準備期間
期日は、二ヶ月先に決まった。
裁判所から届いた書面には、日付が一つと、遅れることは許されないという意味の文言が、堅い言葉で書いてあった。早鐘はそれを工房の壁に画鋲で留めて、赤丸で三重に囲った。丸は日に日に増えて、いまは五重になっている。
店は、三時に閉まる。
文房具雑貨と、石鹸と、シロップ。それに近ごろは、焼き菓子とコーヒーが加わった。朝に開けて、昼を回って、三時に閉める。仕込みがあるからだと本人は言うが、夕方の工房で仕込みより先に広げられるのは、たいてい判例の写しだった。
ボルダーが店に着くのは、いつもその後だった。
「見回りっす」
と、毎回言った。
「はい、ごくろうさまです」
と、毎回返された。誰も、それ以上は言わなかった。見回りにしては同じ店にしか寄らないとか、見回りにしては私服だとか、言えることは幾つもあったが、店主は言わなかった。ボルダーも、考えないことにしていた。
カウンターには、決まってドーナツとコーヒーが出た。警察の方はこれですよね、と最初の日に出されて、よく分からないけど否定する理由も見当たらないので、そのままになった。ドーナツは日ごとに形が良くなった。試作二号、と言われて食べた日もあれば、七号を三つ食べた日もあった。番号が飛んだ日のことは、聞かないことにしていた。
それから、夜まで手伝った。
図書館から借り出した判例の綴りを、ひと抱えで運ぶ。棚を作る。読み合わせに付き合う。読み合わせは、たいてい同じ場所で止まった。
「わたしの署名は、たんせ……単声・不分割……ふぶんかつ、であり……」
「そこ、昨日もつっかえてました」
「うるさいなあ! 言えてるでしょ、ちゃんと! だいたいこの字が悪いんですよ、細かくて、びっしりで……」
紙に向かって文句を言うわりに、彼女はその紙を、指の腹でしわ一つ立てないように扱った。ページを繰る手つきだけが、文句と別のことを言っていた。ボルダーは、それも見ないことにしていた。見ないことが、この店では礼儀のような気がした。
* * *
砂糖の匂いは、ボルダーを、いつも同じ場所へ連れて行く。
ガキの頃だ。親に連れられて行った、隣街のショッピングモール。吹き抜けの広場に揚げ菓子の屋台が出ていて、その紙袋を抱えたまま、ボルダーは人垣の後ろにいた。同い年より頭ひとつ大きかったから、後ろからでも、大人たちの肩越しに、店の奥が見えた。
悲鳴は、宝飾店のほうから上がった。
強盗だった。人質を取って、店の奥で刃物を振り回して、大人たちは遠巻きに、誰も動けなかった。ガキのボルダーにも、動けない理由まではわからなかった。わかったのは、その人垣の前列に、コートの男が一人、立っていたことだ。
男は、走らなかった。叫びもしなかった。ただ、投げる構えを、静かに取った。
紅蓮の炎が、一本、通った。
人垣の隙間を、陳列棚の角を、人質の肩の上を。触れてはいけないもの全部を華麗に避けて、刃物の男の手元だけが、ぽんと爆ぜた。悲鳴と、煙と、拍手。紙袋の中で揚げ菓子が冷めるのも忘れて、ボルダーはその一本の軌道を、いつまでも目の裏で再生していた。
「ファイアボールなんて鍛えても潰しがきかないぞ」、とは、それから先、何度も言われた。
火の魔法は、戦いから退いたら行き場がない。焼くだけの力を雇う職場は、世の中に数えるほどしかない。周知の事実というやつで、教官にも言われ、親にも言われ、配属の挨拶に行った日には、当の本人にまで言われた。
言ってから、本人は、頭をぽりぽりと掻いた。
「まあ、潰しがきかないから、俺も警察になるしかなかったんだが」
それでも鍛えたのは、あの一本が忘れられなかったからで——結局、魔法の才に目覚めるより先に、体の方が強くなった。
火はロウソクほどしか出せないが、殴り合いでは負けたことがない。高卒でそのまま警察に入ったのは、あの一本の隣に立ちたかったからだった。
