突入
橙色のコインが、親指の爪の上に載った。
タダノフは問いに答えず、卓からも動かず、ただそれを構えた。四人が、それを見ていた。運を天に任せるかのような仕草だった。仲間になるかと問われた男が、コインの裏表に返事を預ける——そう読める仕草だった。
コインが、弾かれた。
回りながら上がり、上がりきったところで——曲がった。
落ちてこなかった。コインは水平に折れて空洞の奥へ走り、覆いの掛かった大きなものの、覆いの中へ吸い込まれた。
一拍あって、世界が白くなった。
爆発は空洞の奥から起き、組み足場を薙ぎ、覆いを燃やし飛ばし、その下の長い機体を——砲でも櫓でもない、翼のない、天を向いた長いもの——を、根元から折った。
誘爆が二度、三度、機体の節を順に走った。弾頭はまだ空だった。空でなければ、恐らくこの港は残っていない。
天井が、飛んだ。
積み荷の形をした鉄が夜空へめくれ、火の粉が柱になって昇り、折れた機体の先端が壁を破って埠頭の外へ倒れ、海が受けた。いざとなれば逃げるはずだった海が、最初の残骸を呑んだ。
どうやらコインに見えたものは、圧縮されたファイアボールだった。
爆音の名残の中で、四人は立っていた。卓は倒れ、書類が燃えながら舞い、開いた天井から夜風が落ちてくる。コートの男だけが、爆発の前と同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。
男が、口を開いた。
「……ひとつだけ、譲れないものがある」
声は、大きくなかった。
「俺は、仲間を傷つける奴を許さん……たとえ英雄だろうと、恩人だろうと」
男の立っている床が、靴の形に、焦げはじめていた。
* * *
返事より先に、火が出た。
火担当は、跳んでいた。誰の指示でもなかった。転生者を焼いた火が、腹の底から一直線に、コートの男へ伸びた。
点火から着弾までのあいだに、止まる段のない火だった。六年前、パーティの人間へ出た時と、同じ順序だった。
迎えたのは、一発のファイアボールだった。
デカい。まるで身体を飲み込むほどの大きさだった。
二つの火が、空洞のまん中でぶつかり、片方が呑まれた。
火担当は、自分の火ごと弾き返された。
背中から床を打ち、二度転がって、燃える書類の中で止まった。呑まれた火の熱が、自分の頬を炙っていた。
生まれてから今日まで、押し負けたことのない火だった。
「——」
声は、出なかった。出す前に、爆煙の向こうで次が始まっていた。
「タダノフさん! 応援に来ました!」
若い男が、煙を割って駆け寄っていった。
床の上で、火担当は目を細めた。
若い刑事の顔と、若い刑事の声だった。
だが、敵の援軍ではない。
あれは、水担当だ。
どんな魔力視も、水担当の『変身』は見破れない。回復魔法の応用——残す細胞と除く細胞の指標を書き換え、他人の体をそっくり手に入れる。
その魔力痕は、細胞の育つ痕と見分けがつかない。顕微鏡でも持ち出さない限り、変装を見抜くことは不可能だ。
あの大魔導フードルの背中を取れたのも、この擬態だった。
コートの男は、そちらを見なかった。若い男の手のナイフが、脇腹へ走り——届く前に、その腕が取られていた。
そちらを見もせずに捕縛した。
手首が返り、肘が極まり、若い男の体が宙で一回転して、床に落ちた。落ちた体の上に、一発。短い火が爆ぜて、体は動かなくなった。若い刑事の顔が、蝋のように流れて、誰でもない顔に戻った。
バカな。見切ったのか。
火担当が息をのんでいる間に、男は動いていた。
水担当が落ちるのと、コートの男が振り返るのが、同時だった。
振り返りざまの閃光のような一発が、空洞の端から端まで、一瞬で走った。
何もない空中で、火が爆ぜた。
弾けた火の縁に、陽炎のように輪郭が滲んだ。人の形が、宙で色を取り戻していく——透明化。
梁の上に、風担当がいた。落ちながら、その口は、まだ詠唱の形に開いていた。低く、長い何かを、途中まで唱えていた形だった。
風担当は円卓の上へ落ち、卓の脚が折れ、それきり動かなかった。
火担当は、遅れて気づいた。
あの詠唱。あれは、風の切り札だ。倉庫ごと、まとめて吹き飛ばす破壊召喚——。
