事務所
タダノフからの報せは、三日前に届いていた。
——ちょっと訳ありの奴を連れて行く。
それだけだった。あの男の文は、いつもそれだけだ。だが、アブラモフには、それで足りてしまった。
高架下の夜のにおい。あの火の署名。
あの警部が逃げる前に探していたという、転生者の娘の弁護士。
それらの点を並べれば、引ける線は一本しかなかった。
訳ありの奴——つまり、あの警部が弁護士を見つけられなかった、転生者の事だ。
断る理由を、三日かけて探した。見つからなかった。
約束の刻限に、事務所の呼び鈴が鳴った。壁の米十字の下で、アブラモフは茶の支度の手を止め、扉を開けた。
「もふもふだーっ!」
声と、重さが、同時に来た。
娘が一人、毛皮に飛び込んできていた。遠慮というものを知らない両腕が、首まわりの一番ふかふかしたところへ、迷いなく巻きついてくる。生きて、温かくて、重かった。
「こらこら、おりなさい。これから私が君の弁護士になるんだから」
「ええーっ!? 弁護士なの!? このもふもふが!?」
「早鐘、あんまり失礼なことをするな」
娘の後ろで、仏頂面が言った。言いながら、止める気配は薄かった。娘は毛皮に頬を埋めたまま、はぁ〜、と幸せそうな息を吐いている。
この温かさを、と、アブラモフは思った。思って、やめた。
「まあ、お入り。茶が入る」
応接の椅子に、二人を座らせた。娘は座ってからも、しっぽの行方を目で追っている。仏頂面のほうは、茶に口をつけず、切り出した。
「早鐘アイヤ。転生者だ。魔法薬の無許可製造販売で、裁判になる」
「一本85円ですよ!?」娘が身を乗り出した。「儲けてないんですよ、私! なのに罰金20万て、どういう算数なんですか!?」
「初犯で、実害はない。だが、戸籍がない」男は娘を無視して続けた。「不法移民の扱いだ。どの法も、こいつを守らない」
「ふむ」
「裁判ではすでに不利な状況だ。だから、いい弁護士が要る」
男はそこで言葉を切り、それから、頭を下げた。
深くはない。角度だけなら、会釈に毛の生えた程度だ。だが、この男の首が人のために曲がるところを、アブラモフは数えるほどしか見たことがない。
「……頼めるか」
昔、この部屋で、同じように頭を下げた男がいた。
* * *
年季の入った刑事だった。捕まえた側の人間が、弁護士を探して、獣人の事務所まで足を運んできた。差し出された調書の、種族の欄を、アブラモフは二度読んだ。
「ピグマリオン……知らない種族だな」
「そいつは、魔法競技世界大会の会場でガンダルフを暗殺しようとした。会場内に仲間を分散させて魔力結晶を持ち込ませ、史上最大のファイアボールを撃つ計画をしていた」
「ふむ……完全な計画犯罪か……弁護するとしたら、過去の経歴が事件にどう絡むか、になるけど」
「そいつはガンダルフが半島を消したとき、一族のほとんどをその島ごと失っている」
「……」
「復讐だ」
「そうか」
帰りぎわに、刑事は言った。
「あいつは、出来たら俺の元で働かせたい」
「本気か? 計画殺人の容疑者だぞ」
「そうかもしれない。あいつの火は、殺意で真っ黒だ。ただ——」
* * *
「——で、しっぽは触っていいんですか?」
娘の声で、部屋が戻ってきた。仏頂面は頭を下げた姿勢のまま、返事を待っている。茶が、まだ湯気を立てていた。あれから、数えるほどの息しか経っていないらしかった。
「ふむ」アブラモフは、湯呑みを娘の前へ押しやった。「引き受けよう。——彼女さえ、よければだけど」
「もふもふ先生がいい!」
「発言が最悪だぞ、お前」仏頂面が言った。
「決まりだ」アブラモフは笑った。笑う分には、造作もなかった。「なら、今度、君の作ったものを見せてもらおうか。話は、それを確認してからだ」
「じゃあ蜂蜜持ってきますね!」
「押収済みだ」と仏頂面。
「じゃあ新しく——」
「作るな」
娘がしゅんとして、しっぽの毛だけそっと一撫でして、二人は帰っていった。扉が閉まると、客の去った部屋は、急に広くなった。
湯呑みが三つ、残っていた。
棚には、分厚い法書が据わっている。この国のすべての決まりが詰まった、黒い背表紙だ。その隣に、同じくらい傷んだ聖書が並んでいる。
アブラモフは長いこと、その並びを見ていた。
それから、冷めた茶を片付けた。




