前夜
屋敷は、広すぎた。
部屋が六つに、物置がふたつ。庭には井戸まである。前に住んでいた小屋は違法建築で取り壊しになって、途方に暮れていたら、冒険者ギルドが口を利いてくれた。あの子のポーションには世話になったから、と。家賃は驚くほど安かった。広さは、驚くほど広かった。
一階は、半分が店で、半分が工房だった。
薬棚だけが、空だった。作るな、と言われている。石鹸と、シロップと、焼き菓子の棚は賑やかなのに、そこだけ器具ごと磨いて仕舞われて、埃よけの布を被って眠っている。店じまいのあとの工房の、まん中の大机が、今夜は紙で埋まっていた。
弁護の紙だ。
「わたしの、署名は……たんせい。単声、であり……ふ、不分割……」
早鐘アイヤは、紙を目の高さに掲げ、行きつ戻りつしながら音読していた。十回読んで、十回つっかえた。
——難しい言葉は、丸呑みしなくていい。事実を、順番に。
もふもふの先生は、そう言った。言ったそばから紙にはびっしり難しい言葉を書いた。丸呑みしなくていいと言われると、丸呑みしたくなるのが人情だった。明日はこれを、本物の裁判官の前で言うのだ。つっかえたら、たぶん、笑われる。
呼び鈴が鳴った。
柱時計を見た。夜の九時を、回っていた。
こんな時間に届く用事に、いいものはない。それくらいは、この街で学んでいた。早鐘は紙を置き、廊下を抜け、扉の覗き窓に片目を寄せた。
仏頂面が、立っていた。
一人だった。
「……タダノフさん?」
扉を開けると、夜気と一緒に、雨上がりの匂いが入ってきた。仏頂面は、いつもの仏頂面より、さらに何かを引き結んでいた。ボルダーさんは、と聞きかけて、やめた。この人が一人で、この時間に、うちに来る。その並びのどこにも、いいものがなかった。
「夜分にすまない」
「あ、はい。あの、どうぞ——」
「ここでいい」
男は、上がらなかった。玄関の三和土に立ったまま、まっすぐにこちらを見た。
「アブラモフが、逮捕された」
言葉は、耳までは届いた。
そこから先に、進まなかった。
「……え?」
「潜伏中の犯人を、治療した。それが罪に問われた」男は、同じ速さで続けた。「警察で事情聴取を受けている。明日の裁判には、出られない」
「え、えっと」早鐘は、笑おうとした。「それ、何かの間違いじゃ。だって先生、弁護士さんですよ? 法律とか、めちゃくちゃ詳しいんですよ?」
「間違いじゃない」
「だって——」
「すまない」
男は、頭を下げた。
「逮捕したのは、俺だ」
三和土の上で、深く、下げたままだった。
早鐘は、その旋毛を見ていた。
見ているうちに、言葉の意味が、遅れて届いた。もふもふの先生は、捕まった。連れて行ったのは、この人だ。明日、先生は来ない。あのしっぽは、来ない。この街で初めてできた、味方のはずの人たちが——ひとりが、ひとりを、連れて行った。
「…………」
息を、吸った。
「————バカーー!!」
こぶしが出た。下げられた頭の、届く場所は肩しかなかった。ぽかぽかと、二度叩いた。石像を叩いたほうが、まだ手応えがあった。
「もふもふかえしてよーーっ!! わたしの、もふもふ!! 明日なんだよ!? 裁判、明日なんだよぉ!!」
男は、避けなかった。
弁明も、しなかった。ただ叩かれて、そこに立っていた。
叩く手が、先に疲れた。早鐘は肩で息をして、涙目で仏頂面を睨み上げた。仏頂面は、頭を上げて、睨まれていた。
「……もう、信用ならない!!」
声が、廊下に響いた。
「あなたも、警察も、この世界の法律も、ぜんぶ!! もういい!! 一人で出てやる!!」
言ってから、自分の言葉に、自分で驚いた。
男は、驚かなかった。
「弁護人がいなければ、開廷はできない」と、男は言った。手続きの声だった。「中止と延期は、決まったようなものだ」
「じゃ、じゃあ、延期して!! その間に、じ、自分で……自分で弁護する準備、するから!!」
「準備は、どれだけ要る」
「い、一ヶ月……」指を一本立てて、その指を見て、「いや、二ヶ月!!」
「二ヶ月で、大丈夫か」
「さ、三ヶ月!!」
男は、それ以上聞かなかった。小さく、顎を引いた。
「日取りは、裁判所が決める。願い出ておけ」
「言われなくても!!」
早鐘は腕を組んで、そっぽを向いた。向いた先の壁を、涙がにじんで、ゆがめた。まばたきで、押し戻した。
「……夜分に、すまなかった」
男は、それだけ言って、背を向けた。
扉に手をかけて——止まった。
懐から、何かを出した。綴じた、紙の束だった。厚くて、角の揃った、重そうな束。男はそれを、玄関脇の靴箱の上に、静かに置いた。
何も、言わなかった。
扉が閉まって、足音が、雨上がりの道を遠ざかっていった。
早鐘は、しばらく動かなかった。
それから、そろそろと近寄って、束を見下ろした。
表紙に、字があった。
几帳面で、少し丸い、癖のある字。十回つっかえた紙に、びっしり並んでいたのと、同じ字だった。丸呑みしなくていい、と言ったくせに、びっしり書く字だった。
早鐘は、開かなかった。
開けなくても、誰の字かは、分かった。
窓の外で、また細い雨が、降りはじめていた。
早鐘は束を両腕に抱えて、灯りの点いた工房へ、戻っていった。




