引き渡し
本部の廊下は、夜でも白々しく明るかった。
その明るさのなかを、タダノフは、保釈中の娘を連れて歩いていた。裁判で罪状が固まるまでの、宙ぶらりんの身。今日から、その身柄を、上の決めた保護者へ引き渡す。
歩きながら、タダノフは言った。
「変なものは作ってないな? お前の面倒は上の方で見ることが決まった」
「変なものってなんですか。もうこりましたよぅ。ここしばらくピザと肉まんしか作ってないですよぅ」娘は、悪びれもせず首をかしげた。
「当たり前のように有機物を作ってるな…」
ピザと、肉まん。小麦も、肉も、チーズも。有機物は消費魔力こそ少なかったが、その複雑さゆえに莫大な魔力構築と精神力を必要とするのだった。
早鐘アイヤは、けろりとしていた。牢に落とされても、保釈で出されても、見知らぬ男に引き渡されても、どこか一段高いところから、この世界を眺めているような顔をしている。一度、死んだことのある人間の顔だと、タダノフは思った。
引き渡しの部屋の前に、その男は立っていた。
「やあ」
やわらかい声だった。仕立てのいい制服。清潔で、感じのいい顔。大魔導・フードル警部。誰に訊いても、評判のいい男だった。
男は、早鐘をひと目見て、微笑んだ。
「なるほど、これが異世界人か。ただ者じゃないね」
見抜いている。娘の内に眠る、桁外れの魔力を。
「なるべく早く元の世界に戻れるよう、誠意を尽くさせてもらうよ」
だが、そのとき。
その言葉の、やわらかさの下から、タダノフは、それを嗅いだ。
『殺意の火の臭い』だ。
雷神族のこの男は、火など撃たない。なのに、臭う。清潔な男の、笑顔のすぐ裏で、油の焦げるような、黒い臭いがしていた。かつて自分が、殺意のために纏っていたのと、同じ臭いが。
タダノフは、顔には出さなかった。臭いは、証拠にならない。上の決めたことに、逆らう手立ても、なかった。
「気の毒だとは思うんだ」フードルは、早鐘へ向き直った。
「異世界人を難民認定するか否かは、まだ議論の決着がついていないんだ。帰るべき国の存在が確認できないから、本当に帰れない状態だという事が証明できないんだよ。
証拠がないのに認めてしまうと、歩いて帰れる隣国の子がウソついてても難民認定しないといけなくなる」
帰れないと、証明できない。だから、守られない。──理屈は、そのまま、この娘を宙に浮かせておくための鎖だった。
早鐘は、へえ、というような顔で聞いていた。危ういとは、思っていない。この保護者面の男が、どういう手合いか、気づいてもいない。気づいているのは、臭いを嗅いだ、タダノフだけだった。
部下が、早鐘を促した。別室で、引き渡しの手続きをするという。
連れていかれる、その一瞬。タダノフは、娘の手に、小さなものを握らせた。宝石の飾りのついた、安物のアクセサリーだった。
「……お守りだ、持ってろ」
早鐘は、きょとんとして、それを受け取った。手放したくないものを渡すときの、不器用な手つきだった。
早鐘は、飾りを握って、部屋の奥へ消えた。
あとには、タダノフと、その男だけが残った。
「あいつは立派な刑事だったよ。お前がなにかしでかそうとしている事は、においで分かったと言っていた」
あいつ。──誰のことか、すぐにわかった。おやっさんだ。この男は、あの人を知っている。同じ釜の飯を食った口ぶりだった。
『においで分かった』。
かつて、おやっさんが、タダノフの殺意を嗅ぎ当てた。
それと同じように。いま、タダノフが、この男の殺意を嗅いでいる。
「……俺は、ファイアボールでどうやって人を殺すか研究してましたから」タダノフは、静かに言った。「炎にも、それが現れたんでしょうかね」
フードルは、笑った。
「統計によると、ファイアボールで一番致死率が高いのが、土属性を鍛えた魔法使いによるものだった。火災の多くの死因が、熱ではなく、煙を吸う事による意識障害だから。自然と、可燃物質を生み出す、土属性の太さがファイアボールによる致死率と直結した。
そして可燃物質の多いファイアボールほど、炎が黒く、油臭くなっていくんだ。ちなみに、君はどこでそんな事を習ったんだ?」
フードルは、何もかも知っている口ぶりで、懐かしむように頷いた。
タダノフは、少しだけ、間を置いた。
「……図書館で」
フードルは、おかしそうに笑った。それ以上は、訊かなかった。
「あいつは、服役中の頃からお前のことを気にかけていた。……『立派な刑事』になったものだ」
やがて男は、娘の消えた部屋の奥へ、ゆっくりと歩いていった。
評判のいい保護者が、身柄を引き取りに。
タダノフは、引き渡しの書類に判を押し、本部を出た。あとのことは、もう、見ていない。
外は、まだ夜だった。娘の手に握らせた、ただ一つのお守りのことだけを、考えていた。
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