告白
湯呑みが、最初から二つ、出ていた。
机の上は片付き、書類は綴じられ、椅子の背に上着が掛けてあった。夜の事務所は、旅支度の済んだ部屋に見えた。
「来ると思っていたよ」アブラモフは茶を注いだ。「掛けたまえ」
タダノフは掛けた。茶には、手をつけなかった。
「遺体は、フードルだった」
「新聞で読んだ」
「死因は火傷じゃない。背中の刺し傷だ。火は、その後だった」
「……そうか」
タダノフは、順に置いていった。乾いた、手続きの声だった。
「深部撮像をやった。真皮に、古い焼き印が残っていた。俺の署名だ。あいつが失脚した晩、古城で深く刻んだ一発だ。それが、遺体の身元を裏書きした」
アブラモフは、動かなかった。
「その上に、もう一層あった。治療の層だ。火傷は一度、完全に治されている。カルテを照会した——記録がない。魔力痕検査を経ていない、違法施術だった」
「……」
「俺は、闇医者の出口を全部張っていた。フードルが逃げた晩からだ。半月経っても、誰も落ちてこなかった。……誰かが突発的に回復魔法を使ったんだ」
アブラモフは、遮らなかった。弁護士が、組み上がった立証を聞く姿勢で、最後まで聞いた。
聞き終えて、静かに言った。
「だが、それは状況証拠にすぎないね」
試すような声だった。
「回復魔法の痕跡は、日数が経過するほど、証拠としての根拠が薄くなってゆく。生きた細胞は、常に変化し続けるからだ。それが誰のものか同定できるほど、はっきりした痕跡は——見つからなかったのではないか?」
「ああ、見つからなかった」タダノフは頷いた。「さらに上からソテーで焼かれていた。はっきり分かったのは、回復魔法の種類ぐらいだった」
「だろうね」
「あの高架下で回復魔法を使ったのが誰なのか。容疑者は、聖護士会のパーティの出席者に絞られた」
「出席者は大勢いたよ。回復魔法の使い手も、大勢」
「ああ。だが、そいつらには無理だ」タダノフは言った。「無理なんだ……あの高架下は、あの時刻になると、隣のビルが消灯して、光がほとんど届かなくなる。
監視カメラの映像にも、光源はなにひとつ映っていなかった。
傷口も見えない暗闇の中で、治療はできない。たった一人——あのとき、あの場所で、犯人の顔を見ることができたのは」
タダノフは、そこで初めて顔を上げた。
「アブラモフ。獣の目を持っている、お前だけなんだよ」
長い沈黙があった。
アブラモフは湯呑みを両手で包み、その中を見ていた。それから、ひとりごとのように言った。
「……そうか。あの男には、私が見えていなかったのか」
誰に向けた言葉でもなかった。
「道理で、最後まで一言も……礼を言わなかったのは、誰に言えばいいか、分からなかったからか」
湯呑みの中の茶が、小さく揺れて、静まった。
「いつから、私だと気づいていた?」
「最初に話した時だ……お前は事務所に入って来た早鐘を見た瞬間に、そいつがお前の弁護対象だとわかった……ひょっとすると、お前はどこかでフードルの傷を見て、俺が事件に絡んでいることを知っていたんじゃないかと思っていた」
アブラモフは、しばらく黙った。何かを数え直すように目を閉じ、開けた。
「……そうか」ゆっくりと、頷いた。「あの日、あいつを見なかったか二度訊いてくれたのは、そういうことか……鈍くて、すまないね」
タダノフは答えなかった。答えの代わりに、折り畳んだ紙を机に置いた。
「逮捕状が出ている。違法施術と、犯人蔵匿だ……フードルについて、署で証言を聞かせてもらう」
アブラモフは令状を開かなかった。書式なら、彼のほうがよく知っていた。
「今回の連続殺人犯は、奴じゃなかった」タダノフは言った。「だが、それでも、どうしようもない悪党だった。——どうして、彼を助けた?」
アブラモフは茶を一口飲み、湯呑みを置いた。
「戦争のころの話だ」
静かな声だった。
「私の村は、獣人の村でね。私は回復術師をやっていた。戦の終わりごろ、人間の軍が来た。半日で、一族の半分が死んだ。逃げ場のない谷だ。翌る日には、残りの半分の番だった」
「その晩、雷が来た」
「軍神フードル。子どもの頃に聞かされた神話の、そのままの姿だった。竜を殺して、川の水を取り戻す神様だ。谷に入ってきた軍は、朝までに、いなくなっていた」
「戦のなりゆきだったんだろう。あの人は、村の名前も知らなかったと思うよ。礼を言いに行った者もいない。言える相手でもなかった」
「そのあと、魔族は戦争に負けて、あの人は人間の側へついた。年々ひどくなっていくのを、遠くから見ていた。……それでも、私の一族の半分は、あの雷に生かされた命だ。私も、その一人だよ」
語り終えても、タダノフはしばらく黙っていた。
それから、訊いた。
「アブラモフ。お前はやはり、人間が憎いのか」
アブラモフは、答えなかった。
「お前も、俺がガンダルフを倒すことを、望んでいるのか」
獣人の目が、こちらを見た。何を訊かれているのか、それだけで分かった目だった。
「私がお前の弁護を買って出たのに、人種や戦争なんて、どうして関係するというんだ」
呆れたような、やわらかい声だった。
「お前の火はまっすぐで美しかった。たとえ暗闇の中でも、私を導いてくれそうな気がした。だから私はお前に賭けた。——それだけだよ」
タダノフは、何も言わなかった。
自分の指先を見ていた。豆粒ほどの火を点す、その先を。火は、点していなかった。
アブラモフは立ち上がり、机の引き出しから、綴じた紙の束を出した。
「早鐘くんの分だ。弁護の組み立ては、全部ここにある。稽古は、つけてある」
タダノフは束を受け取った。ずっしりと、重かった。
「行こうか」
アブラモフは椅子の上着を取った。タダノフは机の令状を、開かないまま懐へ戻した。
「執行はしない」タダノフは言った。「自分で歩いてくれ。——出頭なら、扱いが変わる」
アブラモフの足が、一拍、止まった。
法律家だ。その一言が量刑の帳面のどこに載るか、誰よりも早く読める男だった。読み終えて、それから、深く、長い一礼をした。言葉は、足さなかった。
アブラモフは壁の米十字に一礼し、事務所の灯りを消した。
二人は、夜道へ出た。並んで、歩いた。
手錠は、どちらのポケットからも、出てこなかった。
* * *
署の受付にアブラモフを引き渡すと、夜は、もうだいぶ深くなっていた。
帰り道の角に、電話ボックスが立っていた。
タダノフは硬貨を落とし、番号を回した。長い呼び出しの末に、眠っていない声が出た。
「……こんな時間に。刑事さん、あんた暇なの」
「網は、畳んでいい」
「ん。聞いた」受話器の向こうで、衣擦れの音がした。「ご愁傷さま、って言えばいいのかね、こういうときは」
タダノフは、少しの間、黙っていた。
「それと——あいつを殺す件、やっぱり止めにするよ」
今度は、向こうが黙った。
理由は、訊かれなかった。
「そ」と、イマノワは言った。「……じゃあ今度は、ただの飯にしよっか」
「ああ」
電話は、それで切れた。
ボックスを出ると、細い雨が降りはじめていた。
タダノフは、濡れて歩いた。




