っているのだ。週にいちどの、結界の下りる刻を。魔法が返ってきた瞬間、雷で、二人まとめて消すつもりだ。
そしてタダノフは——右手の指が、ゆっくりと畳まれていくのが、見えた。見覚えのある動きだった。空気から火を取り出す、投球の前の、あの指の形。撃つ気だ。結界が下りた瞬間に、正面から、撃ち合う気なのだ。
だめだ、と早鐘は思った。タダノフさんの投球がどれだけ速くたって、相手は雷だ。空から落ちる、光の速さだ。火の玉が届くより先に、焼かれる。
空気が、変わった。
肌の産毛が、いっせいに立ち上がる。指先に、あの懐かしい、土の気配が戻ってくる。結界が、下りた。
男が、嗤った。
天が鳴った。窓の外の空が白く裂けて、男の全身に紫の電が走り──その胸元が、真昼のように明るくなった。
雷の光ではない。
内ポケットで、あの宝石が、灯ったのだ。
照明弾。あの晩、街じゅうの空に吊るされたのと同じ光が、零距離で、男の顎の下から顔を撃った。目を、撃った。世界が白く飛んで、早鐘はとっさに瞼を閉じた。閉じても、まぶたの裏まで、白かった。
「ぐわ……ああ……ああぁぁぁーッ!!!」
男の絶叫と、雷が、同時に落ちた。
狙いは、まったく定まっていなかった。焼かれた目のまま放たれた紫電は、タダノフのいた場所の遥か右で、石の壁を砕いた。
タダノフは、まっすぐ右手をフードルにかざした。
雷光の白の名残のなかを、橙色の火が一本、まっすぐに走った。
畳んであった指から放たれた、返しの一発。雷をかわした体勢のまま、カウンター気味に投げ込まれた、ただの投球だった。火球は雷神の右腕に食い込み、袖ごと、燃え上がった。
男は転がって腕を抱え、電は散った。
二撃目の雷は、どこへも落ちずに空へ霧散した。
石の床の上で、焼かれた大魔導が、煙を上げながら、信じられないものを見る目でタダノフを見上げた。
「ばかな、今のは……」
雷雲の薄れてゆく視界の向こうで、タダノフが、投げ終えた姿勢を、ゆっくりと解いた。
「……今のは、ただのファイアボールだ」
相手の雷がどれほど早かろうと、関係なかった。
彼のファイアボールは、一週間前にすでに撃ってあったのだ。
早鐘には、あとになって、それがわかった。渡されたお守り。取り上げられた宝石。
あの男は、自分の目を焼く光を、自分の手で懐に入れて、ずっと抱えて歩いていたのだ。
握られていた手首が、離れた。
へたり込んだ早鐘の上に、仏頂面が、影を落とした。
「……無事か」
無事です、と言おうとして、出てきたのは、盛大な泣き笑いだった。