俺たちごと、消すつもりだったのか。
背中が、冷えた。冷えた背中の向こうで、コートの男は、もう次を見ていた。
変身に続いて、透明化まで見破った。
強い。
まるで、ケルベロスだ。悪のにおいを嗅いで、地獄の底まで追ってくる。
生半可な魔法では、太刀打ちできない。
床の上で、火担当は彼の動きを全部、見ていた。
水が落ち、風が落ちるまで、合わせて十数える程の間だった。
「俺が時間を稼ぐ。土担当は、あいつを倒す武器を作れ……何分必要だ」
「5分……いや、3分あれば」
土担当の声がした。姿勢のいい男は倒れた卓の向こうに立ち、両手を軽く広げていた。
「5分かけろ……手を抜いて勝てる相手じゃねぇ」
火担当は、立ち上がった。口の中の血を吐いて、燃える書類を踏んで、コートの男との間合いに戻った。
* * *
一分。
土担当の周りで、空間が黒く欠けはじめた。虫が食ったような黒い穴がいくつも湧き、灯りを吸い、男の手元を隠した。黒の向こうで、何かが組まれていく。重いものが生まれる気配だけが、床を伝った。
火担当は、撃った。撃ち続けた。
一発撃てば、必ずそれより大きな一発が返った。
火担当の火が届くはずの位置に、半拍早く、同じ軌道で火が置かれた。
ぶつかり、相殺され、押し返された。二発目は角度を変えた。すると返ってくる火も角度を変えた。三発目は二連にした。返ってくる火は一発だったが、二連の継ぎ目に入ってはじき返した。
どの一発も、火担当の一発より、わずかに強かった。
わずかに……それが彼を苛立たせた。
二分。
火担当は出力を上げた。火の色が橙から白に寄り、撃つたびに空洞の壁が鳴った。それにぴったりと合わせるように、返ってくる火も強くなった。
わずかに上を保ったまま、強くなった。
差は詰まらなかった。開きもしなかった。半歩の差が、定規で引いたように、ついてきた。
黒い虫食いの向こうに、砲身めいた長い影が、少しずつ覗きはじめていた。
三分。
空洞の灯りが、隅から順に消えていった。
ランタンの火が、ひとつ、またひとつ、細って落ちた。燃える書類の火も、低くなった。土担当の息が浅くなり、詠唱のない口が、酸素を探して開いた。
空洞の空気が、二つの火に食われていた。
火担当は、気づいていなかった。上げていた。まだ上げていた。白い火は目を灼く高さで唸り、それでも向こうの一発は、わずかに上にいた。
四分。
火力の上昇が、頭打ちになった。
もっと出力を上げた。応えなかった。
腹の底はまだ燃えているのに、出て行く火が、それ以上太らなかった。
こんな事は初めてだった。撃っても、撃っても、同じ太さの火が出た。
火担当は喉の奥で吠えて、なお出力を上げた。それでも火は、太らなかった。飢えた火は白から青へ痩せ、痩せながら唸っていた。
そのとき、コートの男が、半歩、退がったのが見えた。
開いた天井から落ちていた夜風が——向きを、変えた。
海からの風が、めくれた鉄の縁を鳴らして、空洞へどっと押し寄せた。飢えきった熱に、夜の空気がまとめて届いた。
火担当の掌から放たれた火は、まっすぐ伸びなかった。
彼の全身を飲み込むほど膨らんだ。
行き場を求めていた全部の火が、空気の来た道を逆に走り、撃ち手を呑んだ。閃光が空洞を白く塗り、音が遅れて来た。火担当の立っていた場所に、火柱が立っていた。
「——何をしている!」
声が、割れた。
「火を消せ! 水だ!」
土担当が魔法を中断し、黒い虫食いが、一斉に消えた。
組みかけの砲身が光を失い、崩れて、ただの土くれになって床に降った。土担当は両手を火柱へ向け、水を——生まれたての、まだ形の定まらない水の塊を——続けざまに浴びせた。一度、二度、三度。火柱が倒れ、湯気が立ち、湯気の中に、黒く焼けた男が膝から落ちた。
土担当は、駆け寄って、まだ燻る肩に水を注いでいた。作りかけていたものの残骸が、その足元に土くれのまま散らばっていた。誰も、それを拾わなかった。
焼けた男が、床の上で、口を動かした。
「……教えてくれ……」
声は、煙と一緒に漏れた。
「……俺の魔法の、何が間違っていたんだ……お前の魔法は……一体なんなんだ」
コートの男は、答えた。
「……今のは、ただのファイアボールだ」




