消失
無線が入ったのは、引き渡しから三日目の夜だった。
『——転生者が逃走した模様、現場に急行せよ』
逃走。
その言葉の据わりの悪さを、タダノフは、ハンドルを切りながら噛んでいた。
一度逃亡を図ったことのある娘が、また逃げた、と考えれば、さほど不自然ではない。
だが、あの娘は保釈中の身だ。逃げる理由が、ない。ピザと肉まんを作って、上機嫌に暮らしていた娘だ。
現場は、郊外の街道だった。着いたときには、もう、夜のほうが明るかった。
投光の魔法が何本も立ち、制服が規制線の外まで溢れている。市警の比ではない。本部——警視庁の捜査車両が、道を埋めていた。
国ひとつ傾けかねない魔力の持ち主が消えたのだ。動く駒の数が、違った。
規制線で、タダノフは止められた。
「本部の大魔導様が目下捜索中だ、市警の出る幕はない」
線の内側に、護送車が見えた。後部の扉が開いたままになっている。その先の路面に、鑑識の触れているらしい一角があった。あそこだ。あそこに、痕がある。読めば、何かは、わかる。
近づく手立てが、なかった。管轄が、壁だった。
「彼を通せ」
やわらかい声が、線の内側からした。
フードルだった。清潔な顔で、疲れたように微笑んで、タダノフを手招きした。
周りの本部の連中が、道を開ける。
味方の顔だった。あの臭いのする男が、味方の顔で、立っていた。
「現場の魔力痕跡を調べさせているが、私にも分からない。車の後部座席で、誰かと話をしている風だった。光が降ってきたかと思うと、彼女はこつ然と消えたのだ。
早鐘自身がワープの魔法が使えた可能性を考えて捜査しているところだが……私の個人的な考えだと、あれはただのワープの魔法ではない。ひょっとすると、元の世界に戻ったのかもしれない」
元の世界に、戻った。
帰れないと証明できない娘は、帰ったとも証明できない。
元の世界が存在したのかどうかすら、彼らには分からないのだ。
タダノフは、路面の一角へ目をやった。遠い。読める距離ではない。それに——遠目にも、痕は綺麗すぎた。誰かの手で、洗われた後のように。
「何か気づいたら、知らせてくれ」フードルは、労うように言った。「君は彼女と親しかったそうだから」
規制線の外へ出されたとき、タダノフの手のなかには、何も残っていなかった。現場は本部のもの。痕は読めない。届けを出す先の一番上に、あの臭いのする男が座っている。
足は、完全に断たれていた。
* * *
二日、何もできなかった。
三日目の夜、署の裏の暗がりに、白い火が一つ、点っていた。
「景気の悪い顔してるね、刑事さん」
イマノワだった。壁にもたれ、白い火を指先で回している。タダノフが立ち止まると、女は火を消して、珍しく、笑っていない顔で言った。
「子どもが一人、転がり込んできてる。あんたが捕まえそこねた、あの子だよ」
——大人と揉めたら来な。
あの晩の言葉どおりに、少年は、この女のところへ駆け込んだのだ。
「仕事をさせられたんだと。荷物を運ぶ仕事。その荷物ってのが──女の子だった」
タダノフは、動かなかった。動かないまま、全部を聞いた。
少年たちは群れごと雇われた。跳べる者が、ルートを分割して、リレーで運んだ。
少年が担ったのは最初のひと跳びで、降ろした先はエスメラルダ地区。そこで次の運び手に荷を渡し、それきりだという。
最後にどこへ行ったのかは、少年も知らない。
「相手が、オークだのゴブリンだのの筋なら、あたしが話をつけて終わりだったけどね」イマノワは、ふう、と大きく息をついた。「けど今度の依頼者は、ヤバすぎた。警視庁の刑事様だったらしい。闇の顔役が刑事に手ェ出したら、戦争になっちまう」
女は、タダノフを見た。
「同じ警察のあんたがやってよ」
少年を渡すつもりもなさそうだった。
タダノフは、暗がりの白い火に向かって、声をかけた。
「……どうして、俺を信用するんだ……俺がその刑事とグルだっていう可能性は、考えなかったのか」
「言ったろ」イマノワは、もう歩き出していた。「あんたの火は、まっすぐだからさ」
* * *
エスメラルダ地区は、風の子らの遊び場だった。
屋根の上にも、路地の空にも、ワープの穴の残り香が、そこらじゅうに漂っている。ボルダーがブラックライトを振り回した。長い腕のひと振りで、路地の幅がまるごと照らせた。それでも数が減らず、うんざりした声を上げた。
