狩り
屋根裏のたまり場へ転がり込んでも、ラルクの膝は、まだ笑っていた。
逃げ切った。街じゅうに灯りが吊るされて、仲間が何人も追い立てられていくなか、自分だけが、あの女に逃がされた。足を洗いな、とダークエルフは言った。大人と揉めたら来な、と。
洗うなら、今夜だ。帰り道の屋根の上で、ラルクはそう決めていた。もう、いやだった。
たまり場には、逃げおおせた数人が、隅でうずくまっていた。今夜の上がりを、黙って数えている。禁制の魔法薬、ソーマの瓶が、薄明かりに青く光った。
誰も、捕まった仲間の話はしない。明日は、自分が消える番かもしれない。それを口にしないことだけが、ここの作法だった。
「……おれ、」
言いかけて、やめた。
羽根の根もとが、まだ熱を持っている気がした。さっき、地から撃ち上げられた火が、燃えもせずに貼りついた場所だ。あの刑事は、ただ者じゃなかった。──ひょっとしたら、もう、ここにたどり着いているかもしれない。
「――よう、やってるか、少年たち」
言葉にするより先に、戸が鳴った。
入ってきたのは、警官だった。後ろに、数人を従えている。
だが、表の警官のように、踏み込むでも、怒鳴るでもなかった。
先頭の男は、はぐれた子を見つけた近所の大人のような、やわらかい顔で笑っていた。
その顔を見た瞬間、ラルクの背すじが、芯から凍った。
知っている顔だった。一度見たら、忘れられない。
兄を連れていったのが、その顔だった。
あのころ、群れはこの男の捜査網に、じわじわと追い詰められていた。逃げ切れない、と兄は言った。そして、みんなが運んでいたブツを一人で残らずかき集め、身代わりに捕まる役を買って出た。おれ一人で済む、と笑って──やさしく肩を抱くその男に連れられて、兄は夜のなかへ消えた。
帰ってこなかった。
警察にも掴まっていなかった。
おかしいのは、それだけじゃない。兄が抱えていったソーマも、まるごと消えた。兄を連れていったのは警察のはずなのに、警察はいまも、そのソーマを血眼で探しつづけている。
どこへ消えたのか。誰の懐へ。
考えれば行き着く先はひとつしかなくて、ラルクはずっと、考えないようにしてきた。
いま、ラルクの背に縫いつけられている、つぎはぎの羽根。あれは、もとは兄のものだ。
男のほうは、ラルクを見ても、何も思い出さない目をしていた。当然だった。この男にとって、運び屋の弟の顔なんて、覚えておく値打ちもない。
「おー、よしよし、いい子たちだ」男は、やわらかく言った。「全部、こっちで預かろうね」
部下が、瓶を集めてまわる。少年たちは、誰も逆らわなかった。逆らえば、どうなるか。みんな、知っていた。
男は、集めた一本を、証拠の袋には入れなかった。
ラベルもない瓶の栓を、震える指で抜いて──ためらいもなく、口へ運んだ。喉が、上下する。一息に、飲み干した。
刑事が、押収したばかりの品を、あおっている。その絵づらの異様さから、ラルクは目を離せなかった。
男の体が、びくりと跳ねた。
「ごっ……がぁ……が……あぁ……あがっ……」
背が、ありえない角度へ反り返っていく。踵で立ち、顎を天井へ突き上げ、人の関節では保てないはずの格好のまま、ぶるぶると硬直する。白目をむいて、笑っているのか、苦しんでいるのか、わからない。
次の瞬間だった。
屋根を裂いて、空から、雷が落ちた。
落雷だ。
紫電と音が、同時に弾けた。衝撃が部屋を薙ぎ払い、瓶という瓶が砕け、ガラスの破片が霰のように飛んだ。ラルクは吹き飛ばされ、壁に背を打って、息を詰めた。耳のなかで、高い音が鳴りつづけている。
煙の立ちこめる真ん中に、男が立っていた。
全身から、紫の電が、ぱちぱちと這っている。反り返っていた背が、ゆっくりと、ゆっくりと、起き上がっていく。糸で吊られた人形を、誰かが立て直すみたいに。
「はぁ……純度がいいね」
そして、目を開けた。
ぎらぎらと濡れて、焦点の合いきらない目。どこまでも上機嫌で、どこまでも、人ではないものの目だった。
その目が、まっすぐ、ラルクを見つけた。
ラルクは、動けなかった。来る、と思った。兄とおなじだ。夜のなかへ連れ出される。今度は、自分の番だ。
男は、紫電をまとったまま、やさしく、ほほえんだ。
「少年たち。君たちは、とても運がいい」
ラルクには、その言葉の意味が、わからなかった。
男は、子どもをあやすような声で、続けた。
「私は今とても機嫌がいいんだ。ソーマなんて運ぶのはもうやめろ。君たちは今日限り、お役御免だ。もっといいものを運ぶ仕事を紹介してやるからね」
殺さない、と言っているのだ。
今日は、機嫌がいいから。いつもなら口を塞ぐために消すところを、今日だけは、生かして、使ってやる、と。
恵みのように、それは差し出された。受け取らなければ、たぶん、いつもどおりになる。
隅で、仲間の誰かが、こくこくと頷いていた。殺されないために。生き延びるために。
ラルクの喉の奥で、洗うはずだった言葉が、小さく、潰れた。
足を洗いな、と女は言った。
その夜ラルクは、足首どころか、もっと深いものへ浸かった。兄の羽根を背負ったまま、兄を連れていった男の、新しい運び屋になった。