署に入って、過去を聞いた。
あの火が、もともと何のために、誰を殺すために鍛えられたものだったのかを。
ボルダーは、ますます好きになった。
なぜ「ますます」なのかは、考えたことがなかった。
* * *
「俺、ガキの頃、タダノフさんに会ってるんすよ」
試作九号の日に、ボルダーはその話をした。モールの人垣。一本の火。手元だけが爆ぜて、人質はかすり傷ひとつなかったこと。
早鐘は、ドーナツの粉砂糖を指につけたまま、聞いていた。
「……それって」聞き終えて、彼女は言った。「ガンダルフさんを狙ってた、練習の成果ってことだよね」
「そうっすね」
「うーん」早鐘は、天井を見た。「私、そのカッコよさが、よく分からないのよね……たとえば、不真面目な人が更生するのって、そんなに偉いかなぁ。最初からずっと真面目に頑張っている人の方が、ずっと偉いでしょ?」
「そんな風に言う?」
「けどさ、タダノフさんって、本当はずっと真面目だったんじゃないかって思うのよ……魔族が戦争で降伏して、それに従っている人たちが偉いのかとか、私はピンとこない。でも、普通のファイアボールじゃないのは、カッコいいと思う」
「でしょう」
ボルダーは、胸を張った。自分のことのように、というより、半分くらいは自分のことのつもりだった。
* * *
人は、来た。
最初は、常連の婆さんだった。膝の薬を、ずっと早鐘のポーションで済ませていたという婆さんは、閉店後の店に杖をついて現れて、裁判とやらに出て話をしてやる、と言った。
「あんたのは85円で、よそのは八千円だった。85円が罪なら、八千円は何なんだい。あたしゃそれを、お偉いさんの前で言ってやりたいんだよ」
「い、いや、それ、たぶん争点じゃ……」
「言ってやりたいんだよ」
婆さんは言い張って、聞き取りの紙に、几帳面な字で名前を書いて帰った。
冒険者も来た。一話の城の下で腰を抜かした顔ぶれや、ポーションで命を拾ったという傷持ちの男たち。誰も彼女が無許可だなんて知らなかった、知ってたら教えてた、それだけの話だ——と、口々に同じことを言い、聞き取りの紙は、綴りが二冊目になった。
子どもは、礼を置いていった。店先に、掘ったばかりの芋が置いてあった日がある。誰の字ともつかない、ありがとうとだけ書いた紙が挟まっていた日がある。金を置いていく者は、一人もいなかった。置いていく理由が、まだ誰にもなかった。
腕章の子らも、顔を出した。
早鐘飯店・空とどけ。羽根の音を店先に降ろして、箱を背負ったまま、売り上げだの新しい届け先だのを、口々に報告していく。景気の話は、半分より少し下を向いていたが、羽根のほうは、みんな上を向いていた。
その日は、羽根のない子が、一人まじっていた。
配達組の弟分だという、獣人の子だった。耳を伏せて、隅で棚の石鹸ばかり見ている。翼の仕事の話が続くあいだ、その子だけが、話の外にいた。
早鐘が、ひょいと、その子の前にしゃがんだ。
「ねえ、君。重いもの、どれくらい持てる?」
「……え?」
「あと、冷たいの、出せる? お水の魔法で」
「……出せる、けど」
「おお、冷凍宅配ができるじゃん」
早鐘は立ち上がり、カウンターの帳面を引き寄せて、何かを書きつけた。獣人の子はきょとんとし、風の子らもきょとんとし、ボルダーもきょとんとした。帳面は、ぱたんと閉じられた。
「なんすか、いまの」
「んー? ないしょ」
* * *
公判まで、あと十日を切った。
閉店後の店には、灯りが点いている。綴りが二冊、壁の書面には赤丸が五重、カウンターにはドーナツの箱。杖の婆さんが帰り、羽根の子らが屋根から飛び立ち、読み合わせの声が、また同じ場所でつっかえる。
「単声・不分割、であり……」
「そこっす」
「言えてる! いまのは言えてる!」
夜の通りに、店の灯りが、細長く伸びていた。
ボルダーは、その灯りの中で、判例の綴りの三冊目に、背表紙を貼っていた。




