高架下
夜気が、毛皮に心地よかった。
アブラモフは鼻歌まじりに、深夜の道を歩いていた。
人間の法律家たちのパーティは、いつものように長く、いつものように賑やかだった。獣人の聖護士は珍しがられ、よく注がれる。断らない質だった。おかげで足が、右へ左へ、機嫌よく揺れている。
聖護士という商売は、種族を選ばない。おもに魔導士に嫌疑をかけられた者を法廷で弁護する。
人間の依頼人、魔族の依頼人、獣人の同業。付き合いは方々へ伸びて、夜はこうして長くなる。悪い夜では、なかった。
ただ、ひとつだけ、済ませていないことがあった。
黙とうだ。
人間は、あの鐘が鳴っても黙らない。杯も置かなかった。
責める気はない。彼らの暦の日ではないのだから。ただ、鐘が鳴ったとき、アブラモフは笑い話の途中で、笑ったまま、やり過ごした。それだけのことが、酒の底に、小さく沈んでいた。
高架下に、寄った。
入り組んだ柱の奥は、車の音も遠く、人気がなかった。街灯の届かない暗がりで、アブラモフは足を止め、目を閉じた。
魔族にとっての聖地。
初代魔王の築いた魔王領、竜の息吹に包まれた暗黒斑が存在していた、アンドラハル半島。
その半島が、地図の上から消された時間だった。
遅れた分だけ、少し長く。
黙祷を終えて、目を開けた。歩き出そうとして——先に、においが来た。
焼けた傷の、古いにおいだった。焦げの名残に、手当てを知らない膿がまじっている。そして、その奥に、火が残っていた。においの粒にも、魔力は宿る。読み手の鼻は、酔っていても、読んでしまう。
知っている火だった。
柱の陰に、男が一人、座り込んでいた。
右腕を抱え込むようにして、壁にもたれている。上等だったはずの服は汚れ、顔は削げていた。それでも、見間違えようがなかった。
大魔導フードルだった。
男は、逃げなかった。立ち上がる力が、もう残っていないように見えた。ただ、こちらを見上げた。その目に、大魔導の紫はなかった。追い詰められた獣が、雨を見る目だった。
噂なら、聞いていた。警視庁の警部が、帳簿の怪しい穴ごと消えたこと。何か、よほど後ろ暗いことがあったらしいこと。
少し前から、無自覚のチートだという転生者の娘が界隈の話題で、その娘の弁護士を、この男が探し回っていたこと。弁護士の世界は、狭い。悪い想像なら、考えつく限り、もう済ませてあった。
そして、あの火傷。
火傷にまとわりつく怨霊のような魔力痕を見たアブラモフの中で、二つの絵が浮かんだ。
一枚。この男が何かをやらかし、警察に追われ、あの火の持ち主に撃たれた。
もう一枚。あの男のほうが、この男の腐敗に我慢をしくじって、撃った。
二枚目なら、と、酔いの残る頭が考える。
この傷は、刑事が上司を撃った証拠でもあった。
どちらだ、と、目で訊いた。
フードルは、何も言わなかった。汚れた顔の中で、目だけが、哀れっぽく濡れていた。説明する気も、命乞いをする気も、ないらしかった。ただ腕を抱えて、座っている。
どちらでも、と、アブラモフは思った。どちらの絵でも、やることは変わらなかった。
この男を夜に置いていけない理由が、アブラモフには一つあった。誰にも、話したことのない理由だった。
「……見せてごらん」
アブラモフは膝をつき、汚れた袖を、そっとまくった。
聖護士になる前の彼の前職は、回復術師だった。今も手順を覚えている。施術の前に、魔力痕を採ること。カルテを起こすこと。
傷が誰の言葉を話しているか、消える前に写し取っておくこと——それが、この国の決まりで、彼が長く守ってきた作法だった。
採らなかった。起こさなかった。飛ばした工程のひとつひとつを、手だけが、静かに数えていた。
傷の上に、手のひらをかざす。
治すとは、灯すことではない。封じることだ。傷に巣くうもの——膿も、毒も、死にかけた肉も、ひとつずつ、細い呪いで括っていく。これは要らない。これも要らない。要らないものを、世界から一時、除けておく。除けられた場所に、毒でないものが、しみるように満ちてくる。
引き算を、狭く、細く、それしか残らないところまで研ぐ。
理屈ではない。獣人の手だけが知っている、直感の術だった。
半月、放って置かれた傷だった。皮の下で、あの火の署名が、まだはっきりと燃え残っていた。まっすぐな、澄んだ書き文字だった。消えはしない。深いところへ、押し込まれるだけだ。その上へ、アブラモフの署名が、静かに重なっていく。
傷がふさがり、地層が、できた。
腕が、腕の形へ戻っていく。焼け爛れた皮がほどけ、新しい皮が、下からしみ出すように張っていく。男は、声を上げなかった。痛みは、もうとうに、痛みでなくなっていたのかもしれなかった。
治り終えた腕を、フードルは一度だけ持ち上げ、指を握って、開いた。
それから、立ち上がった。礼も、説明も、一言もなかった。汚れた背中が柱の陰を離れ、夜のほうへ、遠ざかっていく。
アブラモフは、引き止めなかった。何も訊かなかった。何も、受け取らなかった。
柱の間を抜けていく足音が、消えた。
高架下に、一人になった。アブラモフは、さっき黙祷をした場所に、同じ姿勢で立っていた。今度は、目を閉じなかった。
鼻歌は、戻らなかった。




