最後の事件
皿が、一拍遅れた。
ゴーレムは食器棚の前で止まり、持ち上げた皿を持ち上げたまま、しばらく動かなかった。それから何事もなかったように棚へ収めた。次の皿は、遅れなかった。その次が、また遅れた。
タダノフは食卓で新聞を畳み、その背中を見ていた。
朝の家事は、いつもの順序で進んだ。竈の火。鍋。パンの焼ける匂いのする、丸い背中。台所と食卓のあいだの三歩を、ゴーレムは今朝、二度立ち止まった。昨日は、一度だった。
鍋が落ちた。
水を張っただけの鍋だった。ゴーレムは身をかがめ、床の水を拭き、鍋を拾って、竈に戻した。謝りはしなかった。彼女は喋らない。ただの器は、喋らない。
タダノフは立って、床の拭き残しを踏まないように歩き、食器棚の上の戸を開けた。
蜂蜜の瓶が、並んでいた。
棚のいちばん奥の古い瓶には、埃が乗っている。手前の瓶は新しい。数えるまでもなかった。数は、彼が知っている。
瓶の蓋を一つ、指で撫でて、戸を閉めた。
ゴーレムは竈の前に立っていた。火にかけた鍋を、両手で持つようになったのは、いつからだったか。
タダノフは上着を取った。
蜂蜜は、もう予約してある。
行き先は、市場ではなかった。
* * *
面会室の椅子は、いつもの椅子だった。
月に一度、タダノフはここへ来る。仕切りの向こうにアブラモフが座ると、部屋がひとまわり狭くなる。もふもふの体毛は、この前より色が浅かった。褪せたというより、日に晒した布のように、芯から薄くなっていた。
近況はいつも短い。食事。読んだ本。廊下の寒さ。アブラモフは今日、その順序を踏まなかった。
仕切り越しに、タダノフの顔を見た。それから、目を細めた。魔力痕の火を読むときの目だった。少年の頃から、何度も向けられてきた目。
長い間のあと、アブラモフは席を立ち、係員に何か告げた。戻ってきた手に、小さな鍵があった。仕切りの下の盆に、置かれた。
「お前の弁護を引き受けたときから、少しずつ貯めていたものだ」
「……」
「私にお前の心を救うことはできない。この世に罪をなくす魔法など存在しないからだ。だが、お前が罪を受け入れて前に進む覚悟をしたときに、それが必要になるだろうと思って、取っていた」
タダノフは鍵を取った。銀行の貸金庫の鍵だった。刻印の番号が、指の腹に触れた。
アブラモフは、もう一度だけタダノフを見た。
「……君はもう、覚悟が座っているようだ」
面会終了を、係員が告げた。タダノフは頭を下げた。獣人は、笑ったように見えた。
銀行の貸金庫は、街の古い区画にあった。
鍵は回った。引き出した箱は、見た目より重かった。
蓋を開けると、香りが立った。
クローブだった。
紙の包みと、缶と、瓶。容れ物はばらばらだった。古いものは包み紙が飴色に焼け、新しいものはまだ角が立っている。少しずつ、別々の年に、別々の店で。十数年が、箱の中に層になっていた。
腐らせないための、香辛料だ。
タダノフは蓋を閉め、箱を鞄に収めた。
その香りは、鞄を閉めても消えなかった。
* * *
家に戻ると、ゴーレムが台所で湯を沸かしていた。こちらは、見なかった。
卓の上に、三つ。手紙と、小さな紙の包みと、鍵。
包みを開くと、鞄の中のクローブとは別の香りが立った。ナツメグだった。
手紙は一行だった。署名はなかった。なくても分かる筆跡だった。
はやくやってあげなさい
鍵は、この部屋の合い鍵だった。
タダノフは鍵を手に取った。手の中で一度だけ裏返して、卓に戻した。
ナツメグの包みは、蜂蜜の棚の隣に置いた。
台所で、湯の沸く音がしていた。
鍵だけが、卓に残った。
* * *
早鐘アイヤの店は、市場通りの角にあった。
軒先の看板は新しい。硝子戸の内側、帳場のいちばん目立つ壁に、額に入った免許状が掛かっている。甲乙種魔法薬取扱店舗。発行印は、つい先日の日付だった。
戸を開けると、ボルダーが棚の整理をしていた。休みの日に何をしているかは、訊かないことにしている。
「あ、タダノフさん。来ましたよ、例の」
帳場の奥から、早鐘が木箱を抱えて出てきた。瓶が十二本。詰め物の藁のあいだで、琥珀色が鈍く光っている。
「ご注文の品です。ネクター、十二本。全部、うちの畑のです」
棚売りの瓶には、新しい値札が付いている。85円では、なかった。市場の相場の、まっとうな値段だった。
タダノフは懐に手を入れた。
「もうもらっています」
早鐘が言った。笑っていた。
「裁判のときに、先に。――ちゃんと覚えてますから」
タダノフは、手を戻した。
それから、深い深い、ため息をついた。
「……長かったな」
「二回も落ちたっすもんね」ボルダーが棚の向こうから言った。
「異世界語で試験を受けることの難しさ、分かってる!?」
早鐘は言い返してから、木箱の一本を抜いて、蓋を開けた。小さな匙で掬い、差し出す。
「初物です。どうぞ」
タダノフは受け取り、口に運んだ。
味は、85円の頃と、変わらなかった。
相変わらず、万華鏡のように綺麗な魔力の火を放っている。
早鐘は箱に蓋をし、紐をかけながら、ふと手を止めた。
「そういえば」
顔を上げる。
「なんで蜂蜜がそんなに好きなんですか?」
店の中が、静かになった。ボルダーの棚の音が、止まっていた。
タダノフは、木箱を見ていた。十二本。棚の分と合わせて、もう足りる数だった。
それから、口を開いた。
「……うちのゴーレムの話を、したことがなかったな」
ボルダーが、棚の陰から出てきていた。早鐘は紐を結びかけた手を、そのままにしていた。
「蜂蜜は、ゴーレムを焼き直すのに使う。デピスを――いちばん上等の器を焼くための、素材だ」
タダノフは木箱から目を上げなかった。
「家のゴーレムは、ボノムだ。あれは古い。もとの体は、昔、俺がこの手で壊した」
誰も、何も言わなかった。
語りだけが、続いた。




