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ファイアボール・キリング  作者: 桜山うす(J.I.A)
第三話 水魔法使いの聖護士
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高架下

 夜気が、毛皮に心地よかった。


 アブラモフは鼻歌まじりに、深夜の道を歩いていた。

 人間の法律家たちのパーティは、いつものように長く、いつものように賑やかだった。獣人の聖護士(クレリック)は珍しがられ、よく注がれる。断らない質だった。おかげで足が、右へ左へ、機嫌よく揺れている。


 聖護士という商売は、種族を選ばない。おもに魔導士に嫌疑をかけられた者を法廷で弁護する。

 人間の依頼人、魔族の依頼人、獣人の同業。付き合いは方々へ伸びて、夜はこうして長くなる。悪い夜では、なかった。


 ただ、ひとつだけ、済ませていないことがあった。

 黙とうだ。


 人間は、あの鐘が鳴っても黙らない。杯も置かなかった。

 責める気はない。彼らの暦の日ではないのだから。ただ、鐘が鳴ったとき、アブラモフは笑い話の途中で、笑ったまま、やり過ごした。それだけのことが、酒の底に、小さく沈んでいた。


 高架下に、寄った。


 入り組んだ柱の奥は、車の音も遠く、人気がなかった。街灯の届かない暗がりで、アブラモフは足を止め、目を閉じた。


 魔族にとっての聖地。

 初代魔王の築いた魔王領、竜の息吹に包まれた暗黒斑《ダークサイド》が存在していた、アンドラハル半島。

 その半島が、地図の上から消された時間だった。


 遅れた分だけ、少し長く。


 黙祷を終えて、目を開けた。歩き出そうとして——先に、においが来た。


 焼けた傷の、古いにおいだった。焦げの名残に、手当てを知らない膿がまじっている。そして、その奥に、火が残っていた。においの粒にも、魔力は宿る。読み手の鼻は、酔っていても、読んでしまう。


 知っている火だった。


 柱の陰に、男が一人、座り込んでいた。


 右腕を抱え込むようにして、壁にもたれている。上等だったはずの服は汚れ、顔は削げていた。それでも、見間違えようがなかった。


 大魔導フードルだった。


 男は、逃げなかった。立ち上がる力が、もう残っていないように見えた。ただ、こちらを見上げた。その目に、大魔導の紫はなかった。追い詰められた獣が、雨を見る目だった。


 噂なら、聞いていた。警視庁の警部が、帳簿の怪しい穴ごと消えたこと。何か、よほど後ろ暗いことがあったらしいこと。

 少し前から、無自覚のチートだという転生者の娘が界隈の話題で、その娘の弁護士を、この男が探し回っていたこと。弁護士の世界は、狭い。悪い想像なら、考えつく限り、もう済ませてあった。


 そして、あの火傷。


 火傷にまとわりつく怨霊のような魔力痕を見たアブラモフの中で、二つの絵が浮かんだ。


 一枚。この男が何かをやらかし、警察に追われ、あの火の持ち主に撃たれた。


 もう一枚。あの男のほうが、この男の腐敗に我慢をしくじって、撃った。


 二枚目なら、と、酔いの残る頭が考える。

 この傷は、刑事が上司を撃った証拠でもあった。


 どちらだ、と、目で訊いた。


 フードルは、何も言わなかった。汚れた顔の中で、目だけが、哀れっぽく濡れていた。説明する気も、命乞いをする気も、ないらしかった。ただ腕を抱えて、座っている。


 どちらでも、と、アブラモフは思った。どちらの絵でも、やることは変わらなかった。

 この男を夜に置いていけない理由が、アブラモフには一つあった。誰にも、話したことのない理由だった。


「……見せてごらん」


 アブラモフは膝をつき、汚れた袖を、そっとまくった。


 聖護士(クレリック)になる前の彼の前職は、回復術師(ヒーラー)だった。今も手順を覚えている。施術の前に、魔力痕を採ること。カルテを起こすこと。

 傷が誰の言葉を話しているか、消える前に写し取っておくこと——それが、この国の決まりで、彼が長く守ってきた作法だった。


 採らなかった。起こさなかった。飛ばした工程のひとつひとつを、手だけが、静かに数えていた。


 傷の上に、手のひらをかざす。


 治すとは、灯すことではない。封じることだ。傷に巣くうもの——膿も、毒も、死にかけた肉も、ひとつずつ、細い呪いで括っていく。これは要らない。これも要らない。要らないものを、世界から一時、除けておく。除けられた場所に、毒でないものが、しみるように満ちてくる。

 引き算を、狭く、細く、それしか残らないところまで研ぐ。

 理屈ではない。獣人の手だけが知っている、直感の術だった。


 半月、放って置かれた傷だった。皮の下で、あの火の署名が、まだはっきりと燃え残っていた。まっすぐな、澄んだ書き文字だった。消えはしない。深いところへ、押し込まれるだけだ。その上へ、アブラモフの署名が、静かに重なっていく。


 傷がふさがり、地層が、できた。


 腕が、腕の形へ戻っていく。焼け爛れた皮がほどけ、新しい皮が、下からしみ出すように張っていく。男は、声を上げなかった。痛みは、もうとうに、痛みでなくなっていたのかもしれなかった。


 治り終えた腕を、フードルは一度だけ持ち上げ、指を握って、開いた。


 それから、立ち上がった。礼も、説明も、一言もなかった。汚れた背中が柱の陰を離れ、夜のほうへ、遠ざかっていく。


 アブラモフは、引き止めなかった。何も訊かなかった。何も、受け取らなかった。


 柱の間を抜けていく足音が、消えた。


 高架下に、一人になった。アブラモフは、さっき黙祷をした場所に、同じ姿勢で立っていた。今度は、目を閉じなかった。


 鼻歌は、戻らなかった。

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