「この辺は不良がぽんぽんワープしてた場所じゃないですか?」
出口も入口も見分けがつかない。日常の跳躍の痕が、何十と重なっている。そのなかから、たった一つを、選り分ける。
タダノフは、一つずつ、縁を読んでいった。滲まない縁。剃刀の断ち口。開いた向き。ゲートの径。──そして。
「……このワープ痕だ。こいつを探せ……」
「どれっすか。どれも同じに見えるっすけど」
「……稼働時間だ……こいつだけ、ゲートを通り抜けるのに、普段の倍近くかかっている……おそらく重たいものを運ぼうとしている……」
子ども一人の体で跳ぶ穴じゃない。誰かを、抱えて跳んだ穴だ。
タダノフは、穴の開いた向きを、指でなぞった。地面と、平行。
「……もし、人ひとりを運ぼうとしていたら、天井に向かってワープ開口を開いてジャンプするような飛び方はできない……地面に並行に開く必要がある……ならば、これと対になるワープ痕が向こうにできるはずだ」
空へ向かって跳べば、痕は消せる。あの晩、子どもらがやったように。だが、あれは身一つの荒技だ。人を抱えて、見えない空へは、跳べない。落とせば、荷物が死ぬ。
人を運ぶなら、地を這うしかない。地を這えば、穴と対になる栓が落ちる。
——消えたのではない。運ばれたのだ。
元の世界になど、帰っていない。この穴の先の、どこかに、対になる栓が落ちている。
距離はわかる。担いだ図体の大きさまで、わかる。
ただ、どの向きへ跳んだのかだけが、この穴には書いていない。
わかるのは、降りた先が、街を囲む巨大な円の、その線の上のどこかだということだけだ。
ボルダーは、パシャリ、と地面の痕跡をカメラに収めた。
「さすがタダノフさんっす。けど、距離だけで、この円ぜんぶ捜すんすか?」
ボルダーの言うとおりだった。円の上に、候補は幾らでもある。絞る篩が、もう一枚、要る。
篩なら、もう、手の中にあった。
タダノフは、上着の内から、折り畳んだ紙の束を出した。一人の刑事の事件歴。古参の大魔導が、これまで踏んだ現場の一覧だった。──現場で足を断たれた、あの晩のうちに、記録から引いてあったものだ。臭いだけで、令状は取れない。だが、調べる手を縛る法も、ない。
長いキャリアだった。関わった土地は多い。その一つ一つを、穴の示す円の上に、重ねていく。
残ったのは、三つ。北の自然公園に沈む古城。西の、潰れた製薬工場。東の、遺構のタワー。方角は、てんでばらばら。だが距離だけは、判で押したように、どれも円の線上に載っていた。そして三つとも、人ひとりを長く隠せて、人目と魔法を同時に締め出せる場所だった。
そこから先は、人手だった。人ではない、人手が。
「ゴーレム捜査線を大量展開しないとっすね……」
署の倉庫の扉を、タダノフは開けた。
暗がりの奥まで、土くれの人形が、詰まっていた。
数千体。パンを素材としたゴーレム、ボノム・ド・パン。
棚に、床に、通路に、行儀よく並んで、目を閉じている。
捜査協力の名目で、あの娘が作ったものだ。牢から出された礼だと言って、鼻歌まじりに、一晩で。
自分を救ってくれた警察のために、と娘が量産した人形の群れが、いま、消えた娘を探すために起こされる。
タダノフは、倉庫の中央に立ち、静かに号令の術式を通した。
数千の瞼が、いっせいに開いた。
土くれの体が、棚から降り、床から立ち上がり、隊列を組んで、夜の戸口から流れ出していく。屋根へ。路地へ。街道へ。北へ、西へ、東へ——円の上の、三つの候補地へ。小さな足音が、幾千も重なって、地鳴りのように遠ざかっていった。
作り手の娘は、笑うだろう。壮観ですねえ、などと言って。
人形たちは、推理ができない。それはこちらの仕事だ。彼らはただ、歩き、探し、見つけたものを持ち帰る。
三日目の朝、その一体が、帰ってきた。
北の自然公園。その敷地の奥の、古城の裏手。人形の記録した映像のなかに、それはあった。地面と平行に開いた、剃刀の断ち口。タダノフは、エスメラルダの穴の写しを、その栓に重ねた。
シルエットが、嵌まった。角度が、径が、寸分違わず、噛み合った。
同じゲートの出口と入口で分断された、魔力の奔流。
「ここだな……」
娘は、そこにいる。
そしてその古城が誰の踏んだ現場か。事件歴の一覧が、もう答えていた。




