襲撃
「自転車って、免許いります?」
冒険者ギルドの窓口で、早鐘はそう切り出した。
「……ジテンシャ?」
窓口の男は、聞き返して、それから何も即答しなかった。台帳を一冊出して、繰って、戻して、別の一冊を出した。
この娘の「大丈夫だと思ってました」が過去に何をやらかしたか、ギルドは忘れていなかった。城に、魔法薬に、ゴーレム軍団。慎重にもなる。
「車輪が二つで、人が乗って、漕ぐんです。荷台をつけて、近所の配達に——」
「魔導具か?」
「違います。ただの、乗り物」
「動力は」
「足」
男は、三冊目の台帳を出した。
ボルダーは、少し離れた壁際で、そのやりとりを眺めていた。公判まで、あと十日ない。判例の読み合わせは今夜も残っているし、つっかえる箇所も残っている。その依頼人兼被告人は、窓口に身を乗り出して、飛べない子の仕事を作ろうとしていた。
「あの、裁判とか、大丈夫なんすか」帰りぎわ、つい訊いた。
「まー、なんとかなるって」早鐘は、荷物を抱え直した。「期末テストも、一夜漬けでなんとかなったし」
「なんとかなったんすか」
「三回に二回は」
「三回に一回はどうなったんすか」
「補習」
夕方の通りは、店じまいの匂いがした。露店の屋根が畳まれていく間を抜けていくと、顔見知りの冒険者が向こうから手を上げた。傷持ちの、聞き取りの紙に名前を書いていった一人だった。
「よう、ポーションマスター。裁判、傍聴行くからな」
「ひやかしだったら断りまーす」
「差し入れ持ってく」
「なら許します」
それだけの立ち話で、男は行った。早鐘は少し笑って、歩き出した。ボルダーも並んで歩き出し——三歩目で、止まった。
懐に、手紙があった。
「……あ」
「どうしました?」
「忘れ物っす。ギルドに届けるやつ」ボルダーは懐から封筒を出した。署の印の入った、堅い封筒だった。「この前、街に潜り込んだモンスターを退治してくれた冒険者がいて。感謝状が出るんす。その通知、俺が預かってて」
窓口の目の前まで行って、渡さずに出てきてしまった。彼女の自転車問答を眺めているうちに、自分の用を忘れていた。とは、言わなかった。
「戻って渡してくるんで。先、帰っててください」
「はーい。ドーナツ出しときますね」
「十号っすか」
「十一号。自信作」
早鐘はひらひらと手を振って、店のほうへ歩いていった。ボルダーは封筒を握って、ギルドへ駆け戻った。振り返らなかった。振り返るような別れでは、なかった。
窓口に封筒を渡して、受領の判をもらって、外に出た。それだけの用だった——が、ギルドの階段の下に、見慣れた仏頂面が立っていた。
「タダノフさん?」
「ちょうどいい」男は答える代わりに歩き出した。「早鐘のところへ行く」
「え、俺もっすけど。……なんでまた」
「またあいつのゴーレムを借りる。人手が要る」
人海戦術の捜査らしかった。
この二ヶ月、タダノフがろくに署に居着かず、例の連続焼死体の件を追っているのは、ボルダーも聞いていた。中身は、聞かされていなかった。並んで歩きながら、一度だけ訊いてみた。
「そっちの山、どうなんすか」
「……部屋が、ひとつ焼けてな」
「放火っすか」
「わからん、殺意のない火だ」
「はい?」
タダノフは、それきり答えなかった。
考え事の横顔は、いつもの仏頂面より二割ほど深かった。
夕方の空が、少しずつ暗くなっていく。通りをふたつ抜ければ店、というあたりで——
タダノフが、言葉もなく、止まった。
顔が、上がっていた。鼻が、先に何かを読んでいた。
ボルダーは、その横顔を見た。見た瞬間、なぜか先に、足が出ていた。
* * *
店の扉が、開いていた。
半分だけ。閉め忘れという開き方ではなかった。焦げの匂いがした。ドーナツの揚がる焦げでも、珈琲の煎りでもない。もっと太くて、もっと黒い、物の焼ける匂いだった。
「早鐘さん?」
返事は、なかった。
後ろで、タダノフが立ち止まったのが分かった。入ってこない。構っている余裕は、なかった。
店の中は、静かだった。棚が一列、黒く焼けてただれ、壁に煤が大きく掃いたように伸びている。火はもう、どこにもなかった。外にも漏れていない。騒ぎも、人垣もない。焼け跡だけが、誰にも知られずに、そこにあった。
その床のまん中に、黒いものが、うずくまっていた。
人の、大きさだった。
「早鐘さん!!」
ボルダーは駆け寄った。膝をついた。名前を呼んだ。呼びながら、抱き起こしていた。黒い表面が腕の中で崩れて、指と袖が煤にまみれた。
熱が、じんわりと伝わってきた。呼んだ。もう一度呼んだ。声が、店の中で、行き場をなくして落ちた。
やがて腕の中で、黒いものに、ひびが走った。
割れ目から、白い湯気が噴いて——焼きたての、パンの匂いがした。
「ぷはー」
黒い殻が、ぼろりと割れた。湯気と、白い粉のなかから、娘が顔を出した。頬に煤がひとつ。それだけだった。
「……あー、びっくりしたー」
こんがり焼けた殻から出てきた第一声が、それだった。
ボルダーは、声が出なかった。
戸口に、影が差した。タダノフが立っていた。敷居はまたがず、外から店の中を——床の焦げを、壁の煤を、割れた殻を、順番に読んでいた。何も、言わなかった。
「いやもう、ほんとびっくりした。ただいまーって入ったら、いきなり熱っ! てなって。とっさにパン被っちゃった。
前みたいに、何もできずに捕まるの悔しいから、練習してたんだけど。パンの外がずーっとあっついの。けっこう長かったなあ」
娘は殻の残りを押しのけて、埃を払うみたいに粉を払った。
「ボルダーさんの声がするまで、ずっと出れなかった。あ、私は酸素とか作れるから、息はできてたけど」
ボルダーは、まだ声が出なかった。
肩を掴んだ手が、離れなかった。離し方を、手が忘れていた。
「……ボルダーさん?」
「…………ぶ、」声は、出た。出たが、自分の声ではないみたいに、ひしゃげた形をしていた。「無事、っすか」
「無事ですよ? ほら、煤だけ」
早鐘は頬の煤を指でこすって、余計に広げた。それから、自分の肩の上の手と、その手の主の顔を、順番に見た。
何かを言いかけて、やめた。
やめて、そのまま、じっとしていた。手が離れるまで、動かなかった。
手が離れるまでには、しばらくかかった。
床に、帳面が落ちていた。カウンターから飛んで、煤の上に開いて伏せていた。ないしょ、の帳面だった。ボルダーはそれを拾い上げて、表紙の煤を袖で拭いた。
拭く手が、まだ震えていた。
拭き終わっても、震えていた。




