ファイアボール・キリング
署の看護室で、ベッドに座らされた早鐘は、毛布の端を握ってふてくされていた。
「逃げたことは刑事事件にはしない」、と告げられても、機嫌は直らなかった。
タダノフが立ち上がった。早鐘のほうは見ずに、言った。
「この世界の法は、お前には窮屈かもしれん」少しの間があった。「だが、やり直しはできる」
早鐘は毛布の端を握ったまま、答えなかった。
「お前は、まだ誰も傷つけていない」
それだけ言って、彼は部屋を出た。
残ったボルダーに、早鐘が口を開いた。
「ねえ」彼女は天井のほうを見たまま言った。「ガンダルフってなに? 魔王かなんか?」
ボルダーの目が輝いた。
「逆っす。人間の英雄。魔族と人間の、長い戦争を終わらせた人っす。――で、その戦争で、タダノフさんの故郷は滅びた」
「えっ……逆なんだ」
「だからタダノフさんは、ガンダルフを討つために、たった一つの低級魔法を、何年も、極限まで鍛えた。プロになって、ガンダルフが姿を現すファイアボール道の世界大会に出場して、その場で、命を狙ったんす」
ボルダーは、自分のことのように胸を張った。警官の制服が膨らんで、みちっと窮屈そうな音を立てた。
「……かっこいいと思いません? すごく」
「それで」早鐘は首をかしげた。「ガンダルフは倒せたの?」
「倒せませんでした。仲間が先に捕まって、計画がバレたみたいで」
「じゃあ、ダメじゃん?」
「……ダメじゃ、ないです」ボルダーは少しむきになった。「いいですか、タダノフさんのファイアボールのすごさってのは、すべての単位魔法が最高クラスで、しかも――」
語り続けるボルダーの声の向こうで。
看護室の扉が、音もなく細く開いた。隙間に立った人影は、何も言わず、ただ早鐘を見ていた。
発動の癖。素行。受け答え。
すべての挙動が観察され、記録されていた。
人影は、来たときと同じように、音もなく消えた。
誰も、覗かれていたことに気づかなかった。
ボルダーはまだ、タダノフの過去の話で盛り上がっていた。二人とも、本当の傷の名前を知らない。
* * *
ひと月して見回りに寄ると、早鐘は心を入れ替えていた。
資格の勉強をしながら、迷宮都市の片隅で雑貨店を開いていた。
棚にはシロップ、石鹸、その他の生活雑貨。
この世界の製造免許は物質精製の魔法を管理するために厳しくなっていたが、魔法省が推奨している著作権フリーのアイテムなら、早鐘も安心して複製することができた。
加工食品の販売資格は、ギルドの顔役が雇用主になり、設備のある敷地を貸してくれたことで片がついた。
安い本物のポーションに救われた冒険者たちが、彼女を罪に問わず、表で生きられるよう手を貸した。
この世界の法は厳しいが、世界はそうではない。
捜査にも協力していた。遺留品のレプリカを大量に作り、現場の状況を再現するために壊してみる。思ったよりもうまく回っていた。
店に寄ると歓迎され、手料理が出た。ボルダーが嬉しそうに三人前を平らげていた。異世界の料理はどれも美味しい。
「蜂蜜シロップか」タダノフは瓶を手に取った。
「はい、ちゃんと表示もかえたんですよ」早鐘が得意げに言った。「人工のものは、人工って書かないといけないって聞いたので。――おいしいでしょう?」
タダノフは、しばらく瓶を見ていた。
「……おい。ブラックライトを持て」
ボルダーが灯りを構えた。
「人工のシロップなら、魔力痕は水あめを伸ばしたみたいに、なめらかな一本のはずっす」
瓶は、早鐘の魔力痕で、こうこうと光っていた。
なめらかどころでは、なかった。
蜂蜜の瓶で、城で見たものと寸分違わぬ万華鏡――継ぎ目も休みもない魔力痕が、瓶の中いっぱいに編まれていた。
ボルダーの言葉が、途中で消えた。
変えたのは、商品表示の文字だけだった。
中身は、本物のネクターのままだった。
自分の能力によって簡単に作られるものが、この世界にとってどれほど異常なものなのかを、早鐘はまだ理解していなかったのだ。
「これは蜂蜜シロップじゃなくて」タダノフは静かに言った。「蜂蜜じゃないのか?」
「えっ、だから人工なので蜂蜜シロップなのでは……何か違うんですか?」早鐘が瓶を覗き込む。「また私、何かやっちゃいましたか……?」
「タダノフさん、これは……何罪になりますか?」ボルダーが訊いた。
「薬機法第61条違反……罰金がいくらか、聞きたいか?」
「いい……です……」早鐘が小さく言った。
いちおう、ワンクッション置いてから伝えることにしたタダノフだった。
こうこうと光る瓶を挟んで、三人が頭をかかえていた。彼女が魔法世界に慣れるのには、まだ時間がかかりそうだった。